chapter.2 / 冷めた紅茶と枯渇した想い

 アンテリーゼは琥珀の相貌をかつてないほど険悪に細め、眉間に大きな皺を寄せた状態でインクが紙の上で滲んで広がるのも気にせず羽根ペンを片手に固まっていた。羽織っていた薄手のガウンが床にずり落ちたが構うものか。


 ユイゼルゼに指示を出し、今日の予定をすべて中止し、部屋に引きこもって今後の対策を練ることにしたのだが。


「困ったわ」


 彼女が淹れてくれた蜂蜜入りの紅茶もすっかり冷めてしまったし、何もいい案が浮かばない。

 アンテリーゼは指先でトントン、と机の上を叩いてみたが魔法のように解決策が現れるはずもなく長い溜息を喉の奥から押し出すしかない。


「正直に話してみて、何かいい方策を考えてもらうとかも、ダメよね」


 自分がこれまで婚約式当日に七回も死んで、今回が八回目なんだと言ってもユイゼルゼは一笑に臥すだろうし、婚約式が近づいて一時的に気分が沈んでいるだけですよ、と諭され相手にもされない可能性が高い。


「いっそのことエヴァンゼリンならわかってくれるかしら」


 昨年の冬の終わり、世紀の大恋愛と社交界を席巻した彼の春の女神と称される幼馴染であれば、お伽噺のようなくだらないこの真実を真剣に聞いてくれるだろうか。


「いいえ、ダメね。巻き込むわけにはいかないわ」


 彼女なら真剣に話せば、きっと間違いなく手を差し伸べてくれるだろうが、それが原因で心になにがしかの傷を負わせることはできない。失敗すれば死、何もしなくても死。話したところでよい解決策が遂行できなければ、自分は命を落としてしまうのはほぼ間違いないだろうから。

 アンテリーゼは結局、過去七回分の死の記憶を思い出したとしても便せんに書き並べてウンザリすることしかできなかった。


「なんなのよ、まったく」


 貴族令嬢らしからぬ悪態をつきながら、アンテリーゼはペンを机の上に放り投げ、片頬をついた。行儀が悪いと叱責する者は誰もいない。


 一回目は婚約式当日。婚約の証に交換する指輪の名前の刻印が、男爵令嬢のものになっていることに立会人の指摘で気づき、婚約式終了後マルセルに問い詰めるとあっさりと関係があることを自白した。絶望の末、マルセルの目の前でナイフで首を切り裂いて自決。


 我ながら勇気がある。


 二回目は婚約式後の夜会の最中、夜風に当たっていると男爵令嬢に背中を突き飛ばされて二階のバルコニーから落ちての転落死。


 最悪なことに、石畳の階段の上に落下する羽目になった上、転落してしばらくは意識があり、人目につかない場所だったため苦痛が長く続いた。


 三回目の死に方は婚約式当日の朝、お祝いだと男爵令嬢に手渡された花束に即死毒が仕込まれていたことによる死。


 花束を無理矢理押し付けられたことによって、仕込まれた毒針が指先に刺さって絶命するなんて間抜けすぎる。


 四回目は婚約式の後、マルセルと男爵令嬢の不貞行為を目撃し二階の窓から飛び降りて命を落とす。


 というか、婚約式のすぐ後にいちゃつくのはどういう神経しているのかしら。


 五回目の死は婚姻式当日話をしたいとマルセルに呼び出され、婚約解消を打診されるも拒否すると縊り殺される。


 憎悪に染まったマルセルの表情に、思い出すなり愛情という愛情は一気に消え去ってしまった。


 六回目の死に方は男爵令嬢と婚約式当日、会場前で口論になり髪飾りを喉に刺されたことによる失血死。


 高らかに笑いながら公衆の面前で自分を何度も刺し続けた男爵令嬢の狂気の表情が脳裏にこびりついて、今思いだしてもぞっとする。


 七回目は婚約式当日、会場で最後の打ち合わせをしていると二人が逢引していることを知り、ショックで階段から足を滑らせて後頭部を強打して死亡。


 一回目から七回目までの死因の一覧を見たが、それぞれに何と笑えない種類に富んでいることだろう。


「これまでの共通点を見ていくとマルセルとセレーネが私という婚約者がいながらに関係を深めていたというのは、多分今回もそうなのよね。今回だけそんなことはない、という確証もないわけだし。で、必ず婚約式当日になにがしかの方法で私は死んでしまうか殺されてしまうか、っていうところなんだけど」


