第5話

  6


 逃走中、灰崎はふいに違和感を覚え、足を止めた。

 

 ——音が止まったのだ。

 機獣が轟かせる足音も、その際に生み出される衝撃波も全て、ぴたりと止んだのだ。

「——やっと、諦めてくれたか?」

灰崎は期待を込めて、背後を振り向く。

しかし灰崎の眼前から、あの機獣はいなくなってはいなかった。約三〇メートル。もう少しこの鬼ごっこを続けていたら、間違いなくあと二、三分で捕まっていただろう距離に、機獣は佇んでいた。

灰崎にとって幸いだったのは、機獣の眼光が灰崎に向いていなかったということである。今の機獣の興味は、灰崎にはなかった。機獣は、まるで目の前に立つ灰崎が見えていないかのように、視線を移していた。

「何してんだ……」

 機獣の目線を移した先にあったものは、裏路地のようだった。建物と建物の間に生まれた、人が一人通れるぐらいの小道がそこにはあった。機獣は、確かにその路地を見つめていた。

機獣の目を引いたもの、灰崎の目からもその正体は一目瞭然だった。

 

——そこには、一人の少女の姿があった。


「……、」

 灰崎は息を呑む。少しの間、息をするのも忘れていたほどに、灰崎はその少女に魅入られた。

白銀。その少女を一言で表すのなら、そう表現するのが一番であろう。白い肌に、白いセーラー服を身に纏い、少女はまるで人形のように、地べたに座っていた。髪は、まるで粉雪のようだった。手で掬ってしまえば最後、指と指の隙間からサラサラと零れ落ちてしまいそうな長い銀糸の髪を、その少女は持っていた。

長い前髪の隙間から見える目は、白く透き通った藍色をしており、昔写真で見た、青空を彷彿とさせるような空色だった。しかし、その目には生力がなく、今にも閉じてしまいそうなうつろな表情を浮かべていた。

——小さく、呼吸をしている点だけが、その少女が人形ではなく、人間であることを実感させた。

 少しの間、静寂があった。

機獣、灰崎共に、立ち尽くし少女を見つめていた。一方少女も、その場から動くことはなく、ただ前方をぼんやりと眺めていた。少女の視界には、灰崎も機獣すらも、映ってはいないようだった。


「……銀髪の少女、——とんだ偶然もあったもんだ……」

少しして、灰崎はそう呟いた。少女の外見は、依頼内容と完全に一致する。おそらく、捜索対象の少女はあの子の事だろう。こんな華奢な少女がこの場所にいることも驚きだが、それよりまだ息があることに灰崎は驚きを隠せなかった。

——しかし、どうしたものだろうか。どうやって、あの少女に近づこうか。

というのも、少女自体は目の前にいるが、少女が座している場所は、機獣の真横の路地なのだ。そのため、少女に近づくことは、機獣に近づくことと同義である。保護しようにも、あの機獣が邪魔すぎる。


「——でも……、このチャンスを易々と手放すわけにはいかないよな」

灰崎の顔つきが変わる。今まで目的はあったものの、その目的達成の糸口が見出だせず、悲観的になっていた灰崎とは違う。今の灰崎には、明確に目的が見えている。

——少女を保護すること。

それが、今の灰崎が取るべき行動。目的が定まったのなら、あとは動くだけ。

灰崎は、視線を少女から機獣へと移す。

——それとほぼ同時。

機獣も、少女から目線を外し獰猛な顔面を上げた。

灰崎の敵意に反応し、機獣は激昂する。

そして、両者の視線が再び交差する。


——開戦の狼煙は、機獣の咆哮だった。

鼓膜を破らんとばかりに飛んでくる圧倒的な音圧。直後——地面に積重する灰を丸ごと吹き飛ばす程の風圧が灰崎に迫り来る。まるで、突発的な嵐だ。灰崎は脚を強化し、何とか飛ばされまいと耐える。

何とか耐えきった灰崎は、ふぅと息をつく。しかし、機獣は待ってはくれなかった。間髪入れず、今度は少し体を揺らし直後、地面を蹴り上げ灰崎に肉薄する。

灰崎との接触まで、その間僅か一秒。脚を強化した灰崎と言えど、この距離の突進は躱せない。絶体絶命かと思われたそんな状況下でふと、灰崎は肩に掛けていたバットケースを手に取った。

そして次の瞬間、


——金属と金属が衝突する甲高い音が鳴り響いた。


灰崎は、機獣の突進を正面から受け止めたのだ。

受け流したわけではない。ただ正面から迫り来る機獣の刃を、その長物で受け止めた。衝撃に耐え兼ねたバットケースが裂かれ、その中身が露わになる。

それは、全長黒塗りの刀のようだった。一見、普通の日本刀に見えるそれは、普通の刀ではなかった。

鉄刀(てっとう)。刃が付いていない刀形状の鍛鉄製の武具。大昔、崩壊が始まった時よりももっと以前、相手を必要以上に殺傷せずに拘束するために用いられたと言われている器物。刃渡り六〇センチ以上の物は、兜割りとも称され、折れないことを第一義とし太く厚く作られる。  

灰崎の持つ鉄刀は特注品で、より頑丈に、より長く、より厚くをモットーに作られており、灰崎が扱えるギリギリの重量と長さを誇る。

本来の用途を完全に超越したその刀で、灰崎は機獣の一撃を受け止めた。

 衝撃波により宙に舞った粉塵が視界を狭める。しかし、今の灰崎には関係なかった。対する敵は、互いの刃を挟む形で目前に存在している。

両手がじわじわと痺れているのが分かる。

ビルを薙ぎ払う程の一撃を受け止めたのだ。灰崎自身、まさか無傷で受け止めきれるとは思わなかった。腕の一本ぐらいは覚悟の上だったが、それでも無事なのはこの鉄刀の丈夫さあっての物だろう。

 ——何発も受け止めるのは……流石に無理だな。

 一発は耐えられたが、何度もこの一撃を受け止めきることは不可能だろう。

 ——ならば、

 灰崎は、後方へ跳躍し機獣から距離を取る。そして、大きく息を吐いた。

一瞬の脱力——

直後、今まで脚に集中していた強化を全身へと巡らす。灰崎は、猪型の機獣から逃げることではなく、討伐することを選択した。

『全身強化』——

 脚や腕だけを強化する『部分強化』とは異なり、全身全てに強化を巡らせる——灰崎が行使できる最大出力。

「明日は確実に動けないな……」

 全身が熱い。全身の筋肉が軋んでいるのが分かる。この力を行使した翌日、灰崎は筋肉痛で動けなくなる。それほどまでの、力の結集。

 その力を駆使して、灰崎は地面を蹴る。

——足場に小さく粉塵が舞った。

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