第16話 安アパート

 六畳一間ろくじょうひとまの安アパートに入ると、

「帰ってきたーっ!」って感じがする。


 とにかく、あの豪邸ごうていじゃ、何もかもが堅っ苦しくて、全く気が休まらない。


 俺は歌なんて口ずさみながら、ポイポイッと服を脱いで、シャワーを浴びる。


 温かい湯を浴びると、全身にのしかかっていた疲れも洗い流されるようだ。


 椿つばき丁寧ていねいに塗ってくれた化粧品なんかも、全部洗い流してしまう。


 やっぱ、素顔が一番。


 今まで何の手入れもしてこなかった俺に、化粧品なんて無用の長物むようのちょうぶつ(必要のないもの、邪魔なもの)。


 ユニットバスの洗面台に設置された鏡に、自分の体が映った。


 鏡のくもりを手でぬぐって、マッチョポージング。


 うん、俺だって悪くない体型をしてるよな。


 なんて、自画自賛じがじさん


 全裸執事なんかにゃ、負けないぜ。


 なんて、対抗意識たいこういしきを燃やしてどうする。


 ちょっと恥ずかしくなって、顔をパンパンと軽く叩き、体をざっと洗う。


 タオルでガシガシ拭きながら、バスルームを出る。 


 服を身に着けながら時計を見れば、出勤時間をとうに過ぎていた。


「ヤッベッ!」


 大慌てで外へ出ると、見たこともない真っ赤なスポーツカーが停まっていた。


 すぐ横には、ダークグレーのスーツに、赤のカラーシャツ、黒ネクタイを身に着けた若い男が立っていた。


 モデル並みの超絶美形で、シャープなノンフレームメガネを掛けている。


 一見、車の広告みたいな光景に、通学中の女子高生達が色めき立っている。


 ん? どっかで、見たような……?


 男は俺と目が合うと、飼い主を待ちかねた犬のように、嬉しそうに駆け寄って来る。


「お待ちしておりました、ご主人様! この桜庭春樹さくらばはるき、命をけてあなた様をお守り致しますっ!」


 歌うように高らかに宣言する桜庭に、通りすがりの会社員や学生達が、何事かとジロジロ見ている。


 うわぁ、なんつー恥ずかしいマネしてくれちゃってんのっ!


 慌てて桜庭に、耳打ちする。


「お前、桜庭かっ。見違えたぜ。私服か、それ? 服着れば、普通にかっけぇんだな。ってか、お前、外で俺を『ご主人様』って呼ぶな、恥ずかしいっ!」


「何故です? ご主人様は、ご主人様でしょう?」


 不思議そうに、長いまつ毛をバッサバッサ瞬かせる桜庭に、言い聞かせる。


「良いか? まだ、正式に相続してないんだから、まだご主人様じゃないのっ」


「では、何とお呼びすれば?」


「普通に、名前で呼べば良いんじゃない?」


「では、川崎かわさき様」


 にっこりと笑顔で呼ばれると、営業スマイルの店員に呼ばれてるみたいだな。


 俺はうーんと小さくうなって、訂正を促ていせいをうながす。


「それも、堅っ苦かたっくるしいな。名前に『さん』付けとか、どう?」


「では、虎河たいがさんで、よろしいでしょうか?」


「おっ、それそれっ! それが、一番しっくりくるっ」


 他に、俺に「さん」付けするヤツはいないし、呼ばれた時に気持ちが良いがした。


 俺が笑顔で頷くと、桜庭も大輪たいりんの花が開いたようにふわりと笑い返した。


 そこで、桜庭は腕時計で時間を確認し、「あっ」と驚きの声を上げる。


「いけません、虎河さん、大幅にお時間が過ぎております。お早く、お車へお乗り下さい」


「分かった」


 桜庭はさり気なく俺をエスコートして、後部座席のドアを開けた。


 俺が乗り込んだのを確認すると、ドアを閉め、桜庭は素早く運転席へ着いた。


「遅れておりますから、少し飛ばしますよ」


 桜庭がそう言った直後、グンッと、体に重力加速度Gravitionが掛かって、思わず苦笑。


「コイツ、運転手には向いてないわ」

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