5:タタの匂いがした

 「……痛いかもよ?」

 「わかったから。あんまりおどかさないで」

 この遣り取りもいったい何度目なのやら。横に座るタタが間近に顔を寄せて、わたしを覗き込む。その目はわたし以上に不安げで、こっちは疾うに覚悟が決まっているというのに、それをわざわざ揺るがそうとするみたいに唇を噛んでいる。そのうえ、膝の上で右の指先につまんだものと、私の顔とを見比べて。まるでそっちへ視線を誘導するようじゃないか。否応なくわたしも、彼女の右手に目を落とす。

 タタが片手にしているのは、細い金属の棒……ピアス用のニードルだ。まだ針先にスポンジみたいなカバーがついたままだけれど、表面の光沢が、その鋭利なことをありありと想像させ、思わず目を逸らした。内心だけで毒づく。自分の耳にはぼこぼこ空けているくせに……

 不安を払拭しようと、心が勝手に現実を離れてゆき、思考は過去へと遡る。それは今朝のこと。まだ、今朝のことだった。

 瞼越し滲む朝日が、眠りの淵に沈む我が身をゆったりと引き上げる、その間際。心地よい気配が鼻先にあったのに、急に離れていく感じがあった。それを追いかけて、慌てて意識が覚醒へと向かう。待って、とそんな声さえ出たかも知れない。そして、わたしは目を覚ました。

 まず目に映ったのは、男の後頭部で、すぐに、しまったなあ、と思った。誰を相手にしていても、夜を明かすことだけはすまいと決めていたのに。両親への言い訳を考えなければ……。

 次いで、この男は誰だろうというところに考えが及ぶ。昨晩は誰と会って、どこのホテルに入ったのだったか。帰るにはどれくらいの時間がかかるだろう。今日は学校があったっけ? 思考を巡らせながら身を起こす。部屋に差し込み白い壁に映る朝日が、目を刺して、頭の芯に残る眠気を否応なく吹き払っていく。

 物の少ない部屋、ベッドの傍らで座卓に向かいこちらに背を見せている男、見えないところで洗濯機の回る音がする。その低い音の生活感に引きずられて、ようやく昨晩のことを思い出した。途端に、羞恥と罪悪感で視界まで真っ赤に染まるような錯覚をする。昨日のわたしは、なにをあんなに必死になっていたのか。

 「うわぁ……」

 思わず漏れてしまった声で、イユがゆっくりと振り向いた。わたしを見るその目が冷たいくらいに据わっていて、身が竦んだ。しかしなんのことはない、片手にはビールの缶が握られているじゃないか。また彼は酔っぱらっているのだ。しかもよく見ればテーブルの上には既に幾つも空き缶が並んでいる。朝から飲みすぎだろうと思いはしても、その原因の一端を……今回に限って言えば或いはその全てを担っているに違いないわたしには、到底責められはしなかった。

 「お、おはよう、ございます」

 「おう、おはよう」

 イユは無表情に頷いて、またむこうを向いてしまう。相当に酒精の回っている様子で、他意はないのかも知れないが、やはり怒りに近い感情を向けられている気がした。自分で招いたこととはいえ、落ち込む。

 背を向けたまま、彼は言う。

 「それ、着てな。今、洗濯回してるから」

 肩越しに指さすのは、枕元に置かれたスウェットの上下で、コンビニのロゴの入ったパッケージに入ったままでそこにあった。なるほど、こちらを見ないのにはそうした理由もあったか。彼が背中を向けているをいいことに、前を隠しもせずに身を起こす。ベッドから足を下ろし、思い切り伸びをする。息を吐くと、ベランダへ続く掃き出しから差し込む、淡い黄色の朝日を、しばらく眺めていた。

 いつの間に、イユがまた、こちらを見ていた。わたしと目が合っても、慌てるでもなく、缶ビールに口をつけて、ひとくち飲み下している。じろじろ見るというのでなく、睡醒のあわいにいるような、心ここにあらずの、透明な眼差しだ。

 とはいえ、やはり恥ずかしいので、ベッドの端に丸まっていた上掛けを引き寄せる。するとようやくイユの我に返って目を伏せた。「すまん」という声は、口元に運んだビール缶の中に発されて、彼の手の中だけで消えてしまった。

 イユの内心はいまいち測れない。気まずさを紛らわすために、とりあえず言葉を発す。

 「……シャワー、使ってもいいですか?」

 「ああ、そうか、そうだな。右の扉だ。タオルは出しておく」

 「ありがとうございます」

 彼の指さす先に従って、わたしはいそいそと立ち上がる。体を隠すのは諦めて、包装されたままのスウェットだけ携え、脱衣所に入った。

 シャワーを浴びている間、気がかりだったのは、イユのわたしに対する感情の変化だった。もう会わないと言われまいか、という不安は、言葉ほどかわいらしいものではなくて、わたしの冷静な部分がすぐにでも泣き落としみたいな、社会的立場を盾に取った解決策を提案してくる。わたし自身も、それをさほど悪いこととも思っていない。ただ、面倒だな、と思うだけだった。彼が、わたしを遠ざけようとしたら、手間が増えるな、と思っていた。

 ところが、わたしの心配をよそに、イユの態度は非常に淡泊だった。酔いのために胡乱な目つきをしながらも、風呂を上がったわたしに朝食を用意してくれていた。会話はなく、座卓に向かい合って、わたしのトーストをかじる音と、彼の缶を傾ける音とだけが、物の少ない部屋に軽薄に転げては、寄る辺もなく消えていく。少しだけ気まずい思いもしたけれど、眠そうにベッドへ凭れたイユは何を考えているようでもないのがせめてもの救いだった。

