第3話 神界へ
――最初はただ、可愛らしい女の子だと思っただけだった。
ネフネ・ノールドは土色の目をぱちりと瞬いた。
視線の先にいるのは炎魔法族(ファイニーズ)の名物兄妹、フォヌメ・ファイニーズとシュマ・ファイニーズだ。
二人とも同じ赤みがかった栗毛を揺らし、仲良く並んでなにか話している。その光景はある意味、目の保養になるものだ。
本人たちの性格や言動を見ないふりすれば、の話だが。
炎魔法族の集落に用があってやってきていたネフネは、持っていた鍬を肩に担ぎ直す。
「お兄様、お兄様はどうしてお兄様なの?」
「それはね、シュマ。僕が君より先に生まれたからだよ」
なんだあの頭悪そうな会話は。
うふふあはは、と二人は楽しそうに話している。よく見る光景だ。
周囲の者たちも特別注視することもない。本当に、いつも通りの光景だ。
ネフネはちょっと呆れながら、鼻の頭についた土を拭った。拭った掌を見て、また兄妹を見る。
(……綺麗な兄ちゃんと姉ちゃんだな)
そう思った。
数日後、また炎魔法族の集落に用が出来たネフネは再び隣の炎の集落にやってきていた。
花屋を営む炎魔法族の家を探して、お使いを頼まれたものを買うためにそこへ向かう。店はすぐに見つかった。
そしてそこで店番をする少女を見て、ネフネはぱちりと目を瞬いた。
(あ、名物兄妹の妹の方)
確かネフネよりも七つほど年上だが、幼い顔立ちの彼女はそれほど年上には見えない。とはいえ十歳満たないネフネよりはずっと大人に見えるのだが。
少女――シュマは店先に出した背のない椅子にお人形のように座って通りを眺めていた。
赤みがかった栗毛を綺麗に肩口で切り揃え、頭の高いところの左右に四角いレリーフのような髪飾りを着けている。ぱっちりと開いた丸い瞳は髪と同色。長い睫毛が頬に影を落としていて、愛らしい頬は薄っすらと桃色に染まっている。
ネフネの心臓がどきりと跳ねた。
胸を押さえて首を傾げる。
(お人形さんみたいってああいう人のことを言うんだろうな)
あんな綺麗な子に、自分のような土まみれで小汚い小僧が話しかけてもいいのだろうか。思わず立ちすくむ。
どうしようか迷っていると、店の奥からすらりとした長身の男性が出てきた。
シュマと同じ赤みがかった栗色の髪を短く刈り上げて四角いフレームの眼鏡をかけている。眼鏡の奥の瞳は優し気な薄赤。長袖のシャツを肘まで捲り上げ、黒いエプロン姿の男性は目を細めてシュマに並び立つ。
「あら、お父様。もうご用事はよろしいの?」
「ああ、シュマが表に出ていてくれたから早く済んだよ」
そう言ってシュマの頭を撫でる男性は花屋の店主である一家の長。名前は知らない。
二人は仲良さげに微笑みながら話している。
邪魔するのも悪いという気持ちが、ネフネの足を一層重くした。
ところで、と父親はシュマを見下ろす。
「シュマ……そろそろ気になる男の子とかいないのか?」
柔和な顔をしかめて、男性が問う。シュマは呆れたように息を吐くと、
「わたくし、つよーい殿方でないと嫌ですの。それこそ、フォヌメお兄様よりも強いくらいの!」
父親はぱちくりと目を瞬かせた。ネフネも首を傾げる。
兄のフォヌメにこれといって強さをアピールするような噂を聞いたことはない。むしろ、能力や魔法の強さという意味では更に上の兄である炎精霊神官のレフィス・ファイニーズの方が挙げるに相応しいだろう。
父親もそれを思ったらしく、「レフィスは?」と首を傾げた。
「はぁ? あんな顔がフォヌメお兄様にそっくりなだけの唐変木なんて御免ですわ。あの人と来たら、ティユお姉様の片割れであるはずなのに、どうしてああなんですの? 昨日だって、フォヌメお兄様を身代わりにして神殿から逃げ出したんですのよ!」
「お、おう……レフィスはあとでちゃんと叱っておかないとな……」
ぷりぷりと怒る姿も愛らしいシュマは腕を組んで父親を睨み上げる。
父親は困ったように眉を下げて頭を掻いた。
「まぁ、レフィスも遊びたい盛りに精霊神官に突然任命されたんだ。戸惑うことも多かっただろうし、学ぶことも多かった。たまに遊びたいというのはわからなくも……」
「お父様?」
低い、背筋を這うような恐ろし気な声が、シュマの愛らしい桃色の唇から漏れた。
反射的に「はい」と頷いて父親も姿勢を正す。
「あの方は腐っても……腐り落ちていても炎精霊神官さまなんですのよ? その重責に耐えられないようではお役目は果たせませんわ。もっとしっかりしていただきたいものです」
「そ、そうだな……レフィスだってもう成人間近なんだし、責任感を持つべきで……」
「そんなことどうでもいいですわ!」
「……はい?」
はい?
