chapter.1 / 希望が揺らぐ目覚めの異変

 ―時は少し遡る。


 いつものように目覚めを知らせる声で覚醒したアンテリーゼ・フォン・マトヴァイユは、大きなあくびをして背伸びをして三拍後、夢の内容を思い出し、目をひん剥いて後頭部に慌てて手を添えた。


「死んで、ない!?」

「お嬢様、大声ははしたないですよ。なんですか、まだ夢心地でいらっしゃいますか?」


 山木色の薄手のカーテンに留め具をかけながら、侍女のユイゼルゼが呆れた声を出した。


 はた、と視線を向ければ彼女は苦笑しながら寝台の机の横に置いてある水差しを持ち上げ、真新しいグラスに水を注ぎこんで、トレイの上に置いてアンテリーゼに笑って促す。


「さあさあ、今日は大忙しですから時間があまりありませんよ」


 ユイゼルゼは言い終わるや否や、洗顔の用意をするために部屋を退出していってしまった。


「わたし、生きてる?」


 視線を彷徨わせれば、馴染みのある寝台の上にいて、部屋のどの調度品も自分が使っていたものだと記憶にある。


 視線を落とせば大波が寄った寝具の中に、ぴょこぴょこと動いている自分の足がある。


 アンテリーゼは確かめるように両足を開閉させてみた。今度は動きに合わせて自分を包んでいる柔らかい布が形を変え、新しい波を形作る。


「…夢にしては、現実感があったわ」


 今度は両指を握りこんでみると、右手にごく鈍い痛みが走る。ゆっくりと開いてみると、指輪を握りこんでいたようだった。


 指輪はアンテリーゼの母方の一族に代々受け継がれてきた歴史深いもので、約三百年前のデザインではあるが古さは感じさせない洗練された雰囲気を持つ指輪だった。


 右手の薬指に指輪を嵌めて、星の意匠の中で白銀色に輝く小さな宝石を見つめた。ちらちらと星のような煌めきを反射する小さいながらも美しい宝石で、特別な日に着ける指輪だと祖母から母へ、母から娘であるアンテリーゼに婚約が決まった日の夜譲られたものだった。


 なんという石なのかはアンテリーゼの母も知らないらしいが、ダイヤモンドとはまた違う、格別の輝きを持つ不思議な雰囲気の宝石だった。見ていると、時を忘れて吸い込まれてしまいそうになる。


 その時、何か微かに、宝石の奥で光が明滅した気がした。


「あっ」


 突然、頭の裏側を針で何度も刺すような鋭い痛みが走り、心臓が何度もナイフで刺されたような激痛が走る。


「ぐっ」


 窒息するような息も付けない痛みが足先から全身を駆け巡ると同時に、視界が一度閉ざされ、星の瞬きのような情景が一気に意識の中に流れ込んで走り去っていく。


 痛みが次第に痺れに似た感覚に移り変わっていくと、アンテリーゼは何が起きたのかを唐突に理解した。


「っ」


 アンテリーゼは這いずるように寝台から転がり落ちた。

 同時に部屋への扉が開き、ユイゼルゼがお湯の入った陶器製の手桶を片手に入室するのが見える。


「さあアンテリーゼお嬢様。今日はご婚約者のマルセル様と婚約式で使う指輪を受け取りに行かれるのでしたよね。手早くご準備をされませんと、時間に―お嬢様!!」


 ユイゼルゼは手桶を危うく落としそうになるのを寸でのところで回避し、手近な机の上に置くとアンテリーゼに駆け寄ってきた。


 床に倒れ伏しているアンテリーゼの体を慌てて抱え起こすと、顔に張り付いた亜麻色の髪の毛を左右に分ける。真っ青な顔色をした少女が弱々しく息をしながら視線を天井に彷徨わせているのを認め、緊急事態であることを認識し悲鳴を上げた。


「お嬢様!!誰か!誰か来てください!!お嬢様が!!」


 大声を張り上げるユイゼルゼの白いエプロンに震える指をかけながら、アンテリーゼは喉の奥から声を絞り出す。


「ユイゼルゼ、今日は」


「もちろんでございます!本日はどうか、お部屋でお休みになさってくださいませ。伯爵家へはすぐに連絡を」


「そうじゃない。そうじゃないのよ、ユイゼルゼ。今日は、何日なの?いつなの?」


「は?」


 少しずつ息を整えながら、アンテリーゼは不安に揺れるユイゼルゼの瞳をまっすぐ見上げた。いったい何を言われたのか彼女はいまいち理解できていないのか、戸惑ったような表情のまましばし固まっている。


 アンテリーゼは肩で一つ大きく呼吸をすると、ゆっくりとユイゼルゼの体から離れ、彼女の手を借りながら立ち上がると、寝台に腰を下ろして今度は真っすぐに冷静に彼女に向き合って一つのことを問うためにはっきりと言葉を口にする。


「ユイゼルゼ、今日は何日なの?今日は、婚約式の前なの?」


 顔面が蒼白なのは相変わらずだが、先ほどよりもしっかりした声に安心しつつ、ユイゼルゼは少し冷静さを取り戻しながらその質問の意図を考えてみる。


 今日は何日なのか。

 婚約式の前なのか。


 そう主は問うた。もしかしたら、少し寝坊が過ぎてしまったせいで、お嬢様は今日が婚約式当日だと寝ぼけて勘違いをなさっているのかもしれない。


「ユイゼルゼ!お嬢様がどうなさったの!?」


 扉の方から別の使用人が騒ぎを聞きつけて慌てて駆け込んできたようだ。


 ユイゼルゼは一瞬のためらいを見せたが、アンテリーゼの冷静さを観察すると安堵したように小さく息をついて、背後を振り返った。


「エリーゼごめんなさい。お嬢様の洗顔用のお湯が熱すぎたみたい。お水を持ってきてくれない?」


「お湯?ああ、今日はカンカンに沸かしてしまったから。すぐ持ってくるわ」


 声と共に人の気配が過ぎ去っていく。


 ユイゼルゼはエプロンの皺を正しながら、アンテリーゼを安心させるようににこりと笑って答えた。


「お嬢様。今日は白の月の6日でございますよ。婚約式は丁度1週間後ですので、本日は午前中にご婚約者のマルセル様と一緒に、半年前ご依頼なさった婚約指輪を受け取りに行かれるご予定ですよ。昨日は久々にロックフェルト家のエヴァンゼリン様とお茶会をなさったので、お疲れだったのでしょう。少しお約束のお時間が迫っておりますので、朝食の時間が短くなってしまいますが、髪の毛を丁寧に編み上げる時間は十分に残っておりますよ」


「婚約式の、一週間前、なのね」


「さようでございますよ」


 朗らかに笑いながら、ユイゼルゼはエヴァンゼリンの身支度のために、入室時に落とさなくて済んだ手桶に向かって歩き出した。


 その背中を見つめながらアンテリーゼは両手で顔を覆う。

 なんてことだ。


「さあ、お嬢様。今日はとびっきりおしゃれをして、マルセル様に喜んでいただきましょうね」


 ユイゼルゼの声が遠くなる。


 アンテリーゼは改めて認識した。


 今日が間違いなく婚約式の一週間前で、一週間後の婚約式の当日、自分が七通りの方法で確かに死んだことを思い出した。

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