第25話 魔女の残滓はささやく

その空間は、暗闇がどこまでも続いているかのようだった。


積み上げられた酒樽も、レンガの壁も、天井のはりも、なにもない。

代わりにあたたかな春風が新緑の木々のかおりをのせて、チャーリーのかたわらを吹きすぎていった。どこかで春ツバメのさえずりが聞こえる。


ハッと眼を転じる。

少しはなれた先、照明が大きな円をえがき出す場所に、人が立っていた。


「ルーシーさん!」

「あら……」


ゆっくりと振り向いたルーシーは病気かと思うほど白い顔をしていた。

相反するように、彼女の後ろで揺らめくは禍々しいほどにドス黒い。

舞台衣装からのぞくほっそりした腕には刻印しるしがイレズミのように連なっていた。

昨日より明らかに面積が増えている。


「どうして、今日は招いていないお客さんがこんなにあらわれるのかしら」


頬に手をあて、ため息をつくルーシーの足もとに、クマのような体躯の男が倒れ伏していた。


「生きてるのか?」

「当り前じゃない」


心外だ、とでもいうようにルーシー。


「眠ってもらっただけよ。フランクリンおじさんを傷つけたりしないわ。私が手にかけたいと願うのは、この世でたったふたりだけだもの」



―――――― しゃりん



鈴の音を合図に、ルーシーの背後にもうひとつライトが落ちた。


「――――!」


木の根元にクレアが背をあずけるようにして気を失っていた。

頭上に広がる太い幹から、先に輪っかのある縄が一本垂れている。


「今ならまだ、あの男の死を彼女のせいにして丸くおさめることができるわ」

「後悔の念にかられた自害に仕立て上げるってか?随分安い脚本だな。そこの女がそんな殊勝な性格かよ」


ルーシーがうすく微笑んでみせた。


「お前の思い通りにはならない。俺たちもフランクリンも、お前がやったことを知っているからな」


『―――― それくらイ、ワタシが記憶ごと消し去ってしまうかラ、心配しなくてだいじょうブ』


ぞわりと黒いもやがふくらんだ。

女の声とも、蓄音機のひび割れた音ともとれない、おぞけの走る声音。

全身があわだつ感覚にチャーリーは思わずアレクの上着のすそをにぎりしめた。


「アレしゃべるんですか……!?」

「はっ。人の憎悪をたらふく食って、随分ご機嫌じゃねぇかよ」

『あア、美味しかっタ。美味しかったとモ。あの男を殺した時ノ、あの業火のような怒りハ、特別美味しかっタ!』


耳ざわりな笑い声にかぶさるように、ふたたび鈴の音が鳴った。



しゃりん!



新たなライトが照らし出したのは劇場の事務室。

ハーヴィー=トンプソン座長とルーシーがふたりだけで立っている。

トンプソンの赤ら顔を見れば、男が昼間から酒盛りをしていたことは明白だった。


「ハーヴィー、今日も借金取りの連中が劇場まで押しかけて来たわ。あんなに大声で扉や壁を蹴りたてて……私たちがまわりにどんな目で見られてるかわかってるの?このままじゃお客さんが誰も来なくなってしまうわ!」

「うるせーな……」

「それにあなた、下の子たちの給金の支払いが滞ってるって苦情がきてるのよ。まさか、またツケの支払いに金庫のお金を使い果たしたなんていわないよわね?こんなこと、父さんが生きてたら絶対に許さなかっ ――――」

「うるせーっつってんだろ!」


ガシャーン!とトンプソンがなぎ倒した机の上のものが床に叩きつけられる。

書類が舞い、酒瓶が床に転がった。

おびえて一歩下がるルーシーの様子に幾分溜飲が下がったのか、男は鼻でせせら笑った。


「キーキーわめかなくても、コトを全部解決する策があんだよ」

「……策ですって?」

「この劇場を売却する」

「またそんなことを……。わかってるんでしょ?こんなへんぴな立地の物件を欲しがるモノ好きなんてそうそういないわ。おじいちゃんだって、そうやって売れ残ったここを格安で買い受けたんだから」

「ならお前んとこのジジイと同じモノ好きがあらわれたってことだな」


ルーシーが怪訝な顔をする。


「どういうこと?」


トンプソンは金庫の中からおもむろに書類の束を取り出した。

金庫の中には他に何もない。

やはり金を使い込んだのか、と眉間のしわを深めながらルーシーは書類に目を落とした。そして絶句する。


「どっかの地方の醸造所が、ここを工房に建て替えて使いんだと。繁華街での売り上げがよっぽどいいんだろうな。使ってる倉庫の隣だっつー立地も、あっちには都合が良かったらしい」

「これ……まさかもう話が進んでるの!?」

「まさか」


胸をなで下ろすルーシーにトンプソンはにやりと笑った。


「もう締結サインした」

「!!」


トンプソンは飲みさしの酒瓶を片手に、部屋の中を舞台のように歩き回った。


「期待したほどの額にはならなかったけどな。ほんとに最後の最後まで使えねぇ劇場だよ」

「そんな……み、みんなは……スワロウ座はどうするつもりなの!?」

「解散に決まってんだろ、解散!どうせ大した芝居なんてやっちゃいないんだ。そんなに給金が欲しけりゃ他の劇団へうつればいいじゃねーか!」


契約書をもつ手が震える。

心臓の音がドクドクとうるさかった。


「俺だってなぁ、こんなことになるはずじゃなかったんだよ。繁華街の中では割と客入りのいい劇団だってんで、我慢してお前みたいな陰気な女とうだつのあがらないオヤジのご機嫌うかがいをしてたってのに。ふたをあけてみりゃ自転車操業もいいところだぜ!」


蒼白だったルーシーの顔が真っ赤に染まり、くしゃりと歪んだ。

ハーヴィーは芝居がかった仕草で背を向けると、大きく手を広げて天をあおいだ。


「まったくしけた劇団だぜ!そのくせいっちょ前に意識だけは高いときてる。自分たちの芝居で世界がとれるとでも思ってんのか?はたから見てておめでたいことこの上ないんだよ!」


口の中がカラカラに乾いて言葉が出てこない。


この男に、父と祖父が作り上げたスワロウ座のなにがわかるというのか。

こんな男の手で、命よりも大切なものたちが壊されていくさまを、ただ見ていることしかできない自分が心底腹立たしい。


―――― 悔しい、悔しい……!


黒い瘴気のようなが、ルーシーの背後で音もなくかま首をもたげた。


「お前ら程度のヤツらは世の中にはいて捨てるほどいるんだ。こんな矮小劇団が消えたところで、誰も気になんかしねぇんだよ!」


―――――― そう、奪われてはいけない。


が耳もとでささやいた。


『こんな男にいいように使わレ、すべてを奪われるなんてこト、あってはならなイ』


許してはいけない。

いかせてはならない。



『今ここで消さなくてはならなイ』




足もとに転がる酒瓶を取り上げた。

背を向けた男は、なおも調子良くなにかをいい連ねている。

柄をにぎりしめ、ルーシーは大きく振りかぶった。

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