26話「日常」

 誰もが足早に歩いている十二月の中旬。師走というにはふさわしいのだろう、僕のような学生までも必要に迫られてとんでもない速度で歩いている。このくらいの速度ならマラソンでも通用するんじゃないかと思うくらいに、早く、早く――塾に行かなければ。

 そう思って注意が鈍っていたからか、すごい勢いで誰かにぶつかってしまった。

「す、すみません」

「ああ、いえ――こちらこそ、すみません」

 その誰かは、僕と同じくらいの少年だった。あまりにもトロい、ぼんやりした言葉……誰もが急いでいるこんな季節にはふさわしくない、寝ぼけてでもいるかのようなゆったりした口調だ。怒っている様子でもないので、お互いに軽く会釈して歩き去ることにした。わずかに振り向いてみるが、ぼうっとした表情も変わらないままに水滴のような足取りでふらふらと進んでいる。

 こんなこと――というのは先ほどぶつかった人に失礼なのだろうが、こんなことで悩んでばかりもいられないのだ。「親の期待に応える」と言えば美徳に聞こえるようなことも、「なんとか重圧に負けずやっていけている」というふうに置き換えればひどく苦しげに聞こえる。塾に通って勉強に励み、趣味や部活なんて言葉が夢物語に聞こえるほど、ストレスでおかしくなりそうな毎日を過ごした。

 それもこれも、兄のせいだった。

 お兄ちゃんにはできたのにね、というのが幼いころ母がうなされたように繰り返していた、口癖めいた言葉だった。それは、僕にはできなかったという意味でもあった。いともたやすく学年一位の成績を取る兄は、たっぷりと睡眠をとってテニス部を県大会に引き上げ、生徒会の副会長をやりながらピアノのコンクールにまで出場していた。

 ある日に図書館で見つけた本を読もうと思ったが、あんまり難しくて投げ出してしまった――しばらく後になって、兄と一緒になって分かりやすく説明してもらいながら読んだときには、なんていい世界だろうと思ったけれど。

「兄さん、きっと僕はベータとかガンマだよね」

「どうだろうな。生まれでぜんぶ決まる世界だからなあ」

 その本は「すばらしい新世界」という本だった。人間は生き方をプログラミングされ、行政の奴隷になって幸福を満喫している。まったく家畜にしか見えないその生き物たちは、驚いたことに工場で生まれ、両親なくして育つ。ドラッグパーティーで絆を深めたり、できるだけ多くの相手とセックスを楽しむのが健康な市民のありかただ、とするような価値観のもとで暮らしている。

 狂気の沙汰にしか思えない、と最初は思った。

 けれど、最初から生き方が決まっていて、それに向かって何の悩みもなく進んでいける、それだけの能力を事前に与えられているというのなら――それは、たしかに幸福なのだろう。始点と終点が決められたレールがあり、ちょうど終点あたりで尽きる電力だけを与えられて出発する車仕掛けのように。

 求められるものに足りず、何をすれば自分を鼓舞できるのかも分からず、濁流の中で死なずに溺れているような人生。

「……はぁ」

 銅鐸でも吐き出すようなため息が出た。学力向上のために通っている塾だが、行きたいと思って来ているわけではない。お兄ちゃんに追いつかなきゃいけないんだから、と母が無理やりに入れたところで、兄自身が「こいつのやり方でいいんじゃないかな」と言ったのも聞かなかった……僕と母の馬鹿さ加減の証明のような建物だ。

 凡中の凡くらいの僕が塾に通ってようやく平均点をいくらか上げたと知って、さすがの塾の講師さんも苦笑いしていた。伸びしろというものがまるでなくて、おそらくは別のことをするための分野を削って勉強に回したのではないか、というのが講師さんの言うところだった。もともとあってないようなものを削ったというのだから、溶けていく氷を歯で噛むような、嫌悪を生じる危うさが心の中に垂れこめた。

 母が何をしたかったのかは知れない。兄についてママ友と話しているときの異常な高揚がどこから湧いているものなのか、僕にはさっぱりつかめなかった。あの得意げな、浅ましさすら感じられる笑みは――少なくとも、子供に対する愛情から教育熱心になった、というふうには見えなかった。