 さて、どうしたものか。


 アンテリーゼはもう一度大きく息を吐くと、右手の薬指にはまった指輪を見つめた。

 婚約が決まった時、母は一番に喜んでくれ、その日の夜に祖母から継いだというこの指輪を嵌めてくれた。入浴の時を除いてほとんど身に着けた状態だったこの指輪。そして、今日、過去自分が七回も死んだ事実を思い出させ、今回が八度目だということを思い出させてくれた。


 これまでと一つだけ違うことがあるとするなら、死んだ記憶をすべて思い出したということだけだ。これまでの七回で、過去の死について思い出したことがあるという記憶は手繰り寄せてみても一遍も見つからない。


 それはおそらく、この指輪がきっかけのはずだ。


「そうだわ。指輪」


 本来なら今日マルセルと指輪を受け取りに行き、そのままその場で指輪を着けるはずだった。一回目から六回目までは式の前日まで指輪を着け、翌日の式のために指輪を会場に預けに行くというマルセルに一度手渡したのだ。思い返すと、なぜだかその時の彼の様子が奇妙だった。このまま明日まで着けていたいと申し出たのに、無くすといけないの一点張りで、その時は慎重な人だなと好感さえ持てたのに。


 恋は盲目とは言うが、その夢から覚めると奇妙さばかりが際立って見えるようになる。


「そういえば、一回目の時、刻印は私の名前ではなかったわよね。私は指輪をもらってから毎日つけっぱなしだったし。受け取りに行った時も遠目から確認するだけで、浮足立ってその場ですぐ着けてもらったから、細かな部分までは見ていなかった気がするわ」


 既にその時に、指輪が誤って男爵令嬢の名前を刻印したものにすり替わっていた、と考えるのは邪推のしすぎだろうか。


 七回目の直近の死の時はどうだっただろうか。


 確かあの時は、マルセルが勝手に一人で指輪を取りに行っていて、一緒に行くと約束したのに反故にされたことを詰った記憶がある。本番まで楽しみを取っておこうと宥めるマルセルに渋々頷いて、母から譲り受けた指輪を着けて、そのままの状態で階段から落ちて死んだ。


 アンテリーゼは右手の薬指にはまるその指輪をもう一度注意深く見たが、光に反応して星の刻印の奥にセッティングされている宝石がキラキラと輝くだけで、それ以外何か特別なことが起きる気配はなかった。


「共通点とほんのちょっとの違いがわかっても、解決策が浮かばないんじゃ意味がないわよ」


 再び机の上に沈みそうになると、部屋の扉が軽く叩かれた。


「どうぞ」


 応じれば、ユイゼルゼが落ち着いた様子で扉をゆっくりと開く。


「お嬢様。ユイゼルゼでございます。ロックフェルト家のエヴァンゼリン様がお見えでございます」

「エヴァンゼリンが?」


 昨日茶会をしたばかりなのに、何か忘れものでもあっただろうかと首を傾げていると、アンテリーゼは有能なユイゼルゼのお節介であると気づく。


 さしも何か婚約に関して不安になっている様子なので、婚約式をすでに終えたエヴァンゼリンに相談に乗って差し上げてほしいとでも急ぎの言づけを出したのだろう。邸宅が近いとはいえ、貴族の令嬢が事前の訪問の約束の取り付けもなく突然訪れるのは珍しいことだ。小さい頃からのごくごく親しい間柄であるとはいえ、ユイゼルゼも、使用人の無作法を許すエヴァンゼリンもロックフェルト家もずいぶんアンテリーゼに甘すぎる。


