第3話 始まりの記憶

 我は月明りの中、横で眠る自称乙女、アリア・ハーシェを眺める。


 腰まで伸びた長い黒髪は乱れ、意志の強そうな赤い瞳は、今は閉じられている。全体的にどこか幼さを感じさせる細くしなやかな肢体。しかし、触れば意外と柔らかいことを知っている。


「すぅ……すぅ……」


 安心しきっているのか、アリアの深く規則正しい寝息が聞こえる。今日会ったばかりだというのに、まるで「襲ってください」と言わんばかりの無防備さだ。


「はぁ……。なぜ、こんなことになってしまったのか……」


 我はアリアの様子にため息を吐き、自身の記憶を遡るのだった。



 ◇



「おめぇもしつこい奴だな。いいだろうケリをつけてやる」


 目の前の男、ブチがうんざりした表情でこちらを振り向いた。勝負から逃げ続け、追い詰められた男とは思えないふてぶてしい態度だ。なにか策でもあるのか?


「お前が逃げなければ、追う必要もなかった」

「ぬかせ。これは……散歩だ」


 ブチの語気が弱い。奴自身も苦しい言い訳だと分かっているのだろう。我も呆れてしまった。こんな奴がこのシマのボスだと? 若い時は随分やり手だったようだが、もう潮時だろう。我が終わらせてやる。


「その散歩も今日で終いだ」


 そう、追いかけっこはもうたくさんだ。今日こそ奴を叩きのめし、このシマのボスの座を頂く。我は決意と共にブチに向けて歩き出した。油断はしない。奴がどんな策を巡らせていようと、その策ごと喰い千切ってやる。


「ケッ、最近の若ぇ奴はケンカっ早くていけねぇ。こいつは躾が必要だな……ッ!」


 ブチの体中に力が漲るのが分かった。毛も逆立ち、奴が一回り大きくなったように見える。所詮はただの虚仮脅しだ。恐れる必要はない。注意すべきは奴の自信の正体……。


 我とブチの力の差は歴然。我の方が上のはずだ。ブチが我との決戦を避けて逃げ回っていたことからも間違いないだろう。ブチは必ず何か仕掛けてくる。まずは様子見といくか?


 我は一気に間合いを詰め、まずは様子見のジャブを放った。


 ブチはこちらの考えを読んでいたのか、ジャブを紙一重で躱すと、強力な打ち下ろしを放つ。


 早い。


 流石は老いたりとはいえシマのボスか。後ろに身を引くことで、ブチの打ち下ろしをギリギリのところで躱す……ッ。


 いや、躱しきれなかった。左の頬が少し熱を持ち、ヒリヒリする。どうやら掠ったようだ。


 そのことに気を良くしたのか、ブチの奴がニヤリと笑った。イラつく笑みだ。いいだろう認めてやる。たしかに読み負けた。読み合いは貴様の勝ちだブチ。だが、地力はこちらが上、次は真正面から勝負してやる。


 我は素早くブチに肉薄し、左の拳をブチの顔目掛けて打ち下ろした。さっきのお返しだ。我の左の拳がブチの顔面を捕らえた。だが、手応えがあまりにも軽い。クリティカルヒットとはいかなかったようだな。しかし、今のが避けれないとなると、ブチの奴は確実に衰えている。


 この勝負貰った!


 我は流れるような動作で右の拳を突き出す。ワンツー。この右拳こそが本命だ。


 ブチは、こちらの右拳を大げさな動作でギリギリ回避すると、大きくバックステップした。我から距離を取るつもりか? しかし、ブチのすぐ後ろは壁だ。追い詰めた。我はブチに追い打ちをかけようと前に出る。しかし、ブチはバックステップするなり、すぐさま壁を足場にこちらに飛びかかってきた。


「なにっ!?」


 ブチのまさかの行動に、さすがの我も驚きの言葉が漏れる。


「これで終わりだー!!」


 ブチが両腕を前に突き出し突っ込んでくる。これで終わらせるという裂帛の意志がブチから伝わってきた。これがブチの策だったのか。まんまと嵌まってしまうとは……。


 こちらは右の拳を振り抜いた直後で体勢が崩れていた。足は前進のために踏ん張り、今は自由が利かない。回避は間に合わないか。ならば……ッ!


