3:イユはあんなふうに笑う
薄いカーテンから染み出してくる曙光と、仄かな珈琲の香りで目が覚める。ぼんやり天井を見上げること、十秒かそこら。やっと体を起こす。頭にベルの二個付いた、古めかしいデザインの目覚まし時計は、床頭台の隅で寂しそうに佇んでいた。その指し示す時刻を確認して、ベルの鳴るより先に仕掛けを止め、起き上がる。掛け布団をはがし、ベッドから足を下ろして、思い切り背伸びをする。窓へ歩み寄ってカーテンを開けた。眩しい。瞼越しに、しばらく朝日を浴びた。
自室の戸を開けると、ころころと、母の軽やかな笑い声が聞こえてきた。それに父がなにかを言って応えている。急ぐでもなく、間を開けながら、途切れとぎれに交わされる遣り取りを、自室から階下へ降りた後も、廊下に立ってしばらく聞いていた。早朝の廊下の床は、スリッパ越しにも冷たかった。
リビングルームは、優しい光で満たされていた。食卓に向かい合って掛けていた父母が、戸を開けるとすぐにこちらを振り向く。
「ん、おはよう、メト」「今日も早起きね」
「おはよう、お父さん、お母さん」
「顔を洗っておいで。メトの珈琲も淹れておくから」
ぱっと立ち上がる母に頷いて、わたしはリビングを引っ込む。
寝ぐせを直して、歯を磨いて、それからまたリビングに戻る。そのときには、珈琲の他に、食パンの焼ける香ばしい匂いが加わっていた。食卓に座っている父が、トーストにバターを塗っている。カウンターキッチンの向こうで母がフライパンを振っているのは、玉子焼きでも作っているのだろうか。わたしに気づいた母が、手伝って、とキッチンへ手招く。
刻んだ野菜を木製のボウルに入れていると、背後で冷蔵庫を開けていた母が言う。
「今日はどれにする?」
「んー、和風?」
「はいはい」
振り返って、ドレッシングのボトルを受け取る。ボウルと一緒に食卓へ運ぶ。入れ替わりで父が台所へ来て、焼けた目玉焼きを母から受け取っていた。
ほぼ正方形の食卓のそれぞれの辺に、三人がそれぞれ座る。両親が向かい合って、わたしは南に向かって。揃って手を合わせる。静かに朝食が始まる。
できるだけ朝は揃って食卓につくのが習慣だった。珈琲から立ち上る湯気が、朝日に光ってきらきらしている。トーストをかじりながら、まだ醒めきらない頭でそれを見つめる。全員で食卓を囲ってはいても、会話が多いわけではない。父と母は、ケースワークがどうとか、対象者がどうとか、仕事の話を思い出したみたいに二三交わしては、小さく笑って、また静かに食事に戻っていく。それで満足している。わたしもそれだからといって、間が持たないような窮屈さも感じていなかった。
部屋の中に揺蕩う朝日の微かな煌めきを聴くように、時間だけが穏やかに流れていく。
「メト、今日はなにか予定あるの?」
トーストを食べ終えて、冷めた珈琲をすすっていると、母が不意に尋ねてきた。顔を上げて、首を傾げる。彼女がいつもより丁寧に化粧をしていることにようやく気付く。見れば父は対照的に、未だパジャマ姿のままだ。普段ならば疾うに私服へ着替えて、仕事に行く準備を済ませている頃合いなのに。ああ、なるほど。
学校があるよ、と答えようとして、今日が土曜日であることにも思い至る。予定を思い出すふりで、少しだけ考える。
共働きの両親の休日が重なるのは珍しいことだった。ともに決まった休日のある職ではなかったし、夜勤もあって、寝食すらすれ違うことも稀でない。そんな彼らへ、久しぶりに一緒に過ごす時間が巡ってきたらしい。そこでわたしに予定を尋ねる理由は、どっちだろう。わたしに用事があった方がいい? ない方がいいの?