「客間にてお待ちいただいておりますが、ご気分がすぐれないとお伝えしてまいりましょうか?」


 心配そうに伺うような視線にアンテリーゼは少し苦笑して、首を横に振った。せっかく忙しい合間を縫って時間を作って訪問してくれたエヴァンゼリンの顔に泥を塗るわけにはいかない。


「エヴァンゼリンを待たせてはいけないわね。すぐに支度をするから手伝ってちょうだい。いつものサロンにお通しして新しいお茶と簡単な軽食、お菓子をお出ししてお待ちいただく様にお願いしてくれるかしら?あ、それから来月お貸しする予定だった本を二冊、書庫から持って行って差し上げて。緑の蔦の表紙のジョン・ヘイルワーズの詩集と、レヴィントン女史の詩集録の五冊目よ」


「はい。すぐに」


 ユイゼルゼは足早に部屋を退出し、一人取り残されたアンテリーゼは机の上に残された自分の死因の一覧が書かれた便箋を冷たく見下ろした。



 ***

 薄く淹れた紅茶色の髪の毛を緩くまとめた、春の妖精のような翡翠色の瞳の女性が、愁いを帯びた表情で沈黙していた。


「というわけで、信じがたい話かもしれないのだけれど、どうやらわたし、これまでに七回死を迎えているようなのよ」


 アンテリーゼは信じてもらえないことを前提に、自分の身に起きたことを細かに彼女に話して聞かせた。


 春の淡い正午の光が差し込むサロンは、人払いをしているためエヴァンゼリンとアンテリーゼの二人しかいない。


「信じてもらえるとは到底思っていないし、頭がおかしくなったと思ってもらっても構わないわ。でも、これまでの筋書きの共通点を考えると、このまま何もしないでいてもわたしは婚約式の当日に死んでしまう可能性が高いということなの」


 ユイゼルゼが用意した焼き菓子に手を伸ばし、二つに割って口に入れる。


 まるで現実味のない作り話のような話だが、口の中に広がる味や触感が現実であることを否応なく突き付けてくる。


「つまり、婚約式当日まで今日を入れてあと七日で何かしらの方法で死を回避する方法を見つけないといけないんだけど」


 解決策が何も思い浮かばないのよ。


 エヴァンゼリンは視線を机に落とし、アンテリーゼが記した便せんに目を落とす。そして、唇を軽く噛んで迷うように視線を彷徨わせた後、まっすぐにアンテリーゼの瞳を見つめた。


「リーゼ、私はあなたのことを信じるわ」

「へ?」

「あなたは滑稽な、とか信じられないかもしれない、とか前置きをしながら話を聞かせてくれたけれど、一番このことを信じられないのはあなた自身よね」


 エヴァンゼリンは膝の上で硬く握られたアンテリーゼの両手を上から優しく包み込んだ。左手の薬指には彼女の婚約指輪がきらりと輝いている。その手の甲に透明な液体がぱた、ぱたと落ちる。


「ねぇリーゼ。馬鹿馬鹿しいなんて言わないで。相談してくれて嬉しかったわ。だからこそ、必ずあなたが助かる方法を一緒に探しましょう。そして、あなたの真心を裏切ったシュメルツァー伯爵に制裁を受けてもらうの」


 エヴァンゼリンの瞳には彼女の温和な性格にしては珍しく、苛烈な怒りを帯びた光が浮かんでいた。


「リーゼ、あなたが心を痛めて泣くなんて。そんな事態を招いた人には必ず報いがあるわ。いえ、あるべきなのよ」


 友人の言葉でアンテリーゼは自分の目尻から静かに涙が零れていることに初めて気づいた。透明な液体は熱を帯びて頬から顎を伝って彼女の手の甲を濡らしていたのだ。


 アンテリーゼは静かに泣いた。


 それからエヴァンゼリンはアンテリーゼの方に向き直り、問題を解決するために、いくつかの方法を提案した。



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