8:メトはどうしたいのか
連絡を入れたところで、すぐにイユからの返答があったことには、実のところ、けっこう驚いていた。もっと言えば、もう会ってはくれないかも知れないとさえ思っていた。けれども彼は、赤く染まる川べりで、変わらず石段に腰掛けて、ちびりちびりと酒を飲んでいた。わたしに気づくと、彼はのっそりと顔を上げて、徐に片手を振った。その表情は苦りきって歪んだ笑みが浮いていた。
遊歩道を逸れて、階段を降りる足取りが、知らず早足になっている己が忌々しい。細い川を横切る二つの飛び石を越えて、くるり振り返って、彼の隣に立った。日に日に寿命を延ばしている太陽が、今もまだ、弱り切った光を投げかけて、朱から藍へのグラデーションを西の空に描いている。反対、東の空では、ぽつんと孤立した雲が、これもまた滑らかな赤紫に半身を染めている。そういった夕焼けの鮮烈な色彩は川面にとけて、刻一刻と流されて、間もなく光を失うのだろう。
「一週間ぶりくらいか」
イユはぽつりと言う。わたしはその場にすとっと腰を下ろす。膝を抱え、川面を見つめたままで、それでもイユがこちらを見たことは、酒臭い吐息でわかった。揺れる水面には、熾火のような夕暮れの赤は映っても、イユの顔は影に沈んで窺えない。顔を伏したまま、彼に目を向ける。
顔を合わせたのは、十日ぶりだった。あれから十日が経っていた。職業柄、曜日の感覚の薄くなることは致し方ないが、それにしたって、一週間と十日とでは随分と違うように思う。まして、先日にあったことは、大きな出来事だったと思うのだ。そう等し並みに扱われては釈然としない。いや案外と、彼にとってそう珍しくもないイベントだったのだろうか。あんまり想像がつかない。もっとも、わたしも、わたしこそ、あんなことは日常の延長と言って差し支えないのだけれど。
「寂しかった?」
媚びた声音で悪しざまに問うと、イユはあからさまに口元を歪めて黙ってしまう。おもしろくもないのに、わたしはけらけら笑う。わたしのひとしきり笑う間、イユは肯定も否定もせずに、不味そうに酒を傾けていた。
あーあ、と溜息を最後に笑い止み、膝へ片頬をつけて隣を見た。イユとわたしとの間には、僅か半歩に満たないほどの距離が開いていて、それがどうしてか詰め難く分厚い壁を作っていた。イユはとろんとした目を、膝の間に両手で持った缶に落としていたけれど、ふと視線だけがこちらに転がる。
何を言うでもなく、イユはじっとわたしを見た。夕日の微かの残り火を瞳に掬い取っていながら、熱の感じない、淡い視線だった。或いは単に、酒精で朦朧としているだけなのか。彼のこの目をわたしは好いていたけれど、今はなぜだか妙にどぎまぎした。それでいて、顔を逸らすこともできなかった。イユのわたしを見る目は、やはりどこか、クラスメイトの男子とは違う。なにが違うのかはわからない。わからないから、不安になって、視線を外せない。
突然に雲を貫いた、斜陽の最後の一条に目を射抜かれて、わたしははっと目を伏せる。意図せず深く吐いた溜息が、知らぬうち、呼吸を詰めていたのだと教えてくれた。
違うはず、ないのに。イユとて男だ。それも寂しい男だ。わたしが与えてやれば、彼は、それを拒絶できないはずなのに。
「すまなかった」
イユは壊れ物でも差し出すように、慎重な声音でそう口にした。再び彼を見る。帳を下ろしつつある夕空に、彼の顔は茫漠と隠されていたけれど、伏し目がちにこちらを見ている、その気配だけは明白だった。
「どうして謝るんですか」
「おれは……」
「わたしが誘ったんです。初めてでもなし、気にすることないですよ」
イユは気づかなかったようだが、つい、語気に力が籠った。それを自覚して、悟られないようにそっと肩から力を抜いた。伏し目がちに彼を見上げて、精一杯不安そうに言ってやる。
「それとも、イヤでしたか?」
「お前、それは……!」
イユは驚いたのだろう、ぱっと背筋を伸ばしこちらを見る。そして、わたしの顔に浮かぶ笑みを見た。数瞬の間、唖然として、へなへなと首を垂れる。
「……それは、ずるいだろう」
彼の情けない声に、わたしの口から笑いがこぼれた。
イユは缶に残っていた酒をひと息に呷る。喉を鳴らし飲み干して、深い溜息を膝の間に落とす。わたしは強いて唇を笑みの形に保ったまま、この大酒飲みの表情を注意深く窺っていた。そんなはずはあるまいと思いつつ、やはり、彼に拒絶されるのではないかと、内心どこかで怖れていたのだろう。不安に思う理由はないのに、漠然と、何某かがわたしの心を揺さぶり続けている。男子生徒どもと並んで比べるところのないはずの、イユの中に、わたしは何を見ているのだろうか。