 我は両足の力を抜き、覚悟を決めて、ブチの両の拳を頭と右頬で受けた。凄まじい衝撃だ。ブチの体重全てが乗った一撃。こちらの首から上が吹き飛ぶかと思うほどの衝撃だった。体がブチの勢いに押されて、後ろに倒れそうになる。我は敢えて勢いに逆らわずに体を後ろに倒した。


 素早く背を丸めると、グルンと視界が回る。我は、自ら地面に転がることで衝撃を受け流したのだ。


「ッ!?」


 ブチの顔に、驚愕の色が差すのが見えた。ブチは我の体を地面に叩きつけることを狙ったのだろうが、そうはさせない。


 視界がグルリと回って、もう暗くなり始めた空が見えた。ここだッ!


 我は両足に力を籠めると、思いっきりブチの腹を蹴り上げた。


「にぎゃッ!?」


 言葉にならない声を上げ、ブチの体がグルグルと回転し、空高く舞い上がる。いくらブチの身体能力が優れていようと、あんな状態では正確な着地などできないだろう。


「ぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ!」


 空高く上がったブチの体が、重力に引かれて落ちてくる。ブチの恐怖の感情が混ざった悲鳴が、だんだんと大きくなっていく。ブチの体勢は崩れに崩れ、錐揉み状態で落ちてくる。もう地面まですぐだ。あれではまともな着地などできまい。


「ヵハッ!」


 ドスンッと予想以上に大きな音を立てて背中から地面に叩きつけられたブチ。奴の口から一気に空気が抜けたような声が漏れたのが耳に届いた。


「くっ……!」


 我はクラクラする頭を振ると、即座に立ち上がる。頭や頬が熱を持ち、まるで大きな棘でも刺さったかのように鋭い痛みが走った。ブチの一撃は想像以上に重いものだった。足がふらつく。


 ブチに視線を向ける。ブチはまだ立ち上がることも出来ずに呻いている。かなりのダメージを与えたようだ。


 我はまだふらつく足を叱咤し、ブチに近づく。ブチが戦闘可能だとは思えないが、一応警戒する。老獪なブチのことだ。演技の可能性もあるからな。


 ブチはまだ地面に横たわったままこちらに視線だけを寄こした。


「げはっ……こりゃ……無理だな……てめぇの勝ちだ……」


 ブチが悔しさを滲ませ、息も絶え絶えに負けを認める。ずっと逃げ続けた男が、遂に敗北を認めた瞬間だった。


「貴様も強かった」

「ケッ、慰めは……いらねぇ……」


 ブチが我を勝者と認めた。これで、このシマのボスは我になった。ブチは強かった。我はブチのことを侮っていたことを恥じた。一歩間違えたら我は負けていたかもしれない。我が勝てたのは運が良かったからだ。


 ブチがのろのろと身体を起こし、地面に座り込んだ。そして、睨むように我の目を見ると、皮肉気に口を開く


「せいぜい、立派に勤めを果たすこった」

「あぁ」


 その言葉を最後に、我はブチに背を向け歩き出す。ボスの勤めか。一言でいえば、自分のシマの中に生きる皆を守ることだ。正直、面倒ではある。だが、これも我がボスの証のようなものだ。皆を守るから皆からボスと慕われる。せいぜい頑張るか。そんなことを考えている時だった。



『お願い、強いやつ、来て……!』



 遠くからだろうか、近くからだろうか、未だひどい頭痛がする頭に直接響くような声が聞こえた。若い女の声だ。強い奴? このシマで一番強いのはボスである我だ。つまり我への救援要請だろうか?


 やれやれ、ボスに就任した途端にこれだ。しかし、これもボスの勤めか。このシマの奴らに、我がボスに就任したことを知らしめるには良い機会かもしれない。ブチとの戦闘で若干消耗しているが……仕方あるまい。


「……よかろう」


 答えた瞬間だった。我の足元から光が溢れ出した。


 なんだこれはっ!?


 慌てて飛び退こうとすると、足がもつれて転んでしまった。クソッ、力が入らない。立ち上がろうと足掻いていると、急速に眠たくなってきた。なに……か……の、罠……か?


 我の抵抗空しく、我の意識は睡魔に落ちたのだった。

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