4:今日のメトは少し変だ

 「朝にも連絡もらっていたのに、すまなかった」

 橋の欄干に凭れ、イユはわたしを見下ろして言った。手を振って応えると、彼も小さく手を振り返してくれる。

 夜空を背景に、暗がりに沈んだ表情は定かでないが、はにかむような吐息があった。欄干に頬杖ついて、静かにわたしを見下ろす、穏やかな眼差しの気配が注ぐ。言葉少ななのは今に始まったことではないが、その無言の間がなぜかいつになくこそばゆかった。なかなか、川岸へ降りてこようとしない。いつもと雰囲気が違うように思った。その理由は、すぐにわかった。

 ようやく彼は身を起こし、橋のたもとを回って階段を降りてくる。その足取りが思いの外に確かなもののことに気がついた。壁に手を突き、手すりに寄り掛かり、休みやすみに足を運ぶのが常の彼が、今日に限って言えば軽快と言って差し支えない歩調だ。川べりまで来て、隣に並んだ彼を、ちょっと期待して見上げる。そして、あえなくもその期待は打ち砕かれる。

 「なぁんだ、今日も、やっぱり酔っぱらってる」

 間近に見た彼は仄かに顔を赤らめて、目はとろんと眠そうに潤んでいる。

 「……酔うほど飲んでない」

 「いつもよりは、少なそうですケド」

 足元の、暗い川面に目を凝らす。わたしと会うことは、酒を呷らないと耐えられないほどに辛いことなのだろうか、なんて、卑屈な考えが過る。まあ、彼が酔っていようと、酔っていまいと、関わりのないことだ。今日の目的を思えば、むしろ好都合かも知れない。

 静かに、深呼吸をする。ほんとうは、イユの前では、きれいなわたしを演じていたかった。彼にも、無色透明な、ただ隣にいる何か、というものを求められていると思っていた。そういう、ありもしないものを求められて、でも彼の前ではそうなれているような気がして、心地よく感じてもいたのに。昼間の彼の笑顔を見てしまったら、わたしが彼の中に見ていた充足感が勘違いだったって知ってしまったら、わたしのしていたことなんか、全部、無意味だったということになるじゃないか。イユにとって、わたしなんか、取るに足らないものってことじゃないか。

 そんなのいやだ。

 「ねえ」呼びかけながら、一歩、彼に身を寄せた。イユが僅かに身を強張らせる気配。警戒されるのは、わかっていた。端から見れば、わたしにはイユに惚れる理由なんかひとつもないのだから。わたしも別に、彼を好きというわけではなかったから。

 ちょっと考える。どうやったら、その気にさせられるのかな。

 「家の場所、教えて」

 「……急だな。どうしたんだ」

 イユは目を眇める。声音はむしろ、普段より柔らかいくらいだった。それに伴って、顔にも穏やかな笑みが宿る。またひとつ、新しいイユの一面を知る。わたしの言動を奇妙に思っているだろうに、それを気取らせようとしない、重たい厚塗りの優しさ、というのか。こういった遣り取りに手慣れている。でもそれは、女慣れしているというのとは違う気がした。親身を装った、冷たいまでの途轍もない他人行儀、といった手触りだ。学校の男子生徒諸氏とは違う、大人なのだなって、改めて思う。

 一瞬だけ、戸惑って口を噤んでしまった。それを悟ったのだろう、「ああ、いや」と口ごもったイユはもうもとの彼だった。

 「前にも言ったが。そういうの、よくないぞ」

 子どもを窘める言い方。気に食わないなあ。

 「わかってて、言ってるんです」

 「ならなおのことよくない」

 「乞われたら断らないって言ったのに」

 「乞うているわけじゃないだろう」

 「お願い……」

 両手を組んで彼を見上げてみる。よくないな、冗談めいた遣り取りになってしまう。イユもその空気を感じ取って、やれやれ、と溜息を吐いた。ポケットをまさぐって、目当てのものを見つけられなかったのか、ちょっと顔をしかめる。煙草を忘れてきたに違いない。お酒が少ない代わり、煙草がほしくなっているのか。欲求を満たすなら、もっと別のものがここにあるのだけれど。

 代わりにスマホを取り出して、電源を入れている。ぽうっとイユの顔が照らし出される。すると、ぷちぷちと顎や頬に散った無精ひげが目についた。もっとひどい醜態を見ているせいか、不思議といやな感じはしない。父親は髭も体毛も薄いから、物珍しいとは思ったけど。だから興味本位に手を伸ばした。

 ところが、イユは首を傾けてこれを避けた。ガードが堅い。スマホの画面をわたしに押しつけて、川の流れに目を遣ったまま彼は言う。

 「ほら、もういい時間だろ。門限、あるんじゃないのか」

 ロック画面の背景はここの川の写真だった。手前端に川面へ根を下ろす葉桜が見切れて、反対端の奥へ川が流れていく。よく晴れた日の、心地よい写真。イユと会った……イユが溺れかけていたのもこんな日だったなと思い出す。

 画面に表示されている時刻は十九時半。いつもだったら、挨拶を済ませて別れているような頃合いだ。でも、そもそもの待ち合わせにこの時刻を指定したのはわたしだ。イユだって、その抵抗に意味がないことくらいわかっているだろうに。

 「今日は、親、いないから。関係ありません」

 「……関係はあるだろう」

 「ないんです」

 もともと、夕食を揃って食べるために作った門限だ。両親のどちらもいないときの多少の夜遊びは黙認されている。だいたい彼らこそ今頃はお楽しみの真っ最中だろう。それを棚に上げてとやかく言うような親ではない。そうでなかったとして、仮令わたしの普段の行いが露呈したとしても、声を上げて叱りつけたり、感情的に泣いたりはすまい。そういうひとたちだ。もちろん悲しんではくれるだろうが、でも、それだけだ。