じっと見つめていれば、酔っぱらっていても、さすがに視線に気づくものらしい。居心地悪そうに身動ぎして、赤らんだ顔がこっちを向いた。どれほど飲んだのか知らないが、その視線はぐらぐらと頼りない。今にも眠ってしまいそうに見える。イユは、わたしの知る限りでは、ほとんどずっと酒を飲んでいる。そんなにお酒っていうのは、美味しいものなのかしら。
そのときに、はたと思い至る。彼には、お酒や煙草があるのだ。それが男子生徒諸君との違いなのではないか。
「ねえ、お酒とか、煙草とか、止めたらどうですか。体に悪いし、心配」
気づくと、そんなことを口にしていた。文脈などあったものでない。当然イユも虚を突かれたようで、眠たげな目を、眠たげなりに見開いて、しかしすぐに眉根を寄せた。
「いきなり、なんだよ」
言いながら、彼はむしろ缶を口元に寄せて、遅れてそれが既に空であることを思い出し、ぎこちなく手を下ろした。向こう側の石段に空き缶を置いたときの音が、幾分とげとげしい。苛立っているのか、いやむしろイユは恐れているのではないかと思った。目を逸らし、続けた言葉が、言い訳じみて聞こえた。
「体に悪いことなんか、わかってるよ。でも、」
そこで一度言葉を区切り、イユは腰のポケットから煙草の箱を取り出した。手慣れた仕草で一本を口に咥える。
「これが美味いんだ」
まるで言い聞かせるように、低く断定的な言い方だった。駄々をこねているようでもある。
続けて煙草の先へ運ばれていくライターに、手をかけて、わたしは彼の喫煙を妨げた。
「早死にされちゃ困ります。せっかく助けたのに」
「……」
「あと、煙草の臭い、きらいです。もう寝てあげませんよ」
我ながら露悪的な物言いだと思う。いや、事実、そこには悪意しかないのだ。溺れて死にかけたことを引き合いに出せば、拒絶などできまい。酒も煙草もやめてしまえばいい。そうなれば、お前はわたしの他に、頼る先を失うだろう。
しかし、こんなことを言えば、イユは当然、顔を顰めるのだ。ライターを持つ手は下ろしたが、名残惜しげに煙草を咥えたまま、彼は目だけでわたしを振り向く。唇に力が籠って、吸い口が潰れている。難しい表情をしていた。欲を抑え込んだ仏頂面を、困惑と疑念とで覆い、後悔をまぶした、そんな顔。深まりゆく夜闇に一層憂いを濃くして、今にも泣きだしそうな、彼のその、余裕のない表情が、わたしの胸を高鳴らせる。その顔は、ベッドの上で向かい合った男子どもとよく似ていた。
訥々と、吟味するようにイユは言う。
「前にも言ったが、おれは、メトさんの言うことを断りたくないと思っている。そしてあなたのことを、大切にしたいと思ってもいる」
たどたどしい語り口は咥え煙草のためばかりであるまい。目を伏せて、続ける、その声は幾ばくか震えているようだった。
「しかし、メトさんは、おれをどうしたいんだ。おれは、メトさんのためになっているのか?」
言って、彼は漸く煙草を口から放した。吸い口が平たくなっていて、これではまともに吸えまい。指先で転がしながらその吸い口を睨みつけ、懐から取り出した携帯灰皿に押し込む。
彼の語る間、わたしは頬の緩もうとするのを、口を引き結んで堪えていた。揺らいでいる、葛藤している。これまでずっと、醜態を晒していながら、或いはそれだからこそ、わたしに対し大人として振る舞おうとしていた節のある、彼の透明な瞳が、夜の濃くなるにつれ昏く染まっていく。その色は、わたしのよく知る、わたしの手の内に収まる温度をしていた。生ぬるく我が身にまとわりつく、人肌と同じ温もりがあった。
世間一般に言えば、まっとうな人間関係ではないのだろう。しかし、やはりわたしには、こちらの方が居心地がよい。これでいい。これが、いい。
石段に手を突いて、イユとの間にあった僅かの距離を詰めた。そんなはずもあるまいに、女慣れしていない少年のように、イユの瞳が揺れた。彼の顎のあたりに鼻を寄せる。ふふふ、と笑ってみせる。
「どうしたいって。わたしはただ――」
彼はもう、キスをしても抵抗を示さなかった。
「――一緒にいたいだけですよ」
