第2話

「……疲れた……」


 田村はもう長いこと洗っていないシーツを張ったベッドへ、身体を投げ出した。


 入社10年目にして大した業務を任せられていない田村は、その日も大した仕事は持っていなかった。定時間内に十分終わるものばかりだ。


 時刻は深夜2時。結局終電まで四方山に付き合わされた。おまけに田村は男であるので、いくら相手が上司でも四方山が女である以上駅まで送ってやらなければならない。今夜は無理やり飲みに連れ回されなかっただけ多少はましだ。


 深く、ふかく溜息を吐く。


 こんな日々を、こんな人生を――。


 入社したその日から妙に馴れ馴れしく、おまけに態度は氷のように冷たい小言女のかばん持ちを、あと何十年させられるのだろう。


 田村は身体を引きずるようにしてキッチンまで歩く。


 心療内科で処方された薬をコップの水で流し込み、ふと、窓辺に目をやった。


 無機質で必要最低限の生活家具しか置いてない田村の部屋でひと際目立つその花は、少し元気がないようだった。


 田村は、花を哀れに思った。


 あの女のことだ。どうせ水なんてやってないのだろう。


 田村はコップに残った水を一度捨て、軽くすすぎ、水を入れなおす。


 それを、花の根本にそっとかけてやった。


 土がおいしそうに水を吸い込んでいくのを見ると、久しぶり誰かに礼を言われたかのような気持ちになって、田村の胸は少しだけ安らぎを――。


『……ありがとう』


 田村の心臓はドクンと跳ねた。


 辺りを見回す。


 田村以外誰もいない。田村はアパート住まいだが、両隣の住人は大人しいのでこんなにはっきりと声が聞こえるような声量で話したことはこれまで一切ない。


 田村は深呼吸して、部屋中をくまなく探した。


 ベッドの下に座卓の下、クローゼットの中にテレビの裏、果てはトイレの蓋まで開けたが、誰もいない。


『田村君、ここよ』


 田村は飛び上がらんばかりに驚き、鍋の蓋で顔をガードする。


 すると今度はくすくすと少女のようにあどけない笑いが聞こえてきた。


『面白いね、田村君』


 認めたくなかった。


 確かに、自分は疲れている。通院歴は長い。しかし、こんな症状が出たことはなかった。


 田村は恐るおそる窓辺に近づく。


 そこある生あるものは、白い花ただ一輪。


『田村君、こんばんは。もう寝なくていいの?』


 田村はごくりと唾を飲んだ。


 間違いなく、声はその花からした。


 とうとう幻聴が? かかりつけの医者に別の処方箋を出してもらわなければならない。


 しかし耳を塞いだら声は途端に小さくなる。どうやら田村の頭の中だけにこだましている声ではないらしい。


 田村は大きく息を吸い込んだ。


「き、君は? 君がしゃべったのかい?」


『他に誰がいるって言うの?』


「……」


 皮肉めいたことを言う花に、頭が疲れ果てている田村は言い返せずただぼんやりと花を見つめていた。


『……っと、ごめんなさい。私、口が悪いみたい……直すから、私のこと嫌いにならないでっ』


「えっいや大丈夫だよ。僕こそむっつりしてごめんね」


 心なしかしゅんとして見える花に対して思わずフォローを入れてしまう田村。


 そして田村は――。


 少しばかり、この花を――。


「き、君は一体何なんだい? どうして花がしゃべれるんだい?」


『わからないわ多分、田村君とおしゃべりしたかったからじゃいかしら』


 田村は胸を押さえる。


 何だろう、何だろうこの感情は。


 そして僕は、どうして真顔で花と会話を成立させてしまっているのだろう。


『あのね、田村君』


 花は尚も語り掛けてくる。


『私をこのお家に置いてくれないかしら? 私の根はこの鉢植えに張ってしまって、私はもうここからどこにも行けないの』


「え!?」


 田村は逡巡した。


 何故か人の言葉を離す花。そして、四方山から押し付けられたという意味でもいわくつきの一品。


 そんなものを、この世で唯一の自分の場所である自宅へと置いてもいいのだろうか。


『お願い……』


 花の声が悲し気にしぼむ。


 田村はくぐもった声を出して身を屈める。鼻が熱くて、思わず顔を押さえた。


「う……うん」


 あろうことか、田村は。


「わかったよ……」


 田村はこの、ちいさくて健気な花を。


「かわいい」と、そう思ってしまった。

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