「兄さん、お母さんってさ。……俺たちのこと、好きだと思う?」そう聞いたことがあったけれど、兄は答えてくれなかった。代わりに、読むのも難しいような意味の分からない本を手渡してくれた。

 本を読むだけ読んで、兄は絶望しているのだろうな、と察することができた。

 児童虐待について書かれた本だった。



 ◇



 学生服の少年が歩いていた。

 ひとりだけかかっている重力が半分にでもなっているかのような、ふわふわした足取り。奇妙に心もとない足音はぽた、ぽたと異様に高く響いているが、彼に注目するものはいない。不審者というほどおかしな風体でもないが、きちんと見れば目につくところもないではない――みっしりと包帯を巻いた左手は、なぜか生来のそれに見えた。

 定期的に取り換えられる異物であるはずの包帯は、肌に密着……あるいは融合しているようにも見える。多少のずれや関節部分の違和感がなく、くるくると巻いた白い布こそが生まれ持った肌なのだと言わんばかりの馴染み方である。

 彼は公園に入り、すうっと静かにベンチに腰掛ける。そして端末をたんたんと叩いて電話帳を開き、電話をかけた。

「……もしもし、田中さん?」

『はい』

「一食分くらい食べていこうかなって。夕飯、作っちゃった?」

『今日は連絡がお早めでしたので、まだです』

 少年は「ごめん」と心底申し訳なさそうに言う。

「今日はちゃんと帰る」

『いつでも、どのようにでも準備は整っておりますので』

「ありがと。じゃあ切るね」

『はい。それではごきげんよう』

 少年は、ポケットから焼く前の丸餅のようなものを取り出した。それをそのままかじり、さして美味そうでもないそれを、じっくりと味わうように噛みしめている。感涙にむせぶでもなく吐き出すでもなく、さしたる感慨も覚えぬふうに、卵よりもやや小さなそれを食い終わった彼の言うことには――

「……おいしくなかったなぁ」

 そもそも、冷え固まった餅が美味いはずもないのだが、加熱する設備もなければ、もともと餅ではないそれを加熱したところで味も見た目も変わりはしない。否、味を期待していたわけではないのだ。皮肉めいた比喩を真に受けるほど、少年は馬鹿ではない。

 警察のパトロールカーが、サイレンを鳴らしながら通り過ぎた。家の隙間に投げ捨てられたように転がる、塾のカバンを持った少年の遺骸を発見した誰かが通報したのだろう。

「行こう」

 少年は元気よく立ち上がり、歩き出した。




 通学路をたどり、彼が幾度となく見上げた家を、同じように見上げる。帰りたくもない家の、安心のかけらもない自室――そのように捉えられていた部屋へ跳躍した。窓を内側に外し、ガラスを割ってケガをしないように気を配りつつ侵入する。瞬時に音もなく行われた不法侵入は、ほとんど痕跡を残さなかった。

 はたしてその中は、土足で侵入したことが問題になるようには思われないほどに、むごたらしいほど殺風景な部屋だった。一冊をのぞいて埃をかぶった本棚の名著たち、ゴミ箱にもほとんど何も入っておらず、もっとも人間らしいのは乱雑に積まれたプリントの山だけである。年頃の少年として漫画の一冊くらいは買っていそうなものを、記憶になかったのは忘れていたからではないのだろう、この部屋には押しつけがましいものしかない。

 思い入れや特別な記憶、郷愁といったものがまるでない、人間を飼育しているケージのようにすら思われる部屋であった。

「ケイイチ? いつ帰ったー?」

 彼が誰よりも信頼し、誰よりも大切に思っていた兄の声。

「いるん――誰だ、お前」

「……クイド」

 少年は、ひとことそう告げた。

「窓から土足で入ってきて、何の用だ……それに」

 少年――「クイド」は端的に答えを述べる。

「おいしくなかったなぁ……今までで一番。手垢も付いてない買ったままの人形みたいな。型にがっちり嵌めて、少しでも型から外れたら針で突いたり刃物で切り落としただとか、そんなことをした……されたみたいに、傷だらけだったよ」

