第9話 (友)出発
翌朝。
シュザベル・ウィンディガムは夜遅くまでかかった母の説得のせいで欠伸を噛み殺しながら服を着替えて大きめの鞄に本を詰めた。
朝ごはんは珍しく父も一緒に、家族全員で食べた。
父がシュザベルに味方してくれたおかげで母の説得は朝までかからずに済んだと言ってもいい。いつも通り、柔和な笑みを浮かべてお茶を飲んでいる父の隣では妹を抱えた母が未だに心配そうな顔を隠さない。
「それでは、そろそろ出発しますね」
約束の時間まではまだ余裕があるが、シュザベルは恋人であるティユ・ファイニーズにも話をしていこうと思ったのだ。
いや、弟のフォヌメ・ファイニーズが旅立つという話をしているはずだから、シュザベルが言わずとももう知っているはずだが。
これは建前。ただ、旅立つ前に彼女と話がしたいと思っただけだ。
一応、何日かかるかわからない旅になるので。
「……気を付けてね」
「はい。行ってきます」
母の腕の中であまり理解していない妹が楽しそうに手を振っている。その額にそっと口付けると幼い妹はきゃっきゃと喜んだ。
「お金、少ないけど持っていきなさい」
「ありがとうございます。行ってきます」
父から使い古した財布を受け取り、頭を下げる。
手を振って家を出ると、今日は随分といい天気だ。雲一つ見当たらないとはこのことを言うのだろう。
風魔法族(ウィンディガム)の集落から炎魔法族(ファイニーズ)の集落へは真っ直ぐに東へ行くだけだ。迷うことなくシュザベルは炎魔法族の集落に着いた。
フォヌメの家は可愛らしい花屋だ。まだ開店はしていないらしく、店の方は閉まっている。裏手に回ると丁度、フォヌメが家から出てくるところだった。
見送りらしい家族たちもぞろぞろと出てくる。
「いい、フォヌメ。外では生水に気を付けるのよ」
「えぇ……母さん、それだけかい? ほら、もっとこう……息子を心配するとかないの?」
「親が心配したって子どもはいつか巣立つものよ~」
のんびりとした母親と心配性の父親の会話が聞こえる。
当のフォヌメといえば、妹のシュマ・ファイニーズと見つめ合って涙涙のお別れをしていた。
「フォヌメお兄様……しばらく会えないなんて、悲しすぎますわ……」
「けれど、僕はもう決めたんだよ。世界を見てくるって!」
「あぁ、お兄様……! どうかご無事で……」
「シュマ、シュマも元気でいるんだよ」
「はい……!」
毎度思うが、大丈夫だろうか、この兄妹。
横では上の双子の姉兄が微笑ましい顔で二人を眺めている。……呆れ半分だが。
不意にティユの双子の弟であるレフィス・ファイニーズがシュザベルに気付いた。フォヌメによく似た顔(こっちが双子と言われた方が納得出来る)、ティユと同じ薄く赤みがかった栗色の髪は毛先から十センチくらいまでが深紅に染まっている不思議な頭をしている。
「やぁ、シュザベルじゃないか」
「おはようございます、レフィス炎精霊神官さま」
「レフィスでいいのにー」
横でティユがくすくすと笑っている。
レフィスはちらとティユを見てからシュザベルの襟首を掴んで一同から少し離れた。そして声を潜めてシュザベルの名前を呼ぶ。
「ニトーレさんから話は聞いているよ。<雷帝>さまとジェウセニューを探しに行くんだろう?」
「……ご存じでしたか」
「ああ。昨日いきなり炎精霊(ファイラ)が動揺していたからね」
レフィスはニトーレ・サンダリアンと同じ精霊神官だ。この様子だと七人の精霊神官全員にシュザベルたちの行動は筒抜けだろう。
「本当はニトーレさんが一番飛び出して行きたいんだ。だって<雷帝>さまは彼の憧れで初恋の人だからね」
「……それ、バラしていいんですか?」
いや、マズい。ときっぱりというレフィスはケラケラと笑った。
「っと、いつまでもオレがシュザベルを独占してたら姉さんに睨まれちゃうな。フォヌメを迎えに来たと見せかけて、ティユに会いに来たんだろう?」
うふふと笑う青年の額を指で叩いた。あいたーとわざとらしく言うレフィスを放置してティユに近付く。
視界の端でティユの父親がこちらを睨んでいるのが見えたが、見なかったことにした。それに自然な形で背を向けてティユに声をかける。
