chapter.3 / 黒薔薇姫

 翌日アンテリーゼはエヴァンゼリンと侍女のユイゼルゼ、エヴァンゼリンの侍女のミレーユと共に「黒薔薇館」に訪れていた。


 黒薔薇の館とは言われているが、明るい空気とみずみずしい見事な庭園に黒薔薇の気配はない。赤や黄色、淡い桃色やふんわりとした上品な紫色の薔薇が今が我が季節とばかりに蕾を開かせているが、濃い緋色や黒に近い薔薇の花などこの庭園は元より邸宅のどこにも存在しない。


 ではなぜ黒薔薇と存在しえない不名誉とさえ感じられる呼び名がつけられたのかというと。


「エヴァンゼリン。本当に、本当にこちらにお伺いしてもよかったのかしら」

「え?」


 手に持つ日傘の端がエヴァンゼリンに突き刺さらないように用心しながら、彼女が杖で歩く歩調の妨げにならないように気を付けつつ、アンテリーゼはやや上ずった声色で重ねて尋ねた。


「ば、場違いなのではないかしら」

「何を言っているの、リーゼ。昨日の相談の後、すぐに殿下にお手紙をお送りしたら、夜の間にお返事をいただいたのよ。殿下はとても心明るい方だから、きっと親身になって相談に乗ってくださるわ」


 ふわふわと春の陽だまりのように笑みをこぼして、エヴァンゼリンは戸惑うアンテリーゼを安心させるようににこりと笑って先を促す。カツン、カツンと規則正しくエヴァンゼリンの杖が、整然と敷き詰められた庭園の中の石畳の上で音を鳴らし反響する。


 彼女の繊細なレースで作られた白い手袋が太陽の光を反射してまばゆくアンテリーゼの目に刺さった。


 大抵のことには動じない貴族の令嬢らしい心持ちや振る舞いを身に着けてきた自負はあるが、自分が実は七回も死んでその度になぜか蘇っているというお伽噺のような事実よりも増して、今ここに訪問をしているという現実が夢のように不確かなことのように思えてくる。


 なぜならここは黒薔薇の館―。


 館の主の名を、デルフィーネ・ココルトス・エル・ティエンシュといい、隣国ハーディエの皇室に深く所縁のある高位貴族の令嬢が住まう邸宅なのである。国内においては王族に次ぐ地位と権力を誇る一族が所持する館の一つ。


 隣国ハーディエの現皇帝の姉君の嫁ぎ先がティエンシュ侯爵家であり、その娘の名がデルフィーネであった。


 社交界の黒薔薇と言われる姫君が住む館だから「黒薔薇館」といい、その姫君は翌年の秋、友好関係にある南の国エストニアの王太子に嫁ぐことが決まっており、すでに婚約式を経ているため、「妃殿下」の称号と身分を与えられている畏れ多くもいと気高き高貴な身分の人物なのである。


 アンテリーゼは伯爵家ではあるが、家格では名門のロックフェルト家には及ばず、家名としても中の下ほどの位置づけであるので、そもそもの接点など皆無だ。その上、父は政治的野心など皆無の穏健派であるため、権力の座からは程遠い。


 慣れ親しんだ道でも歩く様にティエンシュ家の執事の後ろを上機嫌に歩む傍らのエヴァンゼリンの表情を横目に、アンテリーゼは顔の筋肉が盛大に引きつり始めるのを何とか押しとどめるのが精いっぱいだ。おそらくは自分の後方をミレーヌと一緒に歩んでいるユイゼルゼも同じ気持ちだろう。


「エヴァンゼリン様、アンテリーゼ様、邸内ではなく殿下のご意向でこちらまでご足労をいただきまして、申し訳ございません。殿下はご昼食の後は、軽く運動をなさるのが習慣でして」


 丁寧に手入れをされた真っ白な口ひげを蓄えた老紳士が、真っ白な手袋で庭園の先を指さした。


「いえ、そんな。殿下がご多忙であるにもかかわらず、私事でお騒がせを致しまして、申し訳ない限りでございます。殿下のご厚意に甘えまして、こちらにお招きいただき、恐悦至極に存じます」


 エヴァンゼリンが柔らかく謝辞を述べて、アンテリーゼも併せて会釈をする。


「さて、こちらの先の訓練所に殿下がいらっしゃいます」

「訓練所?」


 聞き間違いだろうかと思い、小首を傾げていると、執事はにっこりと双眸を深めて「訓練所でございます」と繰り返した。


 軽い運動だと聞いていたが、訓練所とはいったい。


 貴族の令嬢の軽い運動というからには、広大な敷地の中でオークの木でできた槌で球を打って穴に入れて遊ぶ競技とばかり思っていたが、庭園の庭の隅でもできる程度の遊びだ。広大な庭を所持しているデルフィーネ殿下が、どのようなお考えで訓練所をお作りになったのかはアンテリーゼには到底計り知れないが、敷地の中に別の場所を設けて練習をする必要がある競技をたしなまれている可能性もある。


 アンテリーゼはエヴァンゼリンの方に視線を注ぐが、彼女は気にも留めていない様子で先に歩を進める。


 いったいどのような競技だろうと、ざわざわする気持ちを抑えつつ、丁寧に芝が刈り取られ整備された一角に向かうと、微かに金属が金鳴りあうような耳慣れない音が届き始めた。同時に女性と、男性の口論に似た声音が聞こえ始め、アンテリーゼは足早にエヴァンゼリンの後を追う。


 歩を進めるほどに金属がぶつかり合う音と、怒号のような苛烈な女性の声が強く聞こえ、音のする方向につられて歩を進めているうちに先に到着したエヴァンゼリンの背中につんのめって突進しそうになる。