 イユから一歩だけ距離を取った。するとようやく彼はこちらを向いてくれる。しかめっ面は警戒や自制心の表れだろうか。それとも、動揺を面に出さないように気を張っているの? でもさ、イユも男の人だったわけじゃない。

 「若い女に迫られて、うれしくないの?」

 「どうしたんだ、ほんとに。今日のメトさん、少し変だぞ」

 「わたしはもともと、こういうやつです」

 「いや、だが。だからって――」

 「ああそうだ、いいこと教えてあげます」

 尚も抵抗しようとするイユに、わたしは、彼がさっきそうしたように自分のスマホの画面を見せつけてやった。メッセージアプリの履歴の一覧を表示する。今朝に遣り取りしたばかりのタタの名前が見えなくなるくらいいっぱいに並んだ男の子の名前と、サムネイルに映る最新メッセージの、示し合わせたみたいに似たり寄ったりの逢引の誘い文句。その意味がわからないなんて、言わせない。

 口を噤んで、イユはじっとわたしを見た。わたしがまた身を寄せても、彼は目を逸らさなかった。その瞳に映るのは、驚きか、嫌悪か、躊躇いか。なんでもいい、どんなに醜い感情だって、軽蔑だって構わない。わたしだけに向けてくれるなら、わたしだけを見ていてくれるなら。

 イユの片手がぎこちなく、わたしの顔に伸びてくる。そっと触れた彼の硬い掌に、頬を押し付けた。目を閉じると、彼の親指が左の瞼の上を撫でていく。緊張に強張るその手に鼻を埋めて、掌にキスをした。熱く、大きな手だった。長い指が、唇の端に触れ、耳の縁をなぞる。くすぐったくて、笑いがこみあげる。笑いながら、目だけでイユを見た。どんな視線を向けたら男をその気にさせられるのか、それはよく知っていた。

 「ねえ、家の場所、教えてよ」

 「……」

 やはりイユは答えなかった。僅かの間、手の止まった彼と見つめあう。俯いた彼は、目を瞑り、苦しげに顔を歪めて、でも、最後にはわたしの手首をとった。

 逃げたりしないのに、思い切り握られて、ちょっと痛い。彼は構わずわたしの手を引いて、歩き始めた。川を離れ、頼りない街灯に照らされた暗い道を進む間、イユはずっと無言だった。途中で寄ったコンビニで、彼が唯一買ったものを見る。どうやらお茶を濁すだけのつもりはないらしい。

 慎ましやかなアパートの一室、それが彼の住まいだった。玄関戸を施錠するなり、明かりを点けるよりさきに、イユはわたしを後ろから抱え上げた。向かい合いに、彼の片腕に座らされるみたいに抱き上げられて、よろめいて、慌てて彼の頭にしがみつく。文句を言ってやろうと見下ろしたときには、イユはさっさとわたしの靴を脱がしにかかっていた。手慣れている……

 そのまま家の中まで運ばれて、一間の壁際のベッドにぽいと転がされた。イユの匂いがいっぱいにふわっと舞い上がる。暗い部屋、カーテンの開け放たれた窓から、街明かりが淡く差し込んで、視界いっぱいに青白く彼の姿が映る。わたしの頭の両脇で、イユがベッドに手を突くと、スプリングが軋んで頭が揺れた。

 イユは、真っ直ぐにわたしを見ている。他の男たちのことが過って、彼らがこういうときに浮かべている、高揚に緩んだ表情を思い出す。向けられてあんまり気持ちのいい顔じゃない。でもそういう感情の対象であることに悪い気はしない。だって優越感あるし。今こいつの頭にはわたしのことしかないんだなって確信できるし。いつもそんなことを思いながら彼らを受け容れる。

 「メトさん」

 呼ばれて、我に返る。イユはわたしを見つめて、それでいて、なぜかとても悲しそうな顔をしていた。思わず身が竦む。違う。わたしは、イユに笑ってほしいのに。しかしそれは言葉にならず、戸惑ううちに彼の顔が近づいてくる。キスをされると思って目を閉じた。しかし柔らかい感触があったのは首すじで、思わず「ひゃっ」と声が出た。恥ずかしさがぶわっと駆け上って耳まで熱くなる。

 至近に迫るイユの目が、ちらりとわたしを見上げた。顔を見られたくなくて、わたしは彼の頭を抱きしめる。イユはそれをゆっくりとほどいて、肘の内側や手首にも口づけをしていった。これが大人の余裕というやつなのか、慣れない感覚に、いちいち反応してしまう自分が初心みたいでちょっと悔しい。

 服に手を掛けたイユは不意に手を止めて、俯いたまま、

 「……ごめん」

 そう口にした。わたしが言葉に詰まっているうちに、彼はまた行為を再開する。

 そして、最後まで、それ以上の口を利かなかった。

 イユの触れ方は優しくて、丁寧で、上手かったけれど、いつの間にかわたしの頬には涙が伝っていた。自分で始めたことなのに、とても悲しかった。なんで。どうして。違う。わかってない。確かな形にならない、何に対するものなのかも定かでないただの「問い」や「否定」が心に次々と膨れては、跡形もなく弾けて、その度に痛みが走るようだった。

 終わったあとにも、漠然と寄る辺のない不安が胸を支配していて、イユに縋り付いた。イユはそれ以上に強い力で抱きしめてくれた。わたしは、彼の顔を見ることもできなくて、ただその胸の中で泣き続けていた。

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