ティユは嬉しそうにおはようと微笑んだ。
「おはようございます。その様子だと、やっぱりフォヌメから聞いているようですね」
「ええ。ミンティスくんと三人でちょっと遠いお出かけなんでしょう? ……ちょっと変な子だけど、弟のこと、よろしくね」
「任されました。……と言いたいところですが、変な子ですが彼ももう自分の店(シロ)を持つ一人前ですよ。まだ未成年ではありますが」
「もう、シュザベルだって未成年でしょ」
「……もう少しだけ、待っててくださいね。成人した暁には……」
そっとティユの首にかかるチェーンを通した指輪を取る。その薄緑の石に短く口付けると、ティユは茹蛸のように真っ赤になった。
シュザベルは自分も頬が赤くなっていることを自覚しつつ、指輪を手放す。
「待っててください」
「……うん、待ってる。だから怪我しないで、無事に帰ってきてね」
「はい」
背後で言語にならない奇声が聞こえる。ティユの父親だ。母親が襟首を掴んで足止めしているが、その手を離せばすぐにシュザベルに飛び掛かって手にした塩を撒くだろうことは容易に想像出来た。
シュザベルは苦笑しつつ、ティユに手を振って背を向けて歩き出す。
フォヌメもすぐにシュザベルに並んで歩きだした。
「フォヌメ~、生水は飲んじゃ駄目よ~」
「このっ馬の骨っ! 戻ってこいっ戻ってきて塩撒かれろっ! このっ!」
「お父様、見苦しいことはおやめくださいな。……いつまでもティユお姉様の迷惑になるようなことしてんじゃねーぞ♡」
ちらと肩越しに振り返るとちょっと形容しがたい光景が広がっていた。具体的に言うと父親の襟首をギリギリと締め上げる末娘の姿とか。未来の義妹が怖い。
フォヌメはその光景が見えていないのか見えていて理解を放棄しているのか、普通に笑顔で手を振っている。
「……相変わらず、賑やかなご家族ですね」
「そうかい?」
自覚ないのか。
炎魔法族の集落から真っ直ぐ南に歩けば雷魔法族(サンダリアン)の集落だ。集落の入り口でミンティス・ウォルタとも合流した。
斜めに掛けた鞄にはそれほど荷物が入っているようには見えない。
「おはよう、二人とも」
随分と機嫌がよさそうだ
シュザベルたちもおはようと返すと、ミンティスは頬を桃色に染めながら「聞いて、聞いて」とシュザベルの袖を引く。こんな甘えたような仕草をする時点で嫌な予感はした。
「出るときにラティスが見送りに来てくれてね、手作りのお守りをくれたんだ。ほら、これ。手作り! しかも昨日伝えて今日の出来上がり。仕事が早い。流石ラティス。可愛い上に有能とかもう神は二物を与えたどころの話じゃないよね。本当可愛い。ボクの彼女可愛すぎて辛い。やっぱ行くのやめようかな……」
「やめないでくださいね」
案の定、彼女であるラティス・ウォルタの惚気話だった。ラティスは水魔法族族長の一人娘でミンティスの一つ下の年齢。小柄で可愛らしいという言葉が似あう少女だったと記憶している。
会った回数よりもずっとミンティスからの惚気を聞く回数が多くて、ほぼ知らない間柄のはずだがよく知っている近所の女の子くらいの印象を持ってしまっている。
ミンティスが自慢げに見せたのは魔法族(セブンス・ジェム)の間ではよく作られる菱形のお守りだ。中にはお願い事を書いた紙や魔力を込めた小さな石などを入れることが多い。
手作りであるそれは少しほつれていて、上手な作りとは言えないが、丁寧に作ったのは伺えるものだ。
ちょっと羨ましくなったことなんてない。気のせいだ。
「っていうか……フォヌメ?」
「なんだい?」
「なんかヒラヒラ増えてない?」
シュザベルが放置していたことをミンティスが指摘すると、フォヌメは嬉しそうにその場でくるりと回って見せた。ひらりと袖や髪のリボンやフリルが風を含んで舞う。
「これに気付くとは、流石、僕の友だね! サストレが新しく生地を作ってくれた話はしただろう? その生地を使ってハヤットが作ってくれたものだよ。もちろん、炎耐性が強く、滑らかな手触りと見かけに反して涼しさを追及している一品! 美しい色合いがこの僕によく似合っているだろう?」