「ケイイチのことを言ってるのか?」

「カゴメ・ケイイチ。だっけ。あまり食べたことがないタイプだと思ってさ、狙ってみたんだけど、ハズレだね。下手くそが削りだした四角形みたいで……すっごくつまらなかったよ」

 おぼろげながら、ケイイチの兄ハジメは少年のいうことを察し始めていた。

「食べた、って――」

「うん」

 なぜ分かっていなかったのか、と言わんばかりの調子だった。

「これ、“固い丸餅”。おいしいと思う? 焼いてないお餅って」

 胸ポケットから取り出されたのは、ひとかけの白いものだった。餅と言われればそうも見えるが、ハジメには泣いている遺骨のように感じられた。

「何した……俺の弟に!!」

「いつも通り、心を抜き取ってかじっただけだけど。その感想を言ったんだよ、いま」

 大声で会話するハジメのことを心配して、父母が二階へ上がってくる。

「父さん母さん、来ちゃダメだ! ばけも――」

「ハジメ!?」

 めきり、と。

 クイドの肩口から三本のカギヅメのようなものが伸びていた。それはあっさりと青年の胸を貫き、光るものを先端でつまんでいる。

「これから先にも、おいしいものを早く見つけるために……人を知っておきたいんだ。そういうことだから」

 目利きを鍛えるため、という理由でクイドはハジメを食った。

「うん。仲のいいひと同士は、響き合うものがあるみたいな……やっぱり、味の相性もいいなぁ。うなぎと山椒みたい」

 取り出して時間を置かず食ったせいで、形質の変化は起こっていない。

「視るかぎり、親子の絆みたいなものってなかったみたいだしさ。そっちの二人は、命だけもらっとくね」

 あまりに意味不明で理解を超えた現象に呆然としていたハジメの両親は、いつの間にか縛り上げられていた。幾重にも重ねられた包帯が、彼の能力として発現しているのだ。

「……健康だなー。恨めしいほどじゃないけど、さ」

 見れば、少年の貌は幽鬼のように青白かった。左手に包帯を巻いているのもなるほどと思わせるほど――不健康と言おうにも、まだ程度のひどい言葉を持ってくるべきだと思えるほど――不気味に過ぎる、それこそ死人のような顔色。

 命を吸い取ってから数瞬、その頬にわずかに赤みがさしたように感じられたが、彼がそれを体感している様子はない。目を見開いたまま倒れている二人の死骸から包帯をしゅるりと巻き取り、少年はリビングへ降りた。


「……そういうことかぁ」

 来客でもあったのか、ていねいに掃除されたリビングである。しかし、食った二人の記憶とまったく同じものであることを考えると、ここの様子は常に整理整頓が行き届いた美しく理想的なリビングなのだろう。

 だから、この家は理想的な家庭であったのだ――と、そう思えるほどクイドも愚かではない。

 見栄のために檻のような部屋で生かされていた少年と、母を狂わせてしまったことを悔やみながらもその期待を裏切れなくなってしまった青年。悲劇というには凡百に過ぎる、はっきりくだらないと言い切ってもいいような交差は、しかし現実に起きたことであるらしい。

「誰かを裏切りたくない、か」

 クイドにもないではない感情である。ベクトルも違えば意味もでたらめで、ちょっとした悪ふざけの延長のようなものではあるが、信頼や誠意といっても大意にさほどのズレはなかろう。

どうでもいいや、と少年は小さくつぶやいた。

 家庭を崩壊させた母親も、羽ばたけなかった天才も、押し潰された凡人も、ずっと物語の外にいた男も……みな、怪人に食われて死んだ。死人がどうこうと考えるほどクイドも感傷的ではなく、食味以外にはほとんど関心もない。しかしながら、食って垣間見た「帰りたくもない家」などというものがこれほどに食欲をそそらないものだとは思ってもみなかったのだろう。いつものように椅子に腰かけて食ったものに思いを馳せることもせず、彼は消えていった。

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