第6話 イソップと信楽焼
人間の姿になったタヌキは、野山にいるままの同胞よりは人間の食べ物に耐性が付くと言われている。でも、塩分や糖分、スパイス類はセーブしないと瞬く間に体を壊すし、チョコやネギの類いも避けている。ブドウ、アボカド辺りは本当にヤバい。
それほど気を付けているのに、今日、僕は寝込んでいる。
ぽんぽんがピーピーゴロゴロだ。
布団から出てトイレへ這って行っては小一時間籠り、またのたのたと布団へ戻ってくる。その繰り返しだ。
イソップ寓話やいくつかの近代童話に、キツネがぶどうを食べようとする話がある。
僕は聞いてみたい。
作者たちよ、君らは狐がぶどうを食べるところを見たことがあるのか。
もしあるならば、食べた後どうなったか見届けなかったのか、と。
ぶどうは僕らイヌ科には猛毒で、レーズンやワインなどであっても腹を壊す。それで済めばまだいい方で、食べた量や体質によっては腎臓がおかしくなって死ぬこともある。
ああ、わかってた。
わかってたよ。
でも、ほんのちょっとだけならいいかもしれない、だって人間の姿で暮らしてるから、なんて思った僕が愚かだった。
食べ始めたらほんのちょっとですまないのがタヌキの
ブツは兄が職場から持ち帰ったレーズンたっぷりカップケーキだった。
「……毒ってわかってて食べて腹壊すタヌキが身内にいるなんてなあ」
兄が丼にあけてチンしたレトルト粥を僕の前に置き、しみじみと言う。
僕はもう人間の姿は保てない。生まれたままの姿で、兄に文句をつけた。
――毒だってわかってんなら持って帰ってくんなよ
兄は人間の姿で日本語、僕はタヌキでニホンタヌキ語だ。
「アレルギーがあるからって断った途端泣かれて、なんか僕が悪者みたいな雰囲気になっちゃったんだよ」
――毒物なんだからさあ、断固として断れよ。泣き落としで毒食わそうっていうその女がサイコなだけじゃん
「女じゃない、男」
――マジ?
「マジ。部長」
――あの、ときどき肩とか腰とか触ってくるっていうおっさん?
「そう」
兄はちらっと悲壮な表情を見せた。兄は会社では財務の所掌部署にいる。通い帳をぶら下げたタヌキよろしくまじめに働いていて、見かけも頭の中身も十人並みの僕には味わうことのなさそうな苦労をしている。
僕は気持ち悪いセクハラおっさんが作ったカップケーキでこうなってしまったんだなあ。
うまかったけど。
――とにかくさあ、こういうのを持って帰ってくんのは禁止。目の前にあったからつい食っちゃったじゃん
「目の前にあっても僕は食べないけど」
――バカだと思ってんだろ
「うん」
まあ、僕も自分でその自覚があったので反論はしない。反論しようにも腹に力が入らない。
僕は粥を半分残し、その代りに麦茶を二杯飲んだ。
残りのカップケーキは兄の手によって隣家に渡り、庭採れのブルーベリーになって帰ってきた。兄は毒物の正しい使用法を心得ていた。
なんか悔しい。
でも、兄だって相当なバカだ。
僕らにはアルコール分解酵素がないので、酒はとても危険だ。
それでも仕事の付き合いとやらで、兄はまれに酒を飲まされて帰ってくる。この間だってそうだ。
一応、量は弁えているとか言っているが、少量でも危険なのに弁えるって何なんだ、弁えるって。
僕がレーズンを食べたのをバカにする権利は、兄にはないと思う。
でも、兄は、こんなに身を削って金を稼いで食わせてくれている。金銭面について恩を着せたりもしない。そこはありがたいし、ちょっとだけ偉いと思う。あくまでも、ちょっとだけ。
酒を飲むのを上手に避けられるようになったら、もうちょっとくらいは尊敬してやってもいい。
完全復調の日、僕はブルーベリーをたっぷり入れて、カップケーキを焼いた。
甘みはあっさり。生地にレモンを仕込んだので、焼けて弾けたブルーベリーの果肉が鮮やかに発色している。
さっそくあったかいうちに一つ。
うまい。
冷まして休ませた方がバターが生地に馴染んでおいしくなるというけど、この温かいバターケーキ生地はホームメイドに許された特権の味だ。
食べ尽くしてしまいそうになる自分を抑えて、残りは冷蔵庫に入れる。
明日彼女のアパートに持っていく分はしっかり奥に隠しておこう。
イソップのキツネはぶどうが食べたくてぴょんぴょんするし、信楽焼のタヌキは酒瓶を抱えて幸福そうに笑っている。
僕はレーズンのケーキに似せてブルーベリーのケーキを焼いた。
兄は酒のグラスをソフトドリンクにすり替える手腕を磨くべきだ。
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