長編もどき:この関係に名前をつけよ

茶々瀬 橙

1:メトは最近変わった

 大事な友人であるところのタタの言うことによれば、

 「メトは最近、変わったよね」

 とのこと。

 どう変わったのか尋ねると、

 「んー、なんか、変わったよ」

 と大変に曖昧な返答をいただいた。

 タタの口ぶりに含むところはなかったし、その形容しがたい変化とやらに懸念や敬遠の思いを抱いているわけでもないようだったから、ひとまずは良しとする。わたしも、わたし自身の変化について、自覚はなかったけれど心当たりはあった。それが、友人にとって悪いものでないのなら、わたし自身にとっても、決して悪い変化ではないのだろう。それだけわかれば、今はいい。

 なにそれ、とわたしが笑うと、タタはロリポップの柄を咥えたまま、にしし、とこちらも笑うのだった。

 会話の区切りに、ふと思い出して頭上に目を向ける。電光掲示板に表示された時刻と、腕時計とを見比べようとしたそのとき、折よくも柱に掛かったスピーカーが震えた。電車の進入を告げるアナウンスと、緊張感のない警報音が響く。わたしとタタは目を見合わせて、待合のベンチから立ち上がる。

 トタン屋根の向こうで、斜陽が、線路と、電線と、そこに漂う空気とを赤く照らしていた。空を見上げると遠くに立ち上る大きな入道雲も、半身に夕日を浴びて燃え上がっていた。知らず見入っていたそれらの景色を断ち割って、どうっと電車が走り抜ける。やがて減速して、ゆっくりと止まる。タタが一歩前に出て、ドアが開いたところで、軽やかに乗り口に飛び込んだ。くるりと身を翻して、彼女は持ち上げた片手を額に当て、緩く敬礼をする。

 「じゃね」

 「うん、また明日」

 わたしも軽く手を挙げて応えた。発車を報せるアナウンスがあって、圧縮されたガスの抜ける音のあと、ガラリと電車の戸が閉まる。進み始めた電車に、窓ガラスの向こうでひらひらと手を振るタタを見送って、それからわたしは、反対のホームへ回るために階段を目指した。

 同じ駅を自宅の最寄り駅にする同級生も、学校にはたくさんいた。けれど同じ部活動に所属して、よく話をする友人は、タタひとりきりだった。だからこうして、発車時刻の早い方のホームでしゃべり、見送るのがわたしたちの間でお約束になっている。下校時刻なんか毎日ほとんど変わるものでなくて、電車の本数も多いものでないから、概ねわたしが彼女を見送るのが習いだった。

 タタを送り出して、独りきりになると、ようやく今日が終わったのだと実感する。彼女と親しくなってからしばらくは、この一人ぽっちの時間が苦手だった。ひとと接していた分だけ、ひとりになると、空白の輪郭がよりくっきりと際立って、余計に悲しい気持ちになると思っていた。それで楽しい時間の名残を反芻して、そうすると、言わなければよかったこととか、彼女の不意に浮かべた表情だとか、考えなくていいことばかりが思い出されて、不安になって、自己嫌悪に陥るのが毎度お決まりのルーティーンだった。でも、このところは、快い疲労感があるだけで、また明日、何を話そうか考えている自分がいる。慣れもあったのだろうし、タタの気持ちのよい性質によるところもあっただろう。或いはこういう小さな心持ちのありようを察して、彼女は「変わった」と表現したのかも知れない。

 最寄り駅に着くころにはほとんど日の暮れて、色を濃くする空には星が点々と瞬いていた。駅前のロータリーを歩く間にも、どんどんと辺りは暗くなって、街の明かりが一層と強くなる気がする。駅から吐き出されて、スマホに頭を吸い込まれそうになっているひとたちの間を縫って、ふらふらと駅を離れた。

 自宅までの通学路にしている、小さな川に、ずっと沿って続く遊歩道をのんびり歩く。電灯が少なくて、日暮れにひとりで通るのはちょっとだけ怖い。しかし川沿いにはずっと民家が並んでいて、窓から滲む光は暖かで、そこに家庭の匂いを感じるのは好きだった。川のせせらぎと、桜並木の葉擦れの音が、優しくわたしの肌を撫でていく、その心地よさにひとりで浸る瞬間も、なぜとなく安らぐ心持ちがするのだった。

 街灯の傍らに立ち、腕時計に目を落とす。門限まではまだしばらくの時間がある。それを確認すると知らずふふんと鼻が鳴り、笑みが漏れた。リュックからスマホを取り出して、一件、メッセージを送る。それから、ほんとうなら、自宅へ帰るためには遊歩道を離れなければならない橋のたもとを、わたしは寄り道するために、真っ直ぐと進むのだった。