「……今日は、午後からタタと遊ぶつもり」
嘘、だった。タタにはあとで連絡を入れてみようと心に決める。
苦笑いに隠して、注意深く母の表情を観察した。彼女は「そっか」と眉尻を下げ、悲しげな顔をして、ちらりと父の顔を見る。彼女のことっと首を傾ける仕草に、両親の間で事前に何かしらの打ち合わせがあった気配を感じた。すぐあとに父が母の言葉を引き取ったことも、その傍証と言えるだろう。
父が柔和に笑う。
「一緒に買い物でもしてこようかって、思っていたんだ」
「そっか、残念。ふたりで行ってきて」
「うん、そうさせてもらう。それで……」
父が頷いて、母を見る。
「お母さんたちね、明日、どっちも夜勤だから。ちょっと遅くなってもいい?」
「いいね。夫婦水入らず、だ。楽しんできてよ」
「ちょっと、やめてよ」
母が頬を赤らめる。父も珍しくはにかんでいる。どうやら正解を引き当てたらしい。わたしの予定がなかったとして、ふたりとも別に、わたしを邪魔に思うことはなかっただろうけれど、やはり期待はしていたに違いない。わたしだって、もう子どもではないのだし。これまでわたしに充てていた時間を、両親には少しずつ取り戻していってほしいと思う。
罪滅ぼしみたいに昼食の誘いを受けたけれど、これも断っておいた。どうせなら、一日、気兼ねなく羽を伸ばしてきたらいいさ。「ごめんね」「ありがと」を繰り返す母親と、彼女の手を引いて車へ導く父親とを送り出し、玄関の戸を閉めた。
まだ午前中だというのに、玄関は陰り、薄暗く冷たい空気が溜まっていた。
タタは生憎と先約があるらしい。服装に悩みながら、ベッドに放り投げたスマホに目を遣る。表示されているメッセージアプリには数人の男からの連絡が未確認のまま放置されていたけれど、どれも夕方以降に予定を取り付けようという内容ばかりで当てにならない。もっともこれはわたしの招いたことで、肉体関係を持とうという相手とは昼間には会わない約束をしていた。まったく、従順なことだ。
イユにも連絡を送ってみたけれど、いくら待ってみてもこちらは返信がない。仕事中なのだろう。
さて心当たりがなくなってしまった。とはいえ交友関係の狭いのは今に始まったことでないわけで。こういうときどうすべきかは心得ていた。お気に入りのキャップを被り、姿見に映る自分のなんとも平凡な形を精々整える。壁際に立つ背の高い本棚から一冊だけ本を抜き出して、スマホと一緒にポーチに入れ、家を出た。
休日の駅前はそれなりの賑わいを見せていた。大型の量販店やら、飲食店の集まったビルやらがバスロータリーを囲って建ち並ぶ、その間をたくさんのひとが行き交う。駅前広場のベンチはどれも埋まって、家族連れに恋人にひとりものに、各々が憩う。ファストフード店には外にまで行列ができていた、並んで歩く男女がゲームの話をしながらすれ違っていった、自転車に乗った老人が人ごみの中をふらふらと走り去って、数人の女性が通路の真ん中で固まってお喋りに興じ、制服姿の学生たちが馬鹿笑いをしながら駅へ駆け込む。息苦しい。強い日差しをマンションのガラスが反射して、辺りをギラギラと照らす、アスファルトには仄かに陽炎が立ち上っている。誰も彼もがてんでばらばらの方向へ歩いていく、好き勝手な会話が氾濫して正体を失う、人いきれの臭いに胃の腑を握られるような思いがする。突然、子どもが脇を走り追い越していった。けらけらと笑って背後を振り返り、大声で親を呼ぶ。
その甲高い声が頭蓋に響いて、眩暈に襲われた。慌てて道の脇に退避する。街路樹に手を突いて寄り掛かる。前髪越しに辺りを見回して、ひとのいない景色を探した。でもそんなものはどこにも見当たらない。頭上を仰ぐ。ようやく人間が視界から消える。
雲のない真っ青な空にカラスが一羽飛んでいた。それを目で追っている間は、音も、臭いも、忘れることができた。ようやくひと息吐くことができた。
いつか慣れるのではないかって、そんな期待があって、時間のあるときにはつい人の多い場所に足を向けてしまう。タタと二人でなら歩けるようになった。でもまだひとりではだめみたいだ……。諦めて、冷や汗の引いたところで繁華街から逃げ出した。
