6:そのひとがメトを変えたのか
タタは「妹がほしい」とよく口にする。「それで、あたしの作った服とか着せるわけよ」とも続ける。なるほど彼女は尖った見た目と反して、裁縫やらの細々した手仕事を得意としていたし、根っこにある柔らかな性格は、子どもから好かれる質のものだったから、似合いではあったろう。
「そんなの大好きなパパに頼みなさいな」
「えぇ、やだ。ツセさんと他の女の子どもだなんて」
「妹ってなんだっけ」
「メトみたいな子」
「違うと思うなあ」
否定したところでタタは聞く耳を持たない。ベッドの端に腰掛けて、足の間でベッドの脇に座らせたわたしの髪を、それはそれは丹念に梳っている。上機嫌に鼻歌など歌いながら、編み込みにしては解き、お団子に結っては解き、ついでなにやら三つ編みを幾つも作っている気配である。妹というより人形遊びに近い。しかし今のわたしに抵抗や反駁をする権利はないのだ。なぜならそれが、ピアスと「友人の家に宿泊している」という口裏合わせとの代償にタタが要求したものだったからだ。
日曜の午前中から、急に押しかけたにもかかわらず、タタは喜んで家に迎え入れてくれた。そのうえ事情を説明するより前に、彼女からわたしの両親へ連絡をとってくれもした。タタなりにわたしの両親へ気を遣ってくれたのだろうが、この一年間の夜遊びに苦言ひとつこぼさなかった彼らであるから、一晩の消息が知れなかったとて文句もあるまい。
「ふたりとも心配してたよ?」
タタにそう言われたときには、幾らか申し訳ない思いにもなったが。
ひとしきりわたしの髪をいじくりたおして、ようやくタタはひと心地ついたらしい。満ち足りた溜息とともに差し出された手鏡には、なにやらおかしなパターンの三つ編み(どう表現したものかもわからない)が、左右の耳のあたりで結い合わされて、それぞれが頭頂を通り入れ違い、後ろ頭で合流して留められていた。カチューシャみたいだ。
最低限の手入れだけはして、飾ったり結ったりに興味もなく、普段はただ流しているだけの己の髪だけれど、こうして整えてみるとなかなか心が踊る。あと、案外に短い髪もアリかもと思った。ピアスを空けたことでもあるし、目立つように、ばっさり切ってしまってもいいかも知れない。
「かわいい」
「でしょ」
ようやく解放されて、思い切り背伸びをした。タタは、写真撮っていい? と既に携帯電話を構えている。そういったわけで顔を映さないことを条件に、ヘアモデルを務めている折、部屋の戸がノックされた。タタが間延びした声で応えると、そっとドアノブが回る。ドアを開くにも時間のかかっていたのは、こちらに対する遠慮もあったろうが、両手が塞がっていたことも理由のひとつだった。部屋へ入ってきた男は、両手に盆を持っていたのだ。
タタがさっと立ち上がり、盆を受け取る。座卓に置かれたそれには、ティーポットにカップが二つ、そしてクッキーがのっていた。
「ヤナくん、ありがと。勉強はいいの?」
友人はこの男へ、さも親しげに、抱き着かんばかりに身を寄せる。男の方も、友人の頭をさらりと撫でながら微笑みかける。
「座ってばかりじゃ、肩がこるからね」
「それじゃ、一緒に食べようよ」
「ありがと。でも遠慮するよ。すこし眠りたい」
「えー。そっか、わかった」
タタは不満顔をしながらも、幼子のように大きく頷いて、部屋を出ていく男を見送った。出て行きしな、彼はわたしにもちらりと会釈を残していった。出遅れて半端に腰を浮かせていたわたしは、閉まりかけのドアに向け、ようやく礼の言葉を告げた。
この二人が親しげなのは当然で、あの、ヤナと呼ばれた線の細い如何にもな優男は、我が友人の兄なのであった。今日は大学の課題が佳境に差し掛かっているとかで、一日部屋に籠りきりの予定であるらしい。その息抜きに顔を出してくれたのだろう。タタが振り返る。兄と半日ぶりに会えたのがどれほど嬉しかったのか、頬に朱が差し、喜色満面といった表情をしている。
「ヤナくんとお茶したかった」
「残念だったね」