イユの顔を、上目遣いに覗き込む。あんまりに甘ったるい台詞は、自分で口にしていて馬鹿々々しくなってくる。その気にさせるためとはいえ、普段は言わないようなそれらに、首のあたりが熱くなる。しかしここで躊躇ってはイユも興覚めだろう。それとも多少の恥じらいがあった方が燃えるかしら。どうあれすでにイユの目は、昂る思いを隠しきれずに濡れている。歪めた口元はせめてもの抵抗のつもりだろうか。しかしそれと裏腹に、イユの右手はわたしの左手をとって、綺麗な形をした親指が、わたしの手の甲をくすぐっている。
イユは押し黙り、わたしの手を見つめていた。他にどこへ目を遣ったらいいのかわからなかったのかも知れない。ますます少年のようでかわいらしい。しかしそれでは物足りない。その程度では、つまらない。
「イユさんは、」
呼び掛けると、彼はおずおずと顔を上げた。
「イユさんは、どうしたいですか?」
彼は、じぃとわたしを見た。いつの間に、互いの顔は驚くほど近づいていた。わたしの手を握る指先が強張っている。その目は、疑いか、怖れか、もしかしたら蔑みなのか、鋭くわたしを射抜いて、しかしやはり、そこには期待の色も兆している。わたしは、無知を気取って、彼の内心などまるで伺い知れないというように、首を僅かに傾けたまま彼を見つめ返した。
結局、イユは、答えなかった。けれども、気づいたときには、空いた手でわたしの肩を引き寄せていた。
――勝った。何にともなく、誰にともなく、そう思った。
たった一秒にも満たないほどの、微かな触れ合い。離れたときには、彼は苦しげな顔でわたしを見つめて、そして無言のままもう一度、先よりも少しだけ長く唇を重ねた。痺れるほど苦く、喉の焼けつくほどキツい酒精の香りが流れ込んできて、カッと首から上が熱くなる。こんなもの、よくもまあ好き好んで飲んでいられるものだ。
ようやく唇を離したときには、顔まで火照っていたけれど、それは無論この濃いアルコールのせいである。まったくどれほど飲んでいたのだ。赤面している理由を問われたらそう毒づいてやるつもりだったのに、イユは全く気づかない。眉根を寄せて俯いていては気づくはずもない。嬉しそうな顔をするとか、抱きしめるとか、そういうこともしてくれないらしい。余韻もなにもあったものでなかった。
しかしそれで構わない、キスの名残などどうでもいい。重要なのは、イユが自らわたしに触れたことだ。イユがわたしを欲したことだ。繋いでいた手を引き、彼の顔を上げさせる。尚も伏せる目を下から覗き込む。そうして、彼の名を、そっと呼んでやった。
「イユさん。ねえイユさん」
まるで叱られて意気消沈する子どもだ。酔いのせいもあろうが、今日はいつにも増して幼く見える。イユは渋々とわたしへ目を向けて、しかし口は固く噤んでいた。
「お酒と煙草、控えてくれますよね?」
「……」
「あと、これからは、イユさんからも、いつでも連絡くださいね?」
「……」
やはり返答はなく、けれどもイユは目を伏して、小さく頷いた。
「ありがと」
わたしは笑みを浮かべてやり、イユから身を離す。するとここまで頑なに俯いていた首が、ふいっと上がった。無意識のことだったに違いない、そのとき浮かべていた表情といったら。ふふふ、そんな顔をされては甘やかしたくなるじゃないか。
あえて気づかぬふりで立ち上がった。仄かな街明かりのもと、腕時計はすでに門限間際を指している。帰らなくちゃ、とひとりごつ、そのあとにイユを盗み見ると、既に彼は川面に目を向けていて、溜息とともに彼もまた腰を上げるのだった。
さっきまで、同じ高さにあった視線が、途端にずっと上へ遠退く。彼は横目にわたしを見下ろす。
「じゃあ、また」
「はい、また」
別れの挨拶を述べて、けれども互いにその場を立ち去らず、わたしはただイユを見上げて、イユもまた、わたしに正対した。別れまでの数瞬の間に、これ以上の言葉のひとつもなかったけれど、その代わり、みたびイユはわたしに顔を寄せた。
目を瞑るのが作法だったのかも知れない。けれどもわたしは、このときの、イユの瞳に微か映っていた夕日の透明な光が、跡形もなく夜に塗りつぶされていくその様から、目を離すことができなかった。
長編もどき:この関係に名前をつけよ 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase
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