第4話 絵の神様の贈り物
パン屋を出たチャーリーは、いつもより美味しく感じるパンを頬張りながら石畳の上を歩き出した。
通行人がせわしなく行き交う表通りはいつのまにか朝の活気に満ちていた。
靴磨きが呼び込みをかけ、新聞売りの少年が「号外だよ!」と声を張り上げ、労働者たちがそれぞれの職場へおもむいていく。
チャーリーは前庭の花々がつぼみをほころばせる教会の前を突っ切った。
角をまがって、市場のそばを通り過ぎる。目印の街灯が見えたら、目的地に到着だ。
市場の入り口近くの道角に荷物をおろすと、さっそく店開きにかかった。
(今日こそはなんとしても稼がないと!)
描画材、見本絵を貼り付けた板と、立てかけるための折りたたみ式の什器。あわせてうたい文句の書付も並べる。
――――『似顔絵 承ります』
――――『お気に入りの景色を描きます』
――――『思い出の風景をよみがえらせます』 などなど
こうした商売に必要な小道具も、祖父から受け継いだものだ。
祖父はお人好しで、頼み込まれると否とは言えない性格で、決して商売に向いていたとはいえないが、絵描きとしての技術と知識はズバ抜けていた。
界隈に名が知られているわけではないが、絵にせよなんにせよ、祖父ほど造詣の深い人間をチャーリーは他に知らない。
絵に対する情熱も然りであった。
特に未知なるものを前にした時の眼の光らせようは相当なものだった。
そのあたりは、孫娘であるチャーリーもしっかり血を継いでいると自負している。
(そういうこともあって、うちは基本的にひとところに長く居続けない、がモットーみたいなところがあるんだよね)
可能な限りいろいろなものを見て絵に残すため、新天地を求めて、旅を続けるのだ。
「――――『写真の拡大承ります』って、ほんと?」
チャーリーが顔をあげると、眼の前に男の子が立っていた。
身なりは良く、片手に古びた絵本を抱えている。
空いている方の手で書付を指す少年に、チャーリーは微笑んだ。
「本当だよ。自分は、見たものをそっくりそのまま絵にするのが得意なんだ」
「じゃあ……」
そういうと少年は懐から細い金の鎖につながれたロケットペンダントを取り出した。
チャームを開くと、小さい写真がおさまっていた。
「この写真を大きくすることはできる?」
「もちろんだよ。ただ……ええと、お代をいただくことになるんだけれど」
「これで足りる?」
少年が差し出した硬貨は十分な金額だった。
身なりといい、書付の文字を読んで理解したことといい、どこかの良家の子息なのかもしれない。
満面の笑みでうなずいたチャーリーは、さっそく商品用の上質な紙と台代わりの板を開いて、作業にとりかかった。
「じゃあ、写真を見せてもらえるかな?」
「うん」
大振りのメガネの奥にかくれる緑青色の瞳がチャームをじっと見つめる。
ややあって、絵描きはチャームを閉じた。
「はい、ありがとう」
「え?」
返されたペンダントを手に、少年が戸惑ったように目を見開いた。
「もうおぼえたから」
そう、へらりと笑ってみせると、メガネの絵描きは手元に眼を落した。
* * *
触れるか触れないかの軽やかさで、鉛筆が紙の上をなめらかに走る。
黄みがかった厚紙の表面に次々と落とされていく、チャーリーにしかわからない「点」。
それを打ち込むごとに、チャーリーの脳裏には、今しがた見たやさしげな男女の輪郭がはっきりと浮かび上がっていく。
ひとつひとつの点を打ち終えると、絵描きはまぶたを閉じ、たしかな形をまなこの奥に焼きつける。
―――― しずかに呼吸をひとつ。
絵描きの鉛筆先が勢いよくすべり出した。
濃く、淡く。
複雑に、こまやかに。
頂点を結び、線を重ね、陰影を描きこんでいく。
女性のやわらかい頬の輪郭、男性の髪の毛の流れ、複雑な耳の形。
品の良いイブニングドレスの繊細なレースに、モーニングコートの生地の濃淡。
ひとつひとつのパーツを忠実に丁寧に、そして高速に再現していく。
あらかじめどこにどんな黒をのせれば良いかわかっているような、迷いのない鉛筆さばき。
眼を疑うような速さで、みるみるうちに白紙の上に命が吹き込まれていく。
『よく観なさい』
『できるだけ多くの情報を読み取りなさい』
『描く対象の本質をとらえてこそ、お前が描いた意味は生まれるのだから』
生前、師が繰り返し説いた言葉だ。
流しの絵描きの客は通りがかりが多く、長い時間を待ってもらえない。
限られた時間の中で、最大の成果を描き上げなければならないのだ。
『お前のすぐになんでも覚えてしまう力は、絵の神様からの贈り物だね』
ひと目見ればたいていのことは記憶してしまう孫娘に、祖父はしわの深いやさしい顔でいった。
でも、とそのたびにチャーリーは心の中で思った。
(たとえそうだとしても ―――― それを形にする術を私に教えてくれたのは、神様じゃなくておじいちゃんだよ)
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