「ウザさ五割増しくらいですかね。ヒラみ過剰で鬱陶しいです」
「さっきからヒラヒラヒラヒラ顔に当たってて痒いんだけど」
あと袖のリボン腹立つ! とミンティスは袖のリボンを毟り取る。ああっ、とフォヌメが悲鳴を上げた。
「リボンがなくなってすっきりしましたね。では雷精霊神殿に行きましょうか」
「そうだね、ニトーレさまが待ってる」
「君たち、人の心というものを持ちたまえよ!」
フォヌメが叫んでいるがいつものことなので無視して二人は神殿に歩き出す。うるさい声もついてくるから、フォヌメもついてきているようだ。
神殿前に着くと、ニトーレ・サンダリアンがちゃんとした儀式用の神官服を着て腕を組んで待っていた。ちょっと待たせていたようだ。
「おはよう、遅かったな」
「おはようございます。すみません」
まぁいいやとニトーレは軽く流す。怒らせていたわけではないらしい。
ニトーレは手に持っていた紙を広げる。周辺地図だった。
「船に乗ったらこの西の港町に着く。ここから更に西に行くと大きな街がある。まずはここを目指すといい」
「はい。……理由を聞いても?」
「ああ。おまえらもよく知っているだろう、ティアとヴァルがこの辺りに行ったはずだ」
シュザベルはミンティスと顔を見合わせて首を傾げた。どうしてアーティアとヴァーレンハイトの名前が出てくるのだろうか。
ちなみに背後ではフォヌメが持っていた裁縫道具で袖を直して「あっ、こっちの方がいいデザインかもしれない!」などと言っている。放置。
「ティアとヴァルは旅慣れているし、以前来たときに話したんだが、どうやら神界や魔界とも関わりがあるんだとか。会って話しをしてみればなにか手掛かりが掴めるかもしれないだろ」
なるほど、と頷く。
それから、とニトーレは懐から少し重たそうな袋を出した。
三人を見渡して――ミンティスにそれを握らせる。
「俺は動けないから、こんなことしか出来ねぇけど……少しだが持っていけ」
ぎょっとミンティスが目を丸くする。袋の中をちらりと見ると、集落では見ないような銀貨と少量の金貨が詰まっていた。
「こんなに!?」
「旅立ち資金としてはこんなもんだろ」
相場がわからないからなんとも言えないが、絶対に返されてたまるかとニトーレは腕を袖の中に隠してしまったのでありがたく受け取ることにする。
礼を言うと、ニトーレは「無駄遣いはすんなよ」と笑った。
さて、とニトーレが姿勢を正す。釣られてシュザベルたちも姿勢を正した。
「旅立つ三名の若者に――道中の幸多からんことを」
しゃらんと鈴の音がして、ニトーレの背後に護衛神官たちが控えているのが見えた。厳かな空気が流れ、シュザベルは身を引き締められる気持ちを覚える。
しゃん、と鈴が鳴って、雷精霊神官の祈りが終わる。
自然と頭が下がった。
「……ありがとうございます」
「ああ、気を付けて。いい報告を待ってる」
こくりと頷いて、友人たちと顔を見合わせる。
さぁ、港へ向かおう。――と、一歩踏み出したときだった。
「待って待って待って待って待ってーっ!」
ざざざーっと土埃を立てて誰かが三人の前に走ってきた。スライディングのようにして止まる。
その姿は小柄で子どものように見える。
土埃が治まり、少年の姿があらわになった。
前髪を上げた短い髪は明るい土色。同色の目は子どもらしく丸い。袖のない黒紫のシャツと黄土色のつなぎ姿。つなぎは上を脱いで腰に腕部分を巻き付けている。膝丈のブーツと相まって農作業を抜け出してきた子どもでしかない。
ただし、背中に背負った大きな荷物を見なければ。腰には子どもにしては大きい柄の短い鎌が下げられている。
「……ネフネ?」
シュザベルは目を瞬いた。ティユと一緒に教えている子どもに一人だったからだ。
名前はネフネ・ノールド。地魔法族(ノールド)の少年で、教え子の中でも元気がよく人懐っこい子だ。
それがどうしてシュザベルたちを引き留めるのだろうか。
少年――ネフネはシュザベルを見上げ、一瞬だけ横のフォヌメを見てまたシュザベルを見上げた。
そしてばっと勢いよく頭を下げる。
「おれちゃんも連れてって! ジャマにはならなません!」
使い切れていない敬語らしきもので叫んだ。