ネフネも父親と同じように首を傾げた。
実の上兄のことをどうでもいいと言ったか、この妹。
「あの木偶の棒神官野郎なんてどうでもいいですわ! そんなことよりも大切なのはフォヌメお兄様! あのクソ馬鹿いい加減男のせいでフォヌメお兄様の心労を考えたことありまして?! ああ、お可哀想なフォヌメお兄様……昨日だって先週だって、突然あのボケボケ阿呆男の身代わりで神殿の護衛神官どもに囚われて……恐ろしかったに違いありませんわ! なのにフォヌメお兄様は笑って彼らをお許しになられた……ああ、ああ、なんて慈悲深いお兄様……これはもう慈愛の女神様の生まれ変わりなのでは?」
もう父親はなにも言わずに遠い目をしていた。
前々から思っていたが、かなりのブラコンを拗らせている。兄のフォヌメもフォヌメでシュマを甘やかすのでよく「お兄様♡」「シュマ♡」と見つめ合っている光景が目撃されているくらいだ。なので名物。
ネフネは本当に残念な子だな、と思った。
さて、いい加減、お使いを頼まれた種や注文していた花を受け取らなければ。
「シュマ……」
「というか、お父様」
「はい」
椅子に座ったままのシュマは父親のエプロンを掴んで引き寄せる。息がかかるほどの距離で、シュマはにこりと美しく微笑んだ。
「てめぇがしっかりしてねぇからあの馬鹿長男がのさばるんだよフォヌメお兄様のためにも家長としての威厳くらい見せやがれ! ……なーんてことまでは言いませんが、もう少しティユお姉様とわたくしばかり心配していないで、フォヌメお兄様のことも考えてくださいませ♡」
「……はぁい」
ぱっとエプロンから手を離したシュマはひょいと椅子から立ち上がると、もう父親の姿を見もせずに店の奥へと引っ込んでいった。
父親は崩れ落ちるようにその場に蹲り、しくしくと泣いている。
「なんであんな子に育っちゃったんだろう……」
そんな呟きを聞きながら、ネフネは――息を止めたまま胸を押さえていた。
なんだ、今のは。ネフネはなにを見た?
(心臓が破裂しそうなくらいうるさい……)
ドキドキと鼓動が早い。ネフネは真っ赤な顔で立ちすくんでいた。
可愛いだけのお人形のような娘だと思っていた。
下の兄が大好きなだけの変わった子だと思っていた。
それが、それが――なんて、ギャップだろう!
はぁと熱い吐息が唇から漏れ出る。
可愛いだけじゃない。ブラコンなだけじゃない。なんて強い――しっかりした子なんだろう。
そうだろうか、とネフネにツッコミを入れる者は残念ながらいない。
ネフネは頼まれたお使いなんて忘れて、しばらくその場に佇んでいた。
+++
「……神、界……」
神界。
神族(ディエイティスト)の住まう世界。この世界とは違う、遠い場所にあると聞くところ。
ジェウセニュー・サンダリアンはそっと胸を押さえた。
神界に行く?