 そのあとにも、これといって、明確な会話はなかった。なにか一言か二言、交わした気もするけれど、もう思い出せない。ただ、最後、支度を済ませて彼の家を出るとき。ドアノブへ手を掛けたわたしの背に声がかかった。

 「なあ」

 上がり框の端に立ち尽くした彼は、肩を壁に預けたまま、不確かな視線でわたしを見る。

 「……」

 見るだけで、それ以上の言葉はなかった。でも、その顔がどこか寂しそうなのは、きっと見間違いではない。

 ああ、そうだ。杞憂だったのだ。思い出してもみろ、よく考えればわかることじゃないか。イユには、ほんとうに気心の許せる他者などいない。いるわけがない。死んでもいいと、泥酔したままあんな浅い川に身を投じるような男が、そう容易に他者を近づけさせるものか。

 改めて、彼の肩越しに部屋の奥を覗き見る。清潔ではあっても生活感の薄い部屋には、同時に、女の匂いもしない。少なくとも、決まった女を頻回に連れ込んでいる様子はない。そこに思い至って、内心だけでほくそ笑んだ。昨日に見た女性の姿に心を揺り動かしていた自分が馬鹿らしくなってくる。イユの目には今、わたししか映っていない。

 ドアノブから手を放し、彼のもとに戻った。上がり框の高さだけ余計に増した身長差を、彼の襟ぐりを引き寄せて、背伸びをして解消する。顔を寄せると、イユは掌を彼我の顔の間に挿し入れたけれど、そんな抵抗はあってないようなものだ。わたしもまた片手を伸ばし、彼の手に指を絡めて引き下ろした。その向こうにあった酔いに潤んだ瞳には、戸惑いと、それに起因する僅かばかりの疎意と、そして昨日までにはなかった期待の光が宿っている。あえてゆっくりと距離を詰め、ほんの瞬く間の、触れるだけのキスをした。でも、それだけだ。ぱっと身を翻して、すぐにでもドアを開け放つ。光と共に、夏を思わせる、湿気を帯びた風が流れ込んできた。

 「また連絡しますね」

 言って、艶っぽく見えるよう笑ってみせて、返事も待たずに玄関を出た。麗らかな空気に当てられて、アパートの階段を降りる間も、思った以上に近所にあったイユのアパートから帰る間も、わたしの足取りは軽いものだった。

 でもまだ、まだ足りないように思う。だってイユは、結局最後まで、わたしに笑いかけてはくれなかったのだから。だから――

 「いくよぅ」

 間延びした声で我に返った。いつの間に、タタがニードルと消しゴムとを両手にそれぞれつまんで、わたしのすぐ耳元に構えている。キツい髪色やたくさんのピアスに反して、彼女の顔立ちはおっとりとして穏やかで、大和撫子然とした美人だ。その顔が試すように片眉を上げて、わたしの目を見ていた。咄嗟に声が出ず、わたしはただ頷いて返す。

 タタは肩をすくめて、わたしの視界から消えた。わたしは唇を噛んで、首がぶれないよう肩にぐっと力を込めてその時を待った。目を瞑ると耳に感覚が集まってしまいそうで、視線は壁際に固定したまま、案外と少女趣味なタタの、本棚に座っているウサギのぬいぐるみを見つめる。しかしそれでも、やはり耳の縁に針先が触れた瞬間、頭の中はその感触でいっぱいになった。ただ怖い、というのとは違う。期待感のための高揚も確かに感じていた。きっと痛いだろう、でも痛いくらいでいいのだ。

 「いきまーす」

 耳に触れるタタの手に力が籠る。実際のところ、痛いとか、穴が空いたとか、そういう感覚はなくて、一気に耳へと熱が集まっていくような、そんな感じがあっただけだった。あとは、軟骨を貫く瞬間の、ミシという音を聞いたような気もした。

 でも、まだ終わらない。ニードルをずらして、ピアスを通さねばならないのだ。わたしの微動だにできずにいる横で、タタはと言えばもうすっかり肩から力を抜いた気配で、淡々とピアスを準備している。ニードルをずらすときにも合図さえしてくれないで、パパっとやってしまった。いや、それが反ってよかったのだろう、あっという間に終わり、彼女はわたしに手鏡を渡してくれる。

 「どう?」

 鏡に自身の耳を映す。左耳の縁、高いところに、銀がちらちらと踊っている。それだけで、なんだか、自分が生まれ変わってしまったような心持になった。思わず口角が上がる。

 「うん、いい感じ、ありがと」

 「ふふ、上手っしょ?」

 タタは片付けをしながら、得意げに振り返った。初めてだから、巧拙のほどは正直よくわからないけれど、不満はない。わたしはもう一度、ありがと、と口にした。

 なんだか力が抜けて、タタのベッドに体を預ける。手足の先へ仄かに触れるような後悔が、なかなかどうして心地よく思われた。少し、眩暈もしているらしい、目を閉じると、船に揺られているみたいな錯覚があった。息を吐きながら、頭もベッドに置いてしまう。遠くでタタが、「だいじょうぶぅ?」と笑い含みに言っているのが聞こえる。それに返事をするほどの力もなく、姿勢を変えて、ベッドに顔を埋めた。

 当然だけれど、ベッドはタタの匂いがした。

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