シュザベルは再び目を瞬く。
「……遊びに行くわけではありません。それにこんないきなり……ご両親が心配するでしょう?」
「とーちゃんとかーちゃんも行ってきていいって。ねぇ、シュザベルせんせ、おねがい。おれちゃんも連れてって!」
困惑して思わず友二人を見た。二人も見知らぬ子どもの登場に困惑しているようだ。
しかしどうする、と相談するまでもない。
シュザベルたちの目的はジェウセニューを探すために、神界へ行くこと。
そもそもジェウセニューと面識がないであろう子ども(しかも十歳満たない)を連れて行くわけにはいかない。
シュザベルはため息を吐いて、頭を下げたままこちらを器用に伺うネフネを見下ろした。
「駄目です」
「えっ、なんで!」
なんでと申すか。
「なんでじゃありません。遊びじゃないと言ったでしょう。さ、帰って宿題でもしてください」
「えーっ、やだやだ! おれちゃんも行くんだーっ!」
ネフネがシュザベルの腰に縋りつく。意外と力が強い。
「なんだってついてきたがるんです?」
「えっ……えーと……えっと……」
理由を問うと先ほどまでの勢いはどこへやら、目をきょろきょろさせて狼狽える。
やましい理由でもあるのだろうか。……いや、こんな子どもがシュザベルたちの旅についてくる理由でやましいってなんだ。
ぷくりと膨れたネフネはちらとフォヌメを伺っていることに気付いた。
「フォヌメがなにか?」
「ええ? いや、えっと……り、リユーはいいから、連れてって!」
「……駄目です」
「だってシュザベルせんせ、リユー言ったらだめって言うですよ!」
「言葉遣いがおかしい。理由言わなくても駄目なものは駄目ですよ」
シュザベルはまだまだ体重の軽いネフネを引き摺るようにしてニトーレにパスした。ニトーレは笑いを堪えながらネフネをしっかりと捕まえる。
「では改めて、行ってきます」
「おー、行ってらー」
「シュザベルせんせ~~~~~~っ」
ネフネが泣きそうな声で叫んでいるが、心を鬼にして無視した。ミンティスとフォヌメもついてくるのを確認して、シュザベルは港へと向かった。
港へは雷魔法族の集落から南西に少し行ったところだ。すぐに着く。
船の行先を確認して、船頭の指示通りに船に乗り込む。ゆらゆらとする足元が少し心もとなかった。
「いよいよ出発だね」
「はい。すぐにアーティアさんたちが見つかるといいのですが」
船が出航する。ゆっくりと動き出したと思った船は帆に風を受けてぐんぐん港から遠ざかっていく。
潮風が気持ちいい。海が陽光を受けてきらきらと輝いている。
シュザベルはほうと息を吐いた。
(これが船旅……集落の外の世界……)
いつか行きたいとは思っていたが、これほど早く叶うとは思っていなかった。ジェウセニューには悪いが、きっかけをくれてありがとうと言いたい気分だ。
船首で無駄にヒラヒラした服を風に靡かせるフォヌメの姿が見えた。
「船首で風を浴びる僕……船首像にも相応しいモチーフだと思わないかい?」
「はいはいそうだね」
ミンティスが軽くあしらっているのを見て、シュザベルは旅という非日常になっても友人たちは変わらないなと小さく笑った。
「風が気持ちいいですね」
「そうだね。ちょっと足元がゆらゆらして慣れないけど」
「だいじょーぶでしょ。すぐになれると思うよ!」
「そうですね……うん?」
聞き慣れない声がして、シュザベルとミンティスは振り返った。
そこに当然のようにいるのは小柄で土色の髪と目をした――ネフネ・ノールドの姿。
「……は? いや、ネフネ? どうしてここに?」
「シュザベルせんせたちのあと追ってきたからだよ?」
なにを当たり前のことを、と言わんばかりにネフネは目を瞬かせる。
シュザベルはミンティスとフォヌメを見て、もう一度ネフネを見た。
「な、なにぃーーーーーーっ!?」
思わず叫んだ言葉は友人たちの声と重なった。
ネフネはいたずらが成功した子どものように白い歯を見せて笑っている。
陸はとうに小指の爪よりも小さくなっていた。
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