7:イユは求めてくれない
シャワーを頭から被る。傷むのもお構いなしに、髪へ乱暴に手櫛を通す。身にまとわりつく汗は、わたしのものとは思われず、また事実として幾分は他人のものであっただろうから、それがあんまりに不愉快で執拗に我が身を手で擦った。それでいて、べたつく体が、熱い湯に清められていくほどに、わたし自身さえもが溶け出して、消えてなくなってしまうような気がして、不安な心持ちにもなった。流水の床を打つ音の、掴みどころのなさが怖ろしい。わけのわからぬまま泣きたくなったが、涙は到底出てきそうもない。
そのときだ。脱衣所から、なあ、と声がかかった。不意打ちを食らって身が竦む。男の声。いったい誰の声だったか。幾人かの男子生徒の顔が脳裏で錯綜するが、つい今しがたまで肌を触れあわせていたはずの誰かは、ただ男だというだけで既に個を失っていた。誰であろうと構わないのだ、どうせ似たり寄ったりで区別などついていない。
「どしたの」
シャワーを止めて返事をすると、男は自分も入っていいかというようなことを訊いてきた。くぐもった声からは、今一つ、感情の機微も、個性も伺えない。扉越しなのをいいことに、音を立てぬよう、大きく溜息を吐く。それから、「どうぞ」と口にした。ぞんざいに答えたつもりだったが、扉を開けて、顔を出した彼は、期待に満ちて嬉しそうだった。わたしが彼に対してそうであるように、彼もまた、わたしという個人などどうでもよいのだ。
背から回される腕を、黙って受け容れる。望まれるまま壁へ手を突きながら、元気だなあ、なんて、他人事のように思う。実際、他人事なのかも知れない。わたしも、彼も、互いに互いが重要なのでなくて、ただ男と女であればよいならば、自我を求められないのならば、それは我が身だろうとやはり他人も同然だった。
それでいて、わたしは、今この時にこそ、まるで本物の愛があるように感じている。この時だけは、穏やかな充足感が胸の内を占めている。そんなはずはないし、そんなつもりもないのに、求められている間だけは、この誰とも知れぬ男子生徒を信じることができるのだ。そして同時に、言い知れぬ安堵を覚える自分を、馬鹿々々しくも思っている。
姿勢が危うくなって、床に膝を突いた。余裕がなさそうに、懸命に追いかけてくる彼がかわいらしくて、キスをした。正対して、寝そべると、背に触れる濡れた床が、火照った身に心地よかった。
満ち足りた思いの強くなるほど、その出所がまるで空々しいことまでも、強く意識される。或いは、そうであらばこそ、わたしはこの安心感に身を任せていられるのかも知れなかった。片手に収まる大きさの、なにとなれば放り出すことのできる重さの、喜びや信用や幸福だからこそ、懐に抱えておける、そんな気がする。
仮令それがどんな性質のものであれ、抱えきれない感情の、不安を呼び起こすことを知った。離れ難いと思うほど、受け容れることのより恐ろしく感じられることを知った。
あの日のイユの、視線や温もり、匂いを思い出すだに、宙づりにされているような覚束ない心持ちになる。どれだけ求められようとも、注がれようとも、決して満たされることのない穴が、鳩尾のあたりにぽっかり空いて、ただその穴の在処だけを主張する。
だからこそ、ずっとそこにあって、目を背け続けている空虚さを、仮初にでも埋めんがために、わたしはわたしを演ずるのであろう。
繰り返しわたしの名を呼ぶ男子生徒の背に腕を回す。彼の名が、ヒワクラとかいったことをようやく思い出す。まあどうでもよいことではあるけれど。そのヒワクラくんが、急にわたしをきついくらいに抱きしめた。それから大きな吐息とともに、ふっと力を緩める。終わったことを悟って、わたしも溜息を吐く。くすぐったいくらいの幸福感が膨れ上がって、途端に萎れていく。
名残惜しげにわたしの身に這わせてくる男子生徒の手を、キスに隠してそれとなく払い、わたしは身を起こした。彼は何かを言いたげにしている。けれどもわたしは、そんなもの聞きたくはない。いてもいいけど、湯船に浸かっていて、と追い立て、わたしは熱いシャワーを頭に被った。何度か声を掛けられたけれど、聞こえないふりで無視をした。彼を待たずに風呂場を出て、身支度を済ませた。
帰り道にふと思う。あのとき「ごめん」と言ったイユと、今しがた満足げにホテル前で別れたあの男子との間に、いったいどんな差があるというのだろう。やっていることは同じなのに、どうしてイユはわたしを不安にさせるのだろう。月夜の川べりに、彼の姿はない。連絡をしていないのだから、当たり前だ。それなのに、理不尽な苛立ちがこみあげた。
橋の上で足を止めて、欄干に凭れ、誰もいない川岸の階段を見下ろす。いないのをわかっていながら、視線を彷徨わせる。声もなく孤独を嘆いているくせに、イユはどうしてか、わたしを求めてはくれないのだ。むしろわたしが、彼を求めているみたいなのが、おもしろくない。
しばらく川面の揺らめきを睨みつけて、意識してほうと溜息を吐いた。なーんてね。何を憤っているのだか。これではほんとうに、わたしがイユを求めているようじゃないか。そんなに切実で差し迫った、美しい感情ではない。どのみちイユには、わたししかいないのだ。わたしから手を差し伸べてやれば、彼にはそれに縋る以外の選択肢はない。
ようやくイユとの関係が進んで、少し、気が急いているのか。
なんで、どうして、違う、わかってない。あのときの感情の正体を見てしまった気がして、自嘲の笑みがこみあげた。あれがわたしの本音なわけがない。男子諸君のときと一緒で、あの瞬間だけは、なにか、存在しないものを欲してしまうものなのだ。そう、やっぱりイユと他とで、さしたる違いはない。
そう思うと肩から力が抜けた。疲労感のために、急な眠気が襲ってくる。大きく伸びをして、それからくるりと踵を返した。早く家に帰ろう。
足早に橋の袂へ向かうわたしに、水面を滑る川風が吹きつける。背を押すような強い風はしかし、刺すように冷たくて、ピアスの傷がじくじくと痛んだ。
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