第六章 新しい棲み家
私が思ったとおり一目見るなり、荒也はあの山にほれ込んだ。柚木先生の陶房もすっかり気に入って、その後毎週通い続け…一ヶ月後には驚いたことに向こうに住み着いてしまった。
先生もそろそろ力仕事の出来なくなる時期で荒也のやる気を歓迎してくれていた。柚木先生の山に小さな小屋を建ててそこで暮らすらしい。その木の切り出しに近くの潤さんという若者が応援に来てくれて、私が行く度に山を案内してくれた。
荒也には此処が似合うと思っていた私にも予想ができないほど、町に埋もれていた荒也の顔は活き活きと今までとはまるで違った、日に焼けて引き締まった表情に私は驚いていた。
私達の周りは日に日に激しく変化していく、目的が定まってキラキラし始めた。荒也の、何者にもなれなかったあの頃が不思議なくらい過去の話になって、陶芸も山の仕事も全てが元々備わった能力のように体つきが変わっていった。
そしてその極めつけがこれだった。
「こんにちわ」
挨拶をしながら砂利道に車を止めると、庭木をいじっていた早乙女のおじいちゃんが、
「おかえり~」
と答えてくれる。
「おかえりか~」
なんかホッとする。トランクの荷物を抱えて荒也の仕事場に向かった。私の仕事場の展示室からまた世界が一つ広がる。
作業場の奥にある小さなキッチンを目指して仕事場を横切った。荒也が真剣に土を練っている。柚木先生は横のガラス張りの談話室でお客さんと話をしていた。
「いらっしゃいませ」
「いやあ、この頃先生のところ若い人が増えて活気があるね。じゃ今の話、早いうちにまた良い返事聞かせてくださいよ」
取引先の間宮工房の河合部長がそう言って立ち上がった。
「良い話だよ。この前の窯出しした作品で個展をやらないかってさ。個展の分はあるけどもう少しいるな」
と嬉しそうに話す声をキッチンから聞いていた。
「萌黄ちゃん何持ってきたの。そんなにたくさん」
「あ、荒也がヨーグルト好きだから。それとこれ作ってみたんです。フルーツケーキ。お茶入れますね」
「またヨーグルトか?」
荒也が戸口にもたれて立っていた。
「あら、前に食べて美味しいって言ったじゃない」
「それ好きなの僕じゃなくて萌黄だよ」
「え?私、ヨーグルトってそんなに好きじゃ無かったけど」
「嘘つけこの前からよく食べてるよ」
荒也の話に奥さんが声をたてて笑った。
その時…ムカつきが込み上げて私はうずくまった。そして、急いで洗面所の水をひねった。
「大丈夫、萌黄ちゃん!」
奥さんが背中をさすってくれる。
「なんか変なもの食べたかなあ。ウッ」
まだ朝食をとってない。胃にはもどすものも何もない。
「まさか……」
「え?」
「先生、村木先生んとこ土曜もやってる」
と奥さんが大声で叫ぶ。
「やってなくたって診てくれるよ。そんなに悪いの?」
先生まで心配してやってきた。
「ええ、診てもらった方がいいと思います」
「え?」
きっぱりと言う奥さんにこっちが戸惑っているうち、みんな大騒ぎして私は車に乗せられてしまった。
窓の外はすっかり秋。紅葉した景色が走り過ぎていく。高い枝にびっしりと実った柿がこの辺りの典型的な風景だった。明るい高い空。青い空。私はハンカチで口元を押さえながら頭の中は周りの景色を追っていた。
こういう景色の中に今いるのが本当に不思議だった。私も荒也もあんなにもがいていた毎日。縁とはいえこんな幸運なことはない。今は、こうして欲しかった景色の中にすっぽりとはまり込んでいた。
村の診療所の先生から告げられた診断は想像もしない衝撃だった。
「おめでたですよ。妊娠三ヶ月」
「え?」
と顔を見合わせた私と荒也の硬い表情。周りはまったく勘違いして盛り上がり始めた。
