第3話

 それからの日々は、文字通り華々しいものとなった。


「田村君……あなたま~たやってくれたわね。先方はカンカンよ」


 入社以来ミスというミスを積み上げている田村にしつこく仕事を振る四方山の、周囲を憚らない叱責が今日も飛ぶ。


「すみません……僕が今から行って謝ってきます」


「それは当然よ。私も行くわ。早く準備して!!」


 田村がへこへこと四方山の後をついていくのを、同僚は見世物でも見るかのような嫌らしい目つきで見ていた。


 田村は腹の底からふつふつと怒りがわいてくるのを感じた――。


 ――が。その怒りはすぐにちいさくなっていくのがわかる。


 だって、だって僕には――。





「ただいまぁ」


『おかえりなさい田村君』


 田村は自宅のドアを開けるなり、窓辺でひっそりと咲いている花に向かって話しかけた。


「聞いてよお花さん、またミスして四方山の奴になじられたよ~」


『すごく大変だったのねぇ。お疲れ様、田村君』


 花がにっこりと笑っているような気がして、田村はにへらと相好を崩す。


「えへへ、ありがとうお花さん。お花さんがそう言ってくれるから僕頑張れるよ」


『どういたしまして。でもね、きっと私以外にもあなたを見ていてくれる人はいるわよ』


 花の励ましが、今夜も四方山の飲みの愚痴に付き合わされた田村の骨身に沁みた。


 毎晩毎晩、田村がへとへとになって帰ってくると、花はこうやって田村に優しい言葉をかけ続けてくれた。


 だから憂鬱な朝も清々しい気持ちで出社できたし、陰鬱な職場環境も歯を食いしばって耐えることができた。


 ある日などは。


「田村君、まーた見積の金額間違えて先方に出したわね……」


 四方山の溜息が、田村の身体を震わせる。


 けれど、田村に文句を言う権利はなかった。四方山の言う通り、田村は“また”ミスをしてしまったのである。


「言ったわよね? お客様に見積を出す前は他の人にクロスチェックしてもらうことを徹底しなさいって。何でそこをスルーしちゃうわけ?」


 それは、田村があまりにも四方山に目をつけられているミス常習犯なので、同僚の誰も田村に近寄りたがらないからである。田村が頼み事をすると、皆都合よく用ができてその場からいなくなってしまう。


 きっと四方山に言っても信じてもらえない。四方山は何故か田村がコミュニケーション強者だと思い込んでいる。


 田村は、職場の何もかもが嫌になってしまった。


 だからそのことを打ち明けて信じてくれるのは、田村の部屋に咲く一輪の白い花だけある。


『まぁ……それは大変だったわねぇ』


 花は心底同情してくれるように嘆息していた。四方山の溜息とは大違いのそれに、田村の心はただそれだけで癒されていく。


『田村君がそんなに辛い思いをしているなんて知らなかったわ。田村君、優しいから誰にでも好かれると思っていたの』


「ハハハ……僕なんか職場の鼻つまみ者さ。そんなこと言ってくれるの、お花さんだけだよ」


 普段こんなにも全肯定してくれる存在などいないので、田村は嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。


『……そうだ』


 田村が照れながら鉢植えを撫でていた時、どこからか手を叩くようなパチンという音が聞こえた。


 田村は辺りを見回すが、何もない。隣室の音だろうか?


