第5話 兄と歩けば

 兄から、久しぶりに早く帰れるという電話があった。今日はついている。早速、駅近くの公民館で待ち合わせて、兄を買い物に付き合わせる。一人1パックの卵が二つ買える。ラッキーだ。

 卵はうまい。

 僕らが野山にいた頃、卵はなかなか手に入らないご馳走だった。木から落ちたり、親鳥にやられて大ケガする連中も多かった。鳥の巣から卵をゲットするのが、ずんぐりむっくりの僕らにどれだけ難しいか、想像してみてほしい。

 でも、ここではお金さえ払えば十個も二十個も買えてしまう。だから人間社会に来たばかりの頃は卵ばかり食べていた。

 その代わり、僕らがよく食べていた川エビやアケビはやたら高い。山桃なんかはその辺の街路樹や公園樹で植わっていて、実が熟してぼとぼと落ちているのを踏み潰して通り、「汚い」とぶつくさいいながら掃除して捨てる。なのに店に並んでいると高い。

 人間の考えはよくわからない。


 夕日が落ちきった街を、カート代わりのロードバイクを押しながら兄と歩く。

 商店街は最近できたショッピングモールに若い購買層を奪われて中高年の客ばかりだ。若いというだけで僕のように地味な見てくれでも少しは目を引く。今日は容姿がバグっている兄が一緒だから、路は兄のランウェイと化している。

 まずは八百屋。

 見切り品のバナナが山盛りになった籠を見つけたとき、兄の顔が喜びで輝いた。その熟れて黒ずんだバナナと僕を交互に見ながら、兄が僕にうざく、とてもうざーくアピールする。こっちはいろいろと心づもりがあってやりくりしているんだから自分で買えというと、爽やかな笑顔で二つの籠を恭しく捧げ持ち、八百屋のおかみさんににお会計を頼む。兄は財布からしなやかに千円札を出し、僕はサッカー台でエコバッグにバナナを詰める。おかげでこれから買う予定の卵が詰めにくくなった。


「……ちょっと、あの」


 兄のビビり声に目をやると、おかみさんがお釣りを渡すのを口実に兄の手を両手で包み込んでいる。黙って見ていると五秒は離さない。五秒は大したことのない時間のようだが、人に手を掴まれたままだとやたら長いので一度お試しください。兄の困惑の面持ちと対照的に、おかみさんの頬はほんのり紅潮し、その目は潤んでいる。

 助け舟を出してもいいが、その前に握手料としてレジ奥のごみ袋に大量に詰まっている大根の葉でもせしめられないだろうか。いつも、捨てるのならくれと言いたくてたまらなかったんだ。今日は兄が一緒なので僕は強い。今日こそ言ってもいいだろう。

 僕がさっそく交渉を始めようとすると、横からいくつかのパウダリーな甲高い声が飛んだ。


「あらあ、おかみさん、自分だけどイケメンさんの手握ってずるくなーい?」

「私らもイケメンさんの手ぇ握りたいわぁ」


 言わずもがなの常連さんだ。熟れきったお年頃のご婦人たちでいつもクリスマスのアグリーセーターみたいな派手なニットやプルオーバーを着ている。森でも猟師に撃たれることはなさそうだ。

 さすがにおかみさんも常連さんを無下にできず、兄の手を放す。兄はほっとした顔をしてご婦人がたに軽く頭を下げた。

 そのとき、ほんのちょっと前髪が右目にかかったらしい。兄は髪を掻き上げ、片目を軽く閉じた。

 とたんに、その場で兄を見ていた人間が皆固まった。徐々に陶然とした表情を浮かべる。おかみさんも常連の皆さんも、八百屋の親父さんから通りすがりのお爺さんまで。

 並み居る人間に固まられて、僕らは逃げ出した。硬直が解けたのか、黄色い声が後ろで聞こえた。


 その後も悪目立ちしながら買い物は続いた。

 魚屋では面白い話も聞けた。

 最近、商店街の防犯カメラに変な動物が映るらしい。ぶかぶかの人間の服を着て白昼堂々と人の間を縫って歩き、いくつかの店に立ち寄ってから戦利品をぼろ切れにくるんで咥えて帰るんだとか。でも誰もそんなけったいな動物の姿なんか見ていないし、ごみを荒らされたり売り物を盗まれたりもしていないんだと言う。

 僕は詳しいことはわからないが、兄が言うには、カメラの性能が人間の目に近くなればなるほど僕らの本当の姿は捉えにくくなるのだそうだ。今日、タヌキもキツネも大抵のカメラでは化けの皮を剥がされない。商店街の防犯カメラは前世紀の異物だから、お見通しになってしまうのだろう。

 これまでも似たようなことはあった。モニターに映った僕らを見て走って来た人間は、僕らの真ん前で怪訝な顔をし、「なんか変な動物見ませんでした?」と尋ねてくる。見なかったというと首を捻りながら引き下がる。だから全然怖くない。


 さて、卵も買えたし肉屋のはねものコロッケも二人分もらえた。兄はビジネスマンの顔をして肉屋の親父さんからパートのご婦人方に至るまで握手していた。ここではイケメンの手を握って離さないなどという迷惑行為はなく、助かった。


 日が暮れる。

 僕は重くなったロードバイクのペダルを踏み、辺りはどんどん田園の佇まいに変わってくる。

 兄はタヌキの姿に戻ってロードバイクの荷台に乗り、風を楽しんでいる。不細工なりに、気持ち良さそうだ。

 僕は兄の脱いだ服をデイバッグに入れビジネスバッグまで背負わされている。ちょっともやっとはするが、二人でとぼとぼ歩きロードバイクを押して帰るよりは合理的だ。

 さあ、もうすぐ家に着く。

 今日もほどほどに楽しかったし、いい日だった。

 ただ、大根の葉をもらうという野望が今日も野望のままだった、ということだけが残念だった。




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