第4話 いつか使うもん
雨上がりの午前一時、僕は静かに玄関の情に鍵を差し込み、音を立てぬようゆっくりと回す。
そっと扉を開き、そっと閉めて鍵をかける。
家の中の気配を窺う。
耳を
兄はぐっすり寝入っているようだ。よかった。
脱衣場へ直行し、服をざっと水で洗ってから自分の体にこすりつけ、洗濯機の中に放り込んで蓋を閉める。洗濯かごには絶対に入れない。
そしてシャワーを浴びる。
これが彼女と会ったあとの帰宅のルーティンだ。
こうしないと、彼女の匂いに気づいた兄がめんどくさいことを言い出すのが目に見えているから。
一度、従姉が母からことづかって桑の実をたくさん持ってきてくれたときなんか、まったくひどいものだった。
僕が従姉に夕食を振舞い、故郷の土産話をほのぼのと聞いていたら、兄が仕事から帰ってきた。
僕はさっそく玄関へ行って故郷からの来客を報告しようとした。
「兄ちゃん、今日さ、田舎から」
ここまで言ったところで兄が鼻をひくつかせた。
「……女子」
「へ?」
「女子の匂いがする。それに、この靴女物だよね」
兄は足元に脱ぎ散らかされた田んぼの泥まみれのキャンバスシューズを指差した。
「ああ、それはね、……」
「女連れ込んでるんだ。いいご身分だな」
兄は不機嫌そうだった。仕事で嫌なことがあっていらいらしていたのかもしれない。僕もアルバイトくらいはするからそこはわからなくもないが、ろくに話を聞きもしていない兄にそこまで言われたくない。僕が言い返そうとしたそのときだった。
「はぁ? おめえの方が何様よ」
どすどすと玄関先に出てきた従姉が兄に怒号を浴びせた。
うちの母以外の母方の連中は気性の荒い個体揃いだ。兄は端正な顔を歪ませて怯んだ。
「い、いや……来てると思わなくて……えっと、お久しぶり、だね……今日は何か用でもあったの……かな」
僕はダメダメな兄を心配して付き添ってやっている弟とされ、郷里で株が上がっているという。その弟を粗末に扱っている兄を見て、従姉のワイルドゥハートが一気にバーニングしてしまった。タヌキにしては鋭すぎる目つきをした従姉は、怒ると反社さながらだ。もうとっくに数倍返しになっているのに容赦しない。
「あたいが何の用で来ようが関係ねえだろくそキモブサが!」
と怒鳴り散らした。怒鳴られた兄のついでに僕も背が丸まって、心臓を守る。
「キモイおめえを憐れんで人里暮らしについてきてくれた弟に、おめえ、なんつった」
「はい……ごめんなさい」
「あたいじゃなくて弟に謝れ!」
「ごめんね、ほんとごめん」
めそめそと謝られてなんだかこっちがすまない気になる。
「……兄ちゃんも謝ってるし、向こうでごはん食べよ? 冷めちゃうしさあ」
僕が宥めても従姉はまだ兄に言い募る。
「二度とあたいの前で弟を粗末にしてみやがれ、その一生使うこともねえくっせえ玉引きちぎるぞオラァ!」
この場は許されたと見た兄は、脱兎のように自室へ逃げ込んで鍵をかけた。
そのドアをぶち壊す勢いで一蹴りして食卓へ戻る従姉。
部屋で「臭くないもん! いつか使うもん!」と半泣きの兄。聞こえてるぞ。
僕は愛想笑いしながら、おかわりと差し出された茶碗にご飯を山盛りによそった。
従姉が引き上げたあと、兄は改めて僕に謝り、弁解した。
冷静に匂い嗅いだらヤバイのが来たとわかるはずだったのに、同族、メス、まで判断したところでモテないオスの脳内回路が弟への妬みそねみでショートした、というのが言い訳だった。
兄は謝ったら少し元気が出たらしく、従姉が食い散らかしたすき焼きの残りを温めもせずしおしおと食べた。
翌日、僕は事の顛末を親への手紙にしたため、僕が要請しない限りは従姉をよこさないよう頼んだ。
話題がだいぶずれたが、とにかく、兄は僕がタヌキ女子と一緒にいるとひどく傷ついた顔をして嫌味をチクチク言ってくる。
モテない男というのは実に厄介なのだ。
酸っぱいブドウ的な女叩きをしないだけ救いはあるが、困ったものではある。
だから僕に彼女がいることなんて悟られてはならない。
僕は時々、商店街で声をかけられる。
「あらあ、あのイケメンさんの弟さんじゃないの。これ、おまけしたげる」なんて言われていろんなものをもらう。僕が一番うれしいのはハネもののコロッケだ。
並みいる商店のおばさん、たまにおじさんを魅了し倒す兄の容姿に感謝しながら、僕は公園のベンチでほくほくのコロッケを食べる。
そして、あのときの「いつか使うもん」という兄の台詞を思い出し、使いようによってはこのコロッケがタダでたくさんもらえていたんだろうなあと思う。
これもまた、兄には口が裂けても言えないことの一つだ。
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