「ほら、私すぐそう思ったの。だから早いほうがいいって村木先生に無理言ったのよ」
と奥さんが誇らしげに言う。
「そうかおめでたか、僕達の孫みたいに嬉しいじゃないか」
と柚木先生まではしゃぎだした。
「萌黄大丈夫か?」
お祝いの騒ぎの中で荒也が気遣う。
「うん、本当なのかなあ。検査したし本当だよね」
頼りない私の声に荒也が叱咤する。
「しっかりしろよ。お母さんだからな」
嬉しいも悲しいも沸いてこない。ただびっくりしていた。誰もが信じている。この子は私と荒也の子だと……
「萌黄、今日はこっちへ泊まっていけ。部屋あるから」
そう荒野が言うと、
「無理しちゃ駄目よ。家にだって客間くらいあるんだからそっちを使って。私が美味しいもの作ってあげるから、栄養つけないとね。一人じゃちゃんと食べれてないんでしょ」
と、奥さんが優しい声で言った。
そうだ、考えれば思い当たるふしはある。でも忙しかったし、バタバタしてたし、ゆっくり考えることもなかった。
私は呆然としながらまた車に乗せられて陶房へ戻った。
「萌黄歩けるなら、少し散歩しよう」
そう荒野が声をかけてくれた。それでやっと何か考えなければと緊急停止していた試行回路が回りだした。
「ちょっといいですか。その辺散歩してきます」
荒也がそう言うと、
「はいはい」
と先生は笑って軽い返事をした。
あまり喜んでなさそうな私をみんな変に思っただろうか。でも、荒也と二人で手を取り合って喜べることではないのは確かだった。
「こういうことがあるんだな」
二人きりになるとようやく荒也が噛み締めるようにそう言った。
「やっぱりあいつはおれたちの前からいなくなったりしないんだな」
荒也の言葉に激しく何かが反応した。
「それは違う……この子と君彦は違う!」
私の声に荒也がびっくりした。だって私はそう思った。この子は私の子だ。君彦と別れた以上、知らせる気もなければ頼る気もなかった。そうじゃなければ産めない。
また何かを引きずりながら生きるなんて御免だ。そんなの辛すぎる。
「荒也の子って…みんな思ってしまった」
真っ青な顔で胸の疼きと戦いながら、少し冷静さを取り戻して私はそうつぶやいた。
「萌黄がよけりゃそんなのは良いさ」
「でも、私、結婚したくないの」
「得、その子は、子供は?生みたくないってこと?」
「違う。よくわからない」
そう言った私に少なからず荒也が反応した。でも、それが今の正直な私の気持ちだった。
「私は、私でいたい…」
涙が出てきた。荒也に何をどう伝えたらいいのかわからない。
「父親は必要ないってこと?」
また荒也が聞いた。ううん、そうじゃない、そう言うのとは根本的に違う。一人で生きたいと言うのとも少し違う。ただ私は、まだ私でいたいそんな気持ちだった。
「産みたいなら、産むんならここで産めよ。子供を幸せな子にしてやろうぜ。おじいちゃんもおばあちゃんもいるし早乙女のじいさんも、潤さんも良い人だし。
環境だって……だろ、ここは良いところだよ。萌黄がいやなら結婚なんかしなくてもいいさ、むつかしい家庭環境とか言って誤魔化しとこうぜ。俺も長男だし、萌黄も長女だから名字はかえられないとか言って、当分それで何とかなるよ。
それとも俺が父親と思われるのが嫌か?」
そう優しく聞く荒也に情けなくなって涙がこぼれた。
「その方がみんなの子と思われて大切にされるかもな。そいつも」
とか言って笑ってる。私は泣きながら荒也の腕にしがみついた。安心できる大きな腕だった。それだけで身勝手だけどこの子が荒也の子になった気がした。