駅前から南側へ抜けると、だらだらと土地が下って坂になっている。下り切った底に川が流れているのだけれど、その途上の街道沿いには飲食店や雑貨店、古本屋に町医者などが軒を並べていた。そしてその一角にこじんまりした喫茶店がある。古い集合住宅の地階を店舗に改装したもので、他にエキゾチック風味の居酒屋と小さな雑貨屋とが入っているから間口はとても狭い。奥行も、もとは集合住宅の一室に過ぎないからたかが知れている。十人入れば窮屈になるような、そんな小さなお店だ。その喫茶店の前まで来て、窓越しに店内を覗き込む。ひとり、スーツ姿の女の人が座っていたけれど、他に客はいなかった。入口前の下駄箱で用意されたスリッパに履き替えて(土足厳禁なのだ)、扉を開く。
しゃらん、とこじゃれたドアベルが鳴って、店主の女性が振り向いた。
「いらっしゃい。あら。どうぞ、座って」
店主が穏やかに笑っていつもの席を勧めてくれた。窓際の一人掛けのテーブル席。わたしは会釈してそれに従う。木のフレームに麻ひもを編んで張った椅子にそっと腰掛ける。喫茶店と言っても明るい南国風の内装で、内壁は白く、壁際にはエアプランツがぶら下げてあったり、幾何学模様のタペストリーが飾られていたりする。半ば趣味で営んでいるらしく、店主とその友人らしき女性たちが集まって、時折手芸教室みたいなものを開いているときもある。干渉されるわけじゃないけれど、和やかな空気の端に触れていられる、そういった雰囲気が好きで、度々訪れるお店だった。
週替わりの珈琲を注文して、持参した本を開いた。何度も読んだ小説だったけれど、内容を知っているぶん他になにも考えず没頭するにはちょうどいい。時折窓の外に目を休ませながら、珈琲の香りにほうと息を吐きながら、頁をめくった。カウンターキッチンの向こうからは、店主が立ち働く気配が、和やかなBGMに彩を加えていた。
珈琲を半分くらい飲んだころ。小説は序盤の山場を越えて、主要な登場人物がようやく出揃ったあたり。ふと外に目が向いたのは、単なる偶然か、何かしらの予感があったのか。街道の緩い坂を行き交う人影を見遣って、すぐ、その中にイユの姿を見つけた。中天に差し掛かろうという日差しのもと、俯き加減に、気だるそうな顔で、背すじだけはすっと伸ばして坂を下ってゆく。
ひとりではなかった。隣に、見知らぬ女性を伴っている。年のころはイユと同じか、少し下か、綺麗な女のひとだ。一目で明るい気質とわかる、軽やかな足取りと気取らぬ仕草。からからと肩を揺らして笑う彼女に、イユが何か応える。すると女性はお腹を抱えてまた笑う。人目を憚らないようで、下品に見えないのは、いっそ幼く見えるような飾り気のない身振りゆえか。イユも顔をしかめながら、でもまんざらでもなさそうに口の端に笑みを浮かべた。さらに二言、三言、言葉の応酬があったらしい。子気味の良いやりとりであることが、こうして離れたところからでもわかる。
イユって、あんなふうに笑うのだな。思えば、わたしはこれまで、彼の楽しそうに笑う顔を見たことがなかった。わたしといるときには、いっつも、ひどく疲れきって、酔っぱらって、寂しい感じの顔をしているから。
あの女のひとは誰だろう。恋人、って雰囲気ではないけれど。職場のひと? 夜勤明けの帰り道だろうか。仲がよさそう。男のひとって、ああいうタイプのひと好きだよね、元気で、媚びてなくて、きれいなひと。イユもやっぱり、男だったのだなあ。
通りの向こうへ消えた彼らから、視線を手元へ戻す。知らず、溜息がこぼれた。自分の中に、暗い感情が蟠っていることに気づく。嫉妬、ではないと思う。なんだか肩透かしを食らったような気持ちになったのだ。あなたの抱えている寂しさって、そんな、単純なことで埋まるものだったの? なぁんだ。それならそうと、早く言ってくれればよかったのに。それでいいなら、そんなものでいいのなら、わたしが幾らでもあげられる。
もう一度、今度は意図的に、溜息をこぼす。頁も確認せず本を閉じて、代わりにスマホを取り出す。イユ宛てに、今晩会えないかとメッセージを送った。彼に対して、「今」とか「このあと」ではなく、「晩」を指定したのは、初めてだった。
幾人かの男たちの履歴の上に、イユの名前が、ポコン、と乗っかった。
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