座卓についたタタは、正座を崩して、卓の天板に両手で頬杖ついた。ふてくされた表情と裏腹に、まだ目元には幸福感が滲んでいる。そこに敢えて意味を見出そうとは思わないが、彼女がツセさん、ヤナくん、と父や兄を名前で呼ぶことにも、初めの頃は少なからず驚いたものだった。
このクッキーねえ、ツセさんの手作りなんだよ。クッキーをかじりながら自慢げに話すタタに、曖昧に返答しながら、わたしも皿へ手を伸ばす。口へ放り込むと、バターの香りが強く鼻を抜けていく。ティーポットの脇では小さな砂時計が、控えめに時の流れを主張して、今しも、青い砂が落ち切った。作法を知るではなかったけれど、ポットへ手を伸ばす。タタが止めるのを遮って、カップへ紅茶を注いだ。
茶葉の種類などわからない。でも、立ち上る湯気はよい香りだ。花車なティーカップをつまみ、そっと口へ運ぶ。タタは何度も息を吹きかけてから、そっと唇をつけて、きつく目を瞑ったかと思うとすぐにカップを離していた。しばらく躊躇って、結局は卓に戻す。それからこちらを見てはにかんだ。
わたしはもう一口、紅茶を含んで、飲み下すと、ほうと溜息を吐いた。今になって、耳が少しだけ痛んでいた。触れたいような、触れるのが怖いような、そう意識するほどに脈打つ痛みが強くなる。後悔と愉悦とを、二つながら伴う痛みは、なぜだかひどく、懐かしい。いつのものか、誰のものかも定かでない、曖昧な男の顔が脳裏に浮かび、それはいつしかイユのものに変わっている。いや、イユは、もっと優しかった。
とりとめもない物思いに身を任せている、わたしの内心を見透かしたみたいに、タタが不意に口を開いた。
「それで、昨晩は誰だったの?」
「……タタがそれ訊くの、珍しいね」
「んふふ、興味はあるからね。それに、初めてじゃない?」
「なにが」
「朝まで、なんてさ。よほどのテクニシャンと見た」
「ばか。そんなんじゃないよ。ただ、寝過ごしただけ」
「それも珍しいことじゃん。ねえ、だれだれ?」
「……タタの、知らないひと」
「えー、うそぉ」
タタはけらけらと楽しそうに笑う。そうしながら、ふたたび紅茶に挑みかかり、あえなく敗北している。悔し紛れにか、クッキーを何枚かつまんで、次々と口に運んでいく。
答える代わりに、わたしもカップを傾けた。これ以上に冷めてしまったら、ホットティーと呼べなくなってしまうのではないかね。
タタは笑いをひっこめて、でもさあ、と言葉を継いだ。
「そのひとが、メトを変えたのかな」
そう言って、わたしを見据える視線は、穏やかでありながら、どこかに険を含むよう。
「え、いや、違うよ」
咄嗟に否定が口を突く。思わず目を逸らしてしまう。しかし、タタの言っていることは正しかった。わたし自身に自覚はなかったけれど、変わったと言うのなら、それはきっと、イユが原因だった。でもそれを、認めたくない……否、認めてはいけないように感じている。タタの視線は、なぜだかそう思わせるものだった。どうしてわたしは、タタに罪悪感を抱いているのだろう。
意図せず本音とは裏腹の返答をしてしまって、言葉が見つからない。しどろもどろになっては、嘘を吐いていると公言しているようなものだが、こうなるとどうしようもなかった。思わず吐いてしまった、それもなぜ吐いているのか自分でもわからない嘘を、どうして補強できようものか。
タタはわたしの動揺を気づいているのかいないのか、きっと気づいているのだろう、えへへ、と恥ずかしそうに笑った。
「今度、紹介してね、そのひと」
言って、ようやく紅茶を飲み下す。美味しい、と目を細める。そのときにはもう、友人の目元に厳しい光は消えていた。それどころか、今にも瞼の落ちそうな気配だった。欠伸をしながら、その口にクッキーを入れ、山羊みたいに上の空で咀嚼している。
昼下がりの日差しが、淡い桃色のレースカーテンを透かして入り込んでいた。仄かに色づいた光が部屋を満たして、静けさを優しく彩っていた。いずれ眠りに落ちるタタの横顔を見ながら、わたしはカップで口元を隠した。
彼女の机に伏せてしまうそのときまで、結局わたしは返事をしなかった。
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