 川沿いの遊歩道をしばらく行くと、岸に降りられる階段が出てくる。休日は親子連れが網を片手に生き物を探しに来るような、浅くて細い小さな川だったけれど、増水時の対策か、遊歩道は二メートルほど高く堤になって、柵に仕切られている。この堤を降りるための狭い階段が、ところどころに、遊歩道を作る壁面に沿って作られているのだ。これを下って、岸の柔らかな土に足を下ろす。民家の明かりが遠のく代わり、心躍るようなせせらぎが近づく。僅かな光を頼りに、川のそばまで寄って、水面を覗き込む。

 穏やかなせせらぎが、川面に光と踊って揺らめいては、川下へと未練も残さず流れていく。傍らのヨシをざやざやと揺らす風は、微かに生臭くて、けれど不思議といやな感じはしない。風に巻かれた髪を片手で押さえて顔を上げた。対岸の柵の向こうに、イユの姿がひょっこり現れたのは、ちょうどそのときだった。

 川岸は遊歩道と比べても一段と暗い。イユは柵から身を乗り出して、岸辺をゆったりと見渡していた。手を振ってやると、ようやく彼は夜闇の中にわたしの姿を見出したらしい。手を振り返して、傍にある橋を渡ってこちら岸から、わたしと同じように階段を降りてきた。

 イユの足取りが覚束ないのは、淡い街明かりの逆光になった影をみるだけでも明らかだった。橋を渡る間も、今しも階段を降りる最中も、時々よろめいては欄干や手すりに肩を預け姿勢を支えている。見えはしなかったが、赤ら顔が容易に想像ついた。時刻は十九時になろうかというところ、へべれけになるには些か早い。しかもつい十分前に送った連絡をうけて、こうして出向いてくれるのだから、誰かと酒を酌み交わしていたわけではあるまい。

 「また、飲んでいたんですか?」

 階段を降り切った彼に向けて、わたしは問いかける。知らず若干の呆れが言葉に滲んでしまったのは仕方ない。すると彼は、階段のすぐ下で足を止め、顔を上げた。またふらついて、壁に背を預ける。そのまま、ぐいと首を伸ばして姿勢を正す。まだわたしたちの間には岸の幅の分だけ五、六歩くらいの距離があって、それでも背の高い彼の顔を見上げるのには、少し首を仰向けなければならなかった。

 彼は川風でも眺めるみたいに上手へ顔を向け、ぽつりと答える。

 「少しだけな」

 「ふらふらじゃん」

 「いいだろべつに」

 「まあ、いいんですケド」

 ふてくされたように言うイユに、それ以上言葉もなかった。大体、酔っ払いに説教しようというのが間違いだ。でも、こんなに酔っているのを見るのは、初めて会ったとき以来ではないか。なにかあったのだろうかと、やっぱり心配にはなる。

 イユと会ったのは、ひと月くらい前のこと、やっぱりこの川の、ちょうどこの岸辺でのことだった。彼は早朝から前後不覚になるほどの酒を飲んで川へ入り、そのうえ転んで、足首しか浸からないようなこの小さな川の中で危うく溺れ死ぬところだった。それを助けたのが、ちょうど通りかかってしまったわたしだったというわけだ。お互い濡れ鼠になって川岸に辿り着き、尚も酒に手を伸ばした彼を諭そうと「死んじゃうよ!」とわたしが叫んだそのときに、彼が呟いた言葉が耳から離れない。

 べつに、死んでも……

 直後には有耶無耶にされてしまって、今に至るまでその真意はわからずじまいだ。あれから何度か顔を合わせているけれど、程度の差こそあれ、彼から酒の匂いのしない日はない。

 不意に、イユが壁に寄り掛かったまま、ずりずりと地面にしゃがみこんだ。眩暈のあまり気持ち悪くなったのかと思って、駆け寄ろうとしたら、彼は俯いたまま片手の掌をこちらに向けてこれを制止する。わたしはそこに強い意志を感じて、弾かれるみたいに踏みとどまった。

 彼は一度、地面に向かって大きな溜息を落っことして、それから顔を上げた。暗くてその面差しは窺えない。それなのに言葉の接がれる気配を感じて、ちょっとだけ、緊張する。何を言われるのかと不安になる。わたしの気持ちを察していて、わざと勿体ぶるみたいに、イユはポケットから煙草を取り出した。ジッ、とライターが鳴って、赤い火がほんのりと彼の顔を照らし出す。ほんの一瞬のうちのことで、確信はないけれど、どうしてか、彼の表情もまた強張っているように見えた。

 残された朱の光点が暗闇に揺らめく。直後に吐き出された煙は、ゆったりと立ち上って、ずっと上の方でようやく月明りに色を得て、それもすぐに輪郭を朧にして消えていった。

 「おれは、メトさん、あなたに返しきれない恩がある。文字通り、命を救ってもらったわけだしな」

 「そんなの、……うん。はい」

 反論しようとして、彼に睨まれたような気がして、頷く。

 「だから、おれはメトさんに乞われれば、断る権利はないと思っているわけだ。連絡先も教えたし、こうして、呼ばれればできるだけ顔を出すつもりでいる。まあ、かわいいお嬢さんに慕われて嫌な気持ちもしないしな」