『今度から四方山さんに見積書確認してもらえばいいんじゃない?』


「ええ!?」


 田村は声を上げる。それこそ隣室の迷惑になるのではないかと思い、慌てて声量を絞った。


「そんなこと、思いつきもしなかったよ……でもよくないんじゃない? 四方山はただでさえ同期の星で多忙だし……」


『でも、四方山さんにチェックしてもらえば絶対にミスはないわよ?』


「それは……」


 花の言う通りだった。大小がどうあれ、田村は四方山がしくじる場面を思い出すことができない。


 それほどに、四方山は完璧な人間だ。……田村を執拗に攻撃すること以外は。


「絶対無理だよ……四方山は僕が嫌いなんだよ」


『そんなことないわ。きっと素直になれないだけよ。明日試しに頼んでみれば?』


「う、うんわかったよ……どうせ断られると思うけど」


 しかして、田村の思惑は外れ、花の言う通りとなった。


 花に人生相談をした翌日、田村はダメ元で見積書のチェックを四方山に頼んでみた。


 そして結果は。


「いいわよ別に」


 二つ返事のOKだった。


「見積書以外でも設計書やお客様からの質問内容の回答も一旦私に回しなさい。レビューはそれからでも遅くないわ」


「で、でも四方山さんお忙しいのでは……」


 田村は叱責覚悟で一応提言してみる。四方山の仕事を増やしたことで、一緒に増えたストレスのはけ口にされたらたまらないと思ったのだ。


 四方山は小言の代わりに、じろりとした睨みを返してきた。


「あなたのミスの後始末の方がよっぽど骨が折れるのだけど?」


 正論である。


 田村は小さくなりながら礼を言い、自分のデスクに戻っていった。


 同僚はまた田村が四方山に何事かを言われたのかと思っているらしくニヤニヤしていたが、田村はほーっと力が抜けていた。


 だってこれからはどんな仕事の成果も一旦四方山の目を通される。これならばミスが発生したとして、責任は四方山に移る。


 そも、四方山はミスをしない女だ。必然的に田村のミスも今後はなくなるということである。


 田村は、頭の中で微笑む花の姿を思い描いた。


 そして、同僚が見ているにも関わらず思わず笑ってしまった。


 同僚は、奇妙な顔をして田村を見ていた。




 またある日などは。


「お花さん、僕もう会社辞めた方がいいのかなぁ……」


 珍しく四方山に大した時間拘束されなかった日、おかげで早めに帰宅できた田村は早速花に向かって愚痴っていた。


『まぁ、どうしてそう思うの?』


「だって四方山を見ていると、自分が情けなくなるんだ」


 田村は窓辺によりかかりながら、脱力して花を見上げる。


 田村と四方山は互いに新卒で今の会社に入社した同期である。


 聞けば、どうやら大学も同じだったらしい。最初はその縁で仲良くできるものと思っていた。


 しかし、四方山は入社してすぐに仕事への熱意を燃やしていた。


 同期どころか先輩よりも熱心に仕事を覚え、周囲もそれを評価しとんとん拍子に出世していった。

 

 反対に、要領の悪い田村はどんどん窓際に追いやられていった。今は田村を好き好んで抱えたがる上役など四方山くらいなものだ。


『四方山さん、頑張ってるのね』


「それはそう思うよ。僕みたいな部下がいなかったら今頃もっと上に行けてたはずだし」


『……どうして四方山さんは田村君のことを構うのかしら』


 田村は苦笑する。


「決まってる。サンドバックだろ」


 でなければ多忙で、しかも異性に放っておかれない四方山が毎晩田村などを飲みに連れ回すことなどないのだ。いくら四方山にとって田村がストレスであれ、定時後まで顔が見たい理由としたらそれくらいしか思いつかない。


『……あのね田村君。四方山さんもよくやってると思うけど、あなただって本当に毎日頑張ってると思うのよ』


「僕が? お花さんは本当に優しいね」


 心なしか、花は悲しそうに笑った気がした。


『励ましじゃないわ。私本当にそう思うの?』


「はは、どうしてだい?」


『四方山さんが成果を出せているのは、あなたが影で支えているからだわ』


 花の声が真剣味を帯びてきたので、田村は姿勢を正して話を聞く態勢に入った。


『覚えてる? 四方山さんが入社して間もなく大きめなプロジェクトのリーダーになったの』


「お花さん、どうしてそれを……」


 花の言っていることは事実だった。


 四方山は1年目にして分不相応な規模のプロジェクトを任されたのだ。


 実力主義の会社らしい采配だがさすがにその年の新卒にプロジェクトを先導させることにあたって、内外からの風当たりは厳しかった。


『四方山さんはあの時本当に苦しかったのよ。でもあなたは影ながらこっそり四方山さんの作った資料の不備を修正したり、良くない噂を立てる同僚に文句を言ったりしていたわ』


「僕ってその頃から四方山に嫌われてたからね。表立ってやると四方山から顰蹙買うと思って……」


 当時の四方山は、今と変わらず八面六臂の仕事ぶりで、仕事のストレスを顔に出すことなど一度もしなかった。


 だから田村は、自分がせっせと行っているフォローなど無意味同然だと思ってたのだ。


「そっか……お花さんだけは僕が何をしているか知っていたんだね」


『当然よぉ』


 どうしてこの花が田村の密かな努力を知っていたかなどは、もはやどうでもよくなっていた。


 見てくれた人がいた。


 田村にはそれだけで十分で、十分に胸の奥が暖かくなった。


『私、田村君のことが大好きだもの』


「ありがとう、お花さん」


 胸が暖かくなると、今度は身体が暖かくなった。


 瞼をこすった田村を見て、花はくすくすと笑う。


『今日は早めに眠ったら? 睡眠は心の栄養よ』


「そうするよ。おやすみお花さん」


 田村は照明を落とす。


 その日の眠りは深く、田村は夢の中でも花とずっとおしゃべりを楽しんでいた。

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