 そしてアンテリーゼは信じられないものを目にして、驚きのあまりあんぐりと口を開閉させた。


「ほらほらほらほら!!そんな生ぬるい剣捌きではいつまで経っても意中の女性を口説けませんわ…よ!!」


 鋭い剣戟を立て続けに打ち出す女性の刃を、片手で持つ剣で難なくいなしながら笑みを深くする長身の男性が一人。


「君に心配をされる筋合いはないので」


 言いながら今度は男性が鋭い剣を縦に振り下ろす。


「あらあらあら、負け惜しみかしら?負け惜しみはみっともなくてよクラウス。一向に進展しないのを、まさか彼女が鈍いからだとでも言いたいような口ぶりだことっ」


 漆黒の髪の美女は後方に後ずさって態勢を調えると、一気に踏み込んで横一線剣を薙いだ、が、それを青年の剣が受け止めてはじき返す。金属がぶつかる大きな音に、ミレーネとユイゼルゼが小さく悲鳴を上げる。


「お転婆ぶりが目立ちすぎてこれまで三回も婚約破棄をされた君には言われたくないね!」


 男性が下方からしゃくりあげるように剣を払い上げれば、絹のような漆黒の黒髪が空気をはらみ、軽業のようにしなやかなその体が十字を切るように空に舞う。と、男性から四人分の距離をとって着地し、緋色の気の強そうな双眸を不敵に歪めて形の良い唇の端をにやりと上げる。


「せめてわたくしより強くなっていただかないと、これ以上の進展は許しませんことよ!」

「君に許可をもらう必要なないと記憶しているんだが」

「何をおっしゃっているのかしら。大切な友人の一人を根性なしに譲る気はさらさらありませんわ」

「彼女は君の所有物じゃないと思うんだが」

「何を勘違いされてますの?私は、大切な友人の未来の夫の立候補者が軟弱では困ると考えているだけですわ。いくら筋トレで筋肉を育ててもバランスの悪い筋肉は見栄えが悪いですわ。使える筋肉でなければ、大切な女性を守れないのではなくて?」

「だからと言って君に判断していただく必要はないと思うのだけど」

「判断?でしたらノーですわ!あなたったら外見だけは人並み以上ですけれど、中身は超絶腹黒の鬼畜野郎じゃありませんか。そんな乙女ゲームの大外れキャラを容認するほどわたくし、心の広い人間ではありませんの!」

「殿下」


男女の言い合いの中に、咳払い一つで老紳士が介入すると、青年は肩をすくめて剣を納めた。


「あら?もうそんな時間かしら」


 再び攻勢に出ようと剣を構えなおしていた美女は、アンテリーゼたちの姿を視界に認め、ゆっくりと剣を下した。


「妃殿下、いつもながら素晴らしい腕前ですわ」


 ふんわりとエヴァンゼリンは微笑み、杖を持つ片手を持ち上げて拍手を送る。


「エヴァンゼリン、忙しいのに呼び立てて迷惑をかけるわね。その子が、アンテリーゼ・フォン・マトヴァイユね。あなたがわたくしによく話してくれる通り、亜麻色の髪と琥珀の瞳がとても美しい人だわ」


「殿下、ご機嫌麗しゅうございます。本日はお招きいただきまして、恐悦至極に存じます」


 アンテリーゼは貴族の礼に則って、上品な令嬢らしく最高位の礼を以てデルフィーネにお辞儀をした。


 デルフィーネはにこやかに受けて、剣を腰に佩いている鞘に手慣れた様子でおさめると、背後を振り返り片手を上げた。それを合図に、先ほどまで訓練所でデルフィーネと剣を交えていた青年はアンテリーゼたちに軽く会釈をし、ろくすっぽ挨拶もせずさっさと背を向けて反対の方向に姿を消してしまった。


「ごめんなさいね。彼がここにいることは内密、ということになっているの。挨拶もできない無礼者だと思ってもらって結構だけど、このことは他言無用ですわよ」


 悪戯がばれた少女のようにデルフィーネは赤い舌をちろりと見せて肩をすくめた。


「殿下」

「シャムロー、ありがとう。手筈通り、奥の間にお茶席を用意してくれるかしら。二人は後から来るでしょうから、その時は直接お通しして」


 執事から真っ白なタオルを受け取り、額の汗を軽く拭きとると、緋色の瞳の美しい女性はひとくくりにした髪の毛を束ねていたリボンをほどき、アンテリーゼに笑いかけた。


「本当によく来てくださったわ。マトヴァイユ伯爵令嬢。あなたのことはエヴァからよく聞いていてよ。本当にフランス人形のように美しい肌と瞳ね。社交界の百合と言われていたのをご存じだったかしら?このままここで立ち話をするわけにはいかないでしょうから、執事に屋敷のサロンを案内させるから、そちらで話を聞かせていただけるかしら?わたくしのことはフィーと呼んでくださったら嬉しいわ」


「え?ふら・・・人形?」


 矢継ぎ早に話しかけられた言葉の中に、アンテリーゼの聞きなれない不思議な単語があり、理解しようとして繰り返すと、デルフィーネはしまったとばつが悪そうな表情をして凍り付いた。


「妃殿下」


 シャムローが大きく咳払いをして無作法で相手が当惑しているのでやめるように、無言で圧力を加える。デルフィーネはオホホと笑顔でごまかそうとした挙句、失敗してやや上ずった声で視線を彷徨わせながら付け加えた。


「も、もも、もちろん、殿下でも、妃殿下でもあなたが呼びやすいようにしてくれたらでよくってよ」


 殿下、唇の端が痙攣しておいでです、とはさすがのアンテリーゼも指摘できないまま、執事に促されて黒薔薇の館に足を踏み入れたのだった。

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