小屋の設計が変更になって予定より随分大きくなった。急ピッチで完成させて、あれよあれよと勢いが付き、自分でも信じられないことに、新しい年から私は荒也とこっちで暮らすことになった。瓢箪から駒みたいな不思議な巡り合わせだったけど、私達は君彦が予告したように一緒に暮らすことになった。
結婚をためらう私を別の勢いが押し流して荒也と同じ屋根の下に住む。朝から夜まで荒也と一緒にいる生活。荒也はよく働いた。楽しそうに汗して働く姿が荒也にはよく似合った。そして、それを見守る私も幸せだった。
私の仕事は此処でも出来た。規格品を作るのはもう無理だけど。納得のいく自分の好きなものは出来ると思った。
私は小さなクラフトを作りながら家の前の空き地を耕作して畑を作った。昼休みになると荒也がやってきて荒れ地を起こして少しずつ広げてくれる。二月もすると柚木陶房の片隅には美しい畑が続き、明るく陽のさす畑の端に小さな鶏小屋も建て終えて、私達はすっかりのどかな農夫になってしまった。
午前中家事をして、畑の様子を見て、クラフトを作る。お昼は陶房でみんなで食卓を囲んだ。寒い冬に備えて潤さんが何処からかストーブを調達してきてくれて、荒也は忙しい中、自分の家の分の薪割の仕事までこなさなければならなくなった。ストーブの火は静かに揺れてこの家を温め荒也と私をぬくもりで包んだ。
私のお腹は産み月に入ってもあまり目立たず、柚木先生や潤さんに大事にされるとかえって気恥ずかしかった。
独り身のころ、私はこんなに年齢の離れている人に囲まれて暮らすことはなかった。自分たちだけで生きているとさえ思わない。意識もなく、謙虚さもなく、優しさもなかった。
でも、此処には年をとった柚木先生や早乙女のおじいさん。潤さん。村木先生。みんないて誰もが優しかった。共に生きてくれた。
六月、桑の実が成る頃、私達に赤ん坊が生まれた。私達にと言うのが自然なほど、ここに来て以来仲睦まじい二人になっていた。
生まれた子供は父親に似ると幸せになるという女の子だった。端正な美しい顔。こればかりは隠せない。君彦に面影がよく似ていた。この子に君彦を感じなら日々暮らすのは荒也には辛くないだろうか。今まで長い間私を支えてくれた荒也にこれ以上辛い思いをさせたくないとそんな思いが胸をよぎった。
「萌黄生まれたって?身体大丈夫か」
息を切らして走ってきた荒也が私の事を心配して聞く。荒也はいつだってそうやって私の事を心配している。私の心配をよそに、ベッドをのぞいてしげしげと赤ん坊を眺めていた。
「可愛いな。真っ白でお姫様みたいだ」
真っ白、そう、私もそう思った。この子は雪のような肌をしている。こうやって同じ物を見て同じように感じる。それが親と言うものかもしれないと勝手にそう思いたかった。
「荒也、この子に名前をつけてやって」
私がそう言うと荒也は困った顔をした様に見えた。
「あ、今すぐじゃなくていいのよ」
「いいや、雛子ってつけよう」
荒也の即答に私が驚いた。
「女の子なら雛子がいいなって思ってたんだよ。仕事をしながら手を止めて名前を考えたりしてた。色の白い小さな丸い顔。俺の中に出てきた顔そのままだよ。雛子の雛はお雛様の雛だよ」
仕事の手を止めて荒也が考えた名前。それはとても感動的な響きだった。この子に対する荒也の気持ちが溢れている気がした。
この子は木目込み人形のお雛様のような顔をしている。と単純に私も思った。私達の間に流れていた暖かい時間を噛み締めるように雛子を見つめた。その美しい寝顔を見て、私は幸せに成るために生まれてきたんだとその時そう思った。
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