 酔いに任せてか、そんな、普段言わないことまで口にする始末。かわいいと言われて悪い気はしないが、できれば酔っていないときに言ってほしいものだ。ちょっと気が緩んで、口を挟もうとしたけれど、彼の言葉にはまだ続きがあった。

 「だが、どうして、あなたはおれに構うんだ? 酔っ払いのおっさんを、こんな日も暮れた頃合いに呼び出すんだ? 学のないようには見えない。出会ってひと月そこらの大人の男に対して、無邪気に信頼を寄せるような馬鹿じゃなければ、こういうことをする危険のわからない年齢でもないだろう?」

 まくし立てるみたいにそう言って、彼は今度こそ口を閉ざした。思い切り煙草を吸ったのだろうか、朱色がひと際強く輝く。ほんとうのことを言うと、煙草の匂いはお酒よりもずっと嫌いだったから、今すぐにやめてほしかった。でも、そういうことを言える雰囲気じゃなかった。彼が煙草を吸っているのを初めて見て、驚いていたのもある。

 わたしは返答に悩んだ。彼はずっとそれを言えないでいたのだろうか。酒と、煙草の力まで借りて、ようやく口にしたのだろうか。なんとなく、強いて距離を取ろうとするような、壁を作ろうとするような、そういう気配は感じていた。その理由をようやく言葉にしてもらえた。でもこれといって驚くようなものではなかった。なんというか、案の定、というやつだ。ちょっと安心した。

 なるほど確かに、わたしみたいな年頃の女が、簡単に異性に靡くのは、全くないとは言わないまでも、何か理由が必要だろう。それも同世代でなく、ずっと年上の、本人の言を借りれば酔っ払いのおっさんを相手にするのだから、余程の事情か、あるいは隠された悪意を暗に読み取るのも頷ける。端から見たら、わたしはきっと、かなりおかしなことをしているに違いない。そういう認識は、わたし自身にもあった。イユが疑うのも当然のことだった。

 しかし、だからこそ。だからこそわたしはイユに構うのだ。異性に好意を寄せられることに、ちゃんと疑問を持ってくれるあなただから、わたしはあなたに声を掛けたくなる。わたしがちょっとすり寄れば気をよくして愛だの永遠だの未来だのと、そんなありもしないものを楽しげに語るようなひとではつまらない。そういうのをいいなって思っていたときもあるけれど、みんな異口同音にそんなことばかり言うものだから、正直食傷気味だった。そんなときにイユが現れたのだ。

 ひとを疑い、酒に溺れて、そうしながらもどこかで他人を信じたいと、傷ついた瞳で語るあなた。口ではそうしてわたしを拒絶しておいて、でもきっと、わたしを受け容れたいと思っているのでしょう?

 なんと、なんと都合のいい。

 誰にでも言えるようなおためごかしでなく、いずれきっと、イユはわたしなしでいられなくなる。お酒に逃げて、煙草に縋って、それ以外に救いを求める先を知らない彼ならば、わたしが手を差し出せばきっとつかんで離せなくなる。そうすれば、永遠とか未来とか、そういう馬鹿々々しい幻想も、あながち嘘ではなくなるかも知れない。イユの目にわたし以外が映らなくなれば、そういうのを信じられるかも知れない。

 だから今は、彼にとって都合のいいわたしを演じよう。今のところそれはたぶん、女としてのわたしじゃない。男にそれ以外を求められることも新鮮で、そういう意味でも、イユはわたしをウキウキとさせた。ちょっと言葉を選んでから、口を開く。

「たしかに、ちょっと怖いですよ。危ないことしてるのもわかってるつもりです。でも、知り合っちゃったら、なんか、無視もできないじゃないですか。あんな場面見せられて、なかったことにはできないじゃないですか。そういう理由です」

 「善人だな」

 「若いですからね」

 「ハハハ」

 イユは笑った。なんだか寂しい感じのする笑いだった。そうして彼は立ち上がる。煙草を足元でもみ消して、ポケットから取り出したのは携帯灰皿か、それに吸殻を突っ込むと、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。煙草の匂いが強くなって、思わず顔をしかめてしまったけれど、彼は気づかないようだった。このやりとりのうちで幾らか酔いも覚めたのか、足取りには力が戻っていた。

 わたしの横に並んで、イユは川を見つめる。

 「すまん。ひどいことを言った」

 わたしも振り返って、彼と同じように川に目をやった。

 「いいですよ。心配してくれたんですから」

 「……ありがとうな」

 「それは、こっちの台詞です」

 それからわたしたちは、仕事や学校の話を、当たり障りのないことを語らって、別れた。またしゃべりましょうと言うと、イユは、苦笑いで頷いていた。

 遠くなる彼の背中が、月明りの中に溶けていく。わたしはとうとう堪えきれずに、夜闇に紛れて笑みを漏らした。

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