虹の球体

 松信大助は、健太郎と傷だらけの有隣堂社員たちを愛しそうに見つめながら、語り始めた。


「俺はな、震災と空襲で何度も何度も店を焼かれたよ」


 大助は一九〇九年、有隣堂を創業した。一九二三年には、関東大震災で店舗を焼失。営業を再開させ順調に店舗を拡大していったが、一九四五年、第二次世界大戦での横浜大空襲によってまたも店舗を焼失した。


「焼け焦げた店、灰になった本の山を見て、絶望に打ちひしがれたさ。落ち込んだってもんじゃない。目の前が真っ暗になって、涙が枯れるほど泣いたよ。……それでもまた這い上がって、店を建て直した。それは、俺を支えてくれる家族や仲間がいてくれたから。本が読みたいっていう人たちがたくさんいてくれたから、なんだよ」大助は目を細める。「誰かが倒れそうになったら、隣の誰かが手を差し伸べてやる。そして這い上がる。それが有隣堂だろっ?」


「うん、わかってる。じいちゃん」

 健太郎は、目に溢れていた涙を右手の甲で拭う。


「俺には、もうあまり時間がない……。最後に、お前たちにこれを託す。あとはみんなでなんとかしろ。じゃあな、頼んだぞ」

 大助は両手を忍者のように結ぶと、ふんっと気合を入れ、消えた。


 大助のいたところには、ピンポン玉くらいの虹色に輝く液状の球体がふわりと浮かんでいる。まるで、大助の不屈の魂のようにも見える。球体の周りに全員が集まった。


「これをトリにぶつければいいんだわ、きっと」

 渡邉郁の直感が冴えわたる。だが、どうすれば液体なんかをトリにぶつけることができるのか。 


「液状なら、これに吸わせてみるっていうのはどうですか?」

 岡崎弘子が、色落ちした赤色のエプロンのポケットからガラスペンを取り出した。


 ガラスペン作家・川口剛が生み出した渾身の一本。おお、それだ! ガラスペンなら液体を吸い込むことができるし、尖ったペン先をトリの急所に突き刺すことができればトリを倒すことができる、かもしれない。


 岡崎弘子は、いつになく真剣な面持ちでガラスペンを球体に近づける。

 ……だが、吸わない。一同、がっくりと肩を落とす。


「ペン先が汚れているのよ。はいっ、これ!」

 渡邉郁がキムワイプを差し出した。


 岡崎弘子がキムワイプでガラスペンを拭くと、ペン先が生まれ変わったようにキラリと輝いた。これならいけそうだ。

 もう一度、ペン先を近づける。球体はペン先に触れると、ぷるんと身を弾ませ、すべるように吸い込まれていった。


「すっ、吸ったあ〜っ。毛・細・管・現・象ぉぉぉ!」


 周りは歓喜に沸いた。球体を全て吸い込んだガラスペンは、虹色に輝いている。

 あとは、ガラスペンをトリの急所に突き刺すだけだ。ただ、トリの心臓を狙うなら、相当な高さが必要だ。誰が狙う? どうやってあの高さに? いくつもの障壁が彼らの前に立ちはだかる。考える頭も、使える体力も、もうほとんど残っていない。


 ふと、どこからか美しい歌声が聴こえてきた。

 群衆の中から姿を現わしたのは、古文訳J-POPで名を知らしめた、有隣堂の元アルバイトの折橋慧だった。


「明日へと歩みいでぬべし

 雪のふりしきぬとも

 今の我は えや

 何をなすべき

 何になるべし 

 誰かがために

 生くべくは

 理なることのみを

 え言えずかし……♪」


 彼女のハイトーンボイスが、絶望の色に染まった横浜の夜に透き通った一粒のしずくを落とす。

 そう、誰かのために、今、何ができるか、何をすべきか。

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