第五章 生まれ変わろう

 私は夜明けの国道をスピードを上げて突っ走り、真っ直ぐ港へ向かっていた。ガラスを一杯に開けた窓から風が飛び込んでくる。頬を濡らした涙が一瞬に飛ばされ次々に乾いていく。

 荒也にも誰にも告げずに自分に問い返し続けていた言葉が心の中にじわじわ広がっていく。私はどうすれば良かったの?と。

 精一杯やって来たわよって。どうしようもない悲しみは何処へ向けたらいいのか方向が定まらない。この気持ちをどうすれば消し去れるのか見当もつかない。私はひたすら前だけを見て孤独に滑り落ちながら車を走らせていた。

 行こうとしているところは、本当はもうどうでもいいところだった。君彦と一緒にいくはずだったあの場所。私はずっと君彦に何も求めてなんていないと思っていた。欲しいものなんて実際何もなかった。

 でも、ただ一つ、君彦が息が詰まるほど、一つだけ欲しがってた物があったんだと思い知らされていた。決して君彦が私に与えられないもの。私の中から消し去れない要求。それがある限り私と君彦はもうやってはいけないと言うことを、もう前からわかっていたのに良い子ぶって誤魔化し続けてきた。

 そして、私にとってかけ替えのない君彦を遂に失った。

 朝の霧が馬場を覆う。心にかかるもやの様に静かに垂れ込めている。私は車を留めてとぼとぼと歩き出した。

 『何かあると運転って出来るようになるんだな』覚悟がないだけなんだ。誰かに頼ってるうちは車に乗るなんて考えもしなかった。一生ペーパードライバーで終わるんだと思ってた。そんなことを考えて心とは裏腹に顔は微笑んでいた。

 朝早くとはいえ都心の何車線もある道路は私にとっては信じられない修羅場だった。あそこを走ってきて今此処にいるかと思うと、近ごろの気持ちの変化に頭はともかく身体の何処かが敏感に反応しているような気がする。

 私達はあの重苦しい日々からようやく開放された。お互いに気まずいと思いながらずっと誤魔化し続けて来た日々。淋しい処だけ荒也に埋めてもらいながら、君彦と暮らしてきたまやかしの日々。

 それは、長い間私の中の何かを麻痺させていた。そうやって支え合うのはおかしいっていう、悲痛な心の叫びを押し殺してきた。

 私達二人はそうやって荒也に頼って過ごしてきた。でも、そこには二人の終わりが静かに確実に忍び寄っていた。二人で持ちこたえられない愛情は崩壊するしかない。私達をかばい続けた荒也には悪いけど、もう何年も前からそれは始まっていたんだ。

 この景色を見るのもこれで最後かと思ってため息をついた。澄んだ空気の冷たさは私の頭の中をしだいにすっきりさせていく。私の悲しかった過去を修復していく。私はうつむいた心を真っすぐ起き上がらせてもう一度別の道を歩いて行こうと何度も思った。

「あれ、荒也……?」

 顔を上げるとこっちに向かって歩いてくる荒也らしい人影を見つけた。ポケットに手を突っ込んで前かがみに歩く。あれは荒也に違いない。

「おう、ちっとも眠れなくてさ。朝早くから萌黄を捜したよ」

 照れ臭そうに笑う荒也がなんだか昨日の荒也とは別人に感じた。

「よくわかったね」

 私も思いっきり明るく笑った。

「お前の行きたいところ、此処しかないだろう。わかったさ、ごめん……だけどもう誤魔化せないよ。俺は、ずっと萌黄のこと気にしてた。いつも、心配だった」

「うん」

 それはわかってた。

 わかっててずっと甘えてきたんだ。

「昨日も萌黄が心配で眠れなかった。お前にとっては迷惑かもな。でももう我慢しないことにするよ。君彦から許しももらったしな」

 荒也が不安そうな顔で私を見た。今まで知らん顔してたから違う顔も出来たのだろう。自分をもっと違うところに置いて私達のことを冷静に見ていてくれたのだろう。

「ありがとう荒也。私、少しは軽くなった気がするの。まだ、かなり後遺症は残りそうだけどね」

 そう言った私の口元が震えた。君彦の存在をなくした事で私達はバランスを欠いていた。その頼りなさが心を震わせた。二人とも多分同じ痛みに胸が塞がれていた。

「荒也、ありがとう。ずっと支えてくれてたんだよね。私のこと」

 言えば言うほど君彦の言ったことが本当に成っていくようで困惑した。もう逃げ場はなくしてしまったんだ。誰かのせいにするわけにもいかない。ここで誤魔化したら益々険しい森に分け入りそうな気がした。

 私達は黙って歩いた。私は君彦に頼っていた。君彦にそばにいて欲しいとそればかり願っていた。そして、叶わない願いに押しつぶされて駄目になった。

 だから……だから荒也には頼りたくない。私は君彦との間違いを繰り返したくない。とそう思っていた。

「気持ちいー。眠気が吹っ飛ぶよ」

 朝の霧がだんだん晴れていく。荒也の何処か吹っ切れた顔は私と同じ朝陽に輝いていた。

「萌黄、今度は山、いつ行くんだ?」

「え?あ、来月の始め」

「今度は俺、乗せてってやるよ」

「いいよ、もう一人で行けるし」

「もう良いだろう。一人で行かせるの心配だったんだ。本当は一緒に行きたかったしな」

 そう言う荒也の気持ちを素直に受けておこうと思った。

「良かった。実はかなり怖かった。荒也に見放されてどうしようかと思ったんだ」

 そう言うと、屈託の無い顔で荒也が笑う。

「そういえば車で来たの?」

 と聞くと、

「イヤ、今日は萌黄に乗せてってもらうよ」

 意外な荒也の返事に私達は笑った。笑いながら、私達の間に君彦はもういないんだとそう思った。

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