2:タタはここにいる

 いつもはどうとも思わないのに、わたしの上で腰を振っているときだけ、タカハシくんがなんともかわいく思えるのは、この行為の好ましい副次効果と言えるだろう。彼に限ったことではなくて、誰と寝ていたとしても、この瞬間だけはなぜだか不思議と相手との「その先」を信じられるような気がしてしまう。そして、疲れ果ててベッドへ倒れたタカハシくんはじめ男性諸氏が、満足げな笑みでわたしの耳元に愛を囁くとき、わたしは夢から覚めるような心地になる。形も色も匂いもないものを、確かに手にしたような口ぶりは、あんまりに嘘が見え透いているではないか。もしほんとうに確信があるのだとしたら、それは自分にも嘘を吐いているだけだ。

 隣で熱を発するものが、途端に気味の悪い生物に思われて、ベッドを抜け出す。どのみち終わったらすぐにここを出る予定だった。しかしシャワーに立とうとしたわたしの背中へ、タカハシくんは言う。

 「なあ、付き合わないか」

 「……またそれ?」

 まったく、このやりとりは何度目だろう。他の男と繰り返していることでもあったから、より一層うんざりとする。ベッドの周りに散らかした衣類を拾い上げる仕草に溜息を隠して、わたしは顔を向けずに答える。

 「大事なカノジョはどうしたの、タカハシくん」

 彼のシャツを、その顔に投げつける。返事を待たず追撃する。

 「カナは大切にしたい、ほんとうの恋愛をしたいんだーって、言ってなかった?」

 そのためにわたしを欲の捌け口にする、恋情も、嫉妬も、余計な感情はわたしたちの間には持ち込まない。そういう約束だったと思うのだけれど。

 シャツを顔からどけたタカハシくんは、なにか言いたそうにわたしを睨みつけて、でも結局言葉は出てこなくて、わたしは肩をすくめて踵を返した。この男とはもうダメかも知れないなあと、それは残念に思った。

 ……などという愚痴をタタに聞いてもらうと、こともあろうに彼女は呵々大笑ってくらいに高らかに笑ってみせた。土曜日の昼過ぎ、静かな校庭に、タタの笑い声は気持ちよく響いていく。午前中に入っていた部活の練習を終えて、ふたり、校庭の隅の東屋で昼食を摂っていたときのことだ。よく晴れた麗らかな昼の日差しが、広々としたグラウンドをぽかぽかと温めている。まだ梅雨の気配の遠い、春らしい穏やかな風が辺りを巡って、傍の生垣に咲くツツジの甘い匂いを運んでくる。そのなかに、少年のように無邪気なタタの声が弾む。

 大した悩みでない自覚はあったけれど、いくらなんでも笑いすぎではないか。ちょっと、と彼女の肩を叩く。タタは尚も口の端にまだ笑みを滲ませ、目には涙まで浮かべている。

 「ごめんごめん。タカハシくんとやらも滑稽だなと思って。あと、」タタはぴっとわたしを指さす。「メトは純粋すぎ」

 「純粋ぃ?」

 わたしほどその言葉の似合わない人間もなかなかおるまい。しかし問い返したわたしにタタは幾度も頷いて、得意げに笑うだけ、それ以上の言葉を足そうとはせず、ひとつきりのサンドイッチにパクついた。レタスやら薄切りのローストビーフやら、色々入って厚みのあるものとはいえ、お昼ごはんにそれだけでよくお腹いっぱいになれるなあといつも感心する。タタはわたしの視線に気がついて、「すごくない、このお肉、昨日、七割引だったの」とやや見当違いのことを言っていた。

 深追いするようなことでも、ないか。わたしも母親謹製のお弁当をありがたくいただくことにして、しばし春の旋律へ耳を傾けた。

 お弁当を食べ終えるころ、とうにサンドイッチを胃に納めきっていたタタは、眠くなったと言ってわたしの肩に凭れてきた。珍しいことでもなく、苦笑いでそれを受け容れ、わたしたちは東屋の下、卓を挟んで向かい合う二つの長椅子の一方で、昼下がりの長閑な景色を眺めやった。いつの間にほんとうに寝息を立て始めたタタの頭を、そっと膝の上に置いて、わたしは彼女の髪を梳る。うなじの辺りだけ内側を赤く染めたタタの髪は、かき混ぜると、艶のある黒に鮮やかな色彩がまばらに入り混じって、日没間際の空を見るようできれいだった。その間から覗く小さな耳には、銀のピアスが幾つもついて、東屋の影の中、微かの照り返しに春の日差しをちらちらと映していた。白いくびすじや、血色の良い頬を見つめた。閉じられた目を縁どる長い睫毛が、穏やかな風を受けてさやさやと揺れていた。まったく、嫉妬も湧かないくらいの美人だ。

 背もたれに身を預け、春霞のかかり白くぼやけた校庭を、それを囲って立ち並ぶ桜の木を眺める。遠く、自動車の駆動音だとか、ひとの声だとか、葉擦れの音だとか、微かに響いてくるだけむしろわたしたちの周囲にある静けさが色を濃くした。心細くなって、タタの額に掛かる前髪を軽く引っ張った。彼女の口から赤子のむずがるような小さな声が漏れる。気持ちよさそうだな、と小憎らしくなって頬を突っついた。

 ふと思い立って、横に置いた鞄からスマホを取り出す。メッセージアプリを起動して、タカハシくんのアカウントをブロックした。まあ、週明けにはクラスで会うわけだが。しかしまさか、愛しのカナちゃんの前でおかしな真似はするまい。わたしなりに人選はしているつもりで、なにとなれば切ることのできる相手を選んで関係を築いていた。それに、いざとなれば修羅場にしてやったっていい。こういうときに使うほど、女であるという手札に有効な切り方があるだろうか。優等生の集まりみたいなこの学校で、刃傷沙汰に及ぼうなどという気骨のある若者もいなかろう。それに仮令そうなったとして、それも構わないような心持だった。

 シジュウカラの囀りに顔を上げた。同時に、手元でスマホが震える。ちょっとびっくりして、危うくタタの頭へスマホを取り落としそうになる。見るとカタクラくんからのメッセージの着信だった。学習塾の終わった夕方に会えないか、と書いてある。即座に了承の意思を簡単に返事して、スマホを鞄に放った。

 知らずこぼれた溜息の理由はわからない。タカハシくんを切ったところで、何が変わるわけでもないことに、少し安心したのかも知れない。カタクラくん、サタケくん、ヨコミゾくん、キノシタくん、そのほか数名と、タカハシくんはじめこれまでに関係を断った哀れな幾人かの男性諸君。みんな元気にしているだろうか。

 入学してからの一年間と少しを振り返って思う。やっていることはずっと一緒だ。繰り返しばっかりの毎日だ。それなのに、わたしを飽いて見捨てることのないタタがいて、日常の凪を割って飛び込んできたイユがいる。なぜだか無性に、イユに会いたくなった。そうでありながら、もう二度と会わない方がよいような気もした。無意識にまた、スマホへ手が伸びる。途中で止めた手を、胸に引き寄せて、タタの頭に乗せた。

 「タタは、ここにいるよね」

 東屋に影を投げかけるハナミズキの枝が震えた。音とも振るえともつかないような低い羽音がして、シジュウカラが飛び立った。タタは眠りながら、鼻をすすっていた。当たり前だが、彼女に返答はなかった。


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