どうして……、
「どうして!?」
はっと我に返ったジェウセニューはヴァーンに掴みかからんとするルネローム・サンダリアンを見た。
母は泣き出しそうな顔で父の腕に縋っている。
そんな顔は見たことがない。一体どうしたというのだろうか。
ヴァーンは落ち着けとルネロームの肩を優しく叩く。
「落ち着け、ルネローム」
「だって……だってジェウは、雷魔法族(サンダリアン)だもの……この集落にいていいって……」
落ち着け、とヴァーンが繰り返す。
深呼吸をしたルネロームはヴァーンの腕を握ったまま彼を見上げ、ジェウセニューを見た。
「言い方が悪かった。ちゃんと最初から話す。だから落ち着いてくれ」
「……ごめんなさい」
ヴァーンがジェウセニューを見る。
改めて姿勢を正した。
「神界に、というのは……まぁ、言ってしまえば、神界にちょっと泊まりで遊びに来ないか、くらいのものだと思ってくれていい」
きょとんとルネロームとジェウセニューは目を瞬かせた。
今まで一度も「父親(ヴァーン)の家に遊びに来ないか」なんて言われたことがなかったのだ。
突然のことに母子はぽかんと口を開く。
同じような表情に、ヴァーンは小さく吹き出す。
「ずっとそんなの言ったことなかったじゃん。いきなりどうして……」
しかも直前の表情はなにか難しいことを考えているようでもあった。そんな表情で「神界に来ないか」なんて言われれば、移住しろと言われた気分にもなるものだ。
すまんと頭を下げるヴァーンは、落ち着かせるように自分の袖を握ったままのルネロームの手を撫でた。
「おれも、ジェウ……セニューには、この地上で暮らしてほしいと思っている」
「……うん」
「ただ、ちょっと神界で身体検査くらいはさせてもらうつもりだ。熱のことも気になるし……それに、神界にはシリウスという神族と獣人族(ビァニスト)の間に生まれた子がいるんだ。同じく神族と別種族の子として、話をして損はないと思う」
うん、と胸を撫で下ろしたルネロームは小さく頷く。
「そう……そうね。ごめんなさい、ちょっと先走っちゃった。ジェウはどうしたい? パパの職場、見せてもらいに行く?」
そんな簡単に見せてもらえるような職場だっただろうか、ヴァーンの立場として。
首を捻りながらも、ジェウセニューは少し考え込む。
神界。
神族の世界。
気にならないといえば嘘になる。
ジェウセニューは二週間に一度、晩ごはんを食べにくる父親の姿しか知らないといっても過言ではない。
本当に偉いのかと時々思ったりもする。
とまぁそれは建前としても、実際神界というものには興味があった。
自分のルーツの半分がそこにある。
それに、今ヴァーンが言ったシリウスという子の話も気になった。
その子なら、この身の内から溢れてくるような気怠い熱の正体を知っているだろうか。聞けば、なにかわかるだろうか。
「嫌なら無理に連れていくつもりはないぞ」
「ううん。オレ、神界に行ってみたい」
そうか、とヴァーンは複雑そうに頷いた。
ジェウセニューは少しだけ身を乗り出して、ヴァーンを見上げる。
「なぁ、神界ってどういうところなんだ? なんで神族だけがそこに住んでるんだ?」
前から気になっていたことだ。
世界が分かたれているとはいえ、こうしてヴァーンのように地上に降りてくることは出来る。でも、神族のほとんどは地上を知らずに生涯を終えるという。
そうだな、とヴァーンは顎を撫でた。
「そもそも神界というのは、地上を管理する者たちを住まわせるために作られた場所だ。それが神族と呼ばれる者たち。おれたち神族は世界を、地上を管理するために多くの力を管理者から分け与えられた存在だ」
管理者というのは世界を作った【神】の代理人だと聞く。
そんな存在から力を分け与えられた神族は地上にあるどの種族よりも強く、尊いとされている。
「代わりにおれたち神族は地上では暮らせない」
「え?」
「力が強すぎて、異質過ぎて、地上に長くいるだけで地上の生物やものを狂わせてしまう危険性があるんだ」
目を丸くする。
では、今こうして地上に降りてきているのは大丈夫なのだろうか。
そう考えたことを察したのだろう、ヴァーンはふと笑う。
「安心しろ。今のおれはかなり制限をかけた上でここにいる。そのまま力を垂れ流しておまえたちを危険に晒すわけにはいかないからな」
「そ、そっか……」
力を制限しているとはどれくらいだろうか。わからないが、きっと快いものではないだろう。
そうまでして自分たちに会いに来てくれているのかと思うと、なんだか照れ臭い気持ちになる。胸の底の方がほわほわとむず痒い気がした。
「だから、神族の方は地上に降りてこないのね」
「ああ。むしろ、地上で神族を見かけたらそれは力を制限して行動中のうちの部下か、もしくは神界を追放された者か、だろうな」
追放された者は力の半分以上を奪われて落とされるらしい。とはいえ、ヴァーンが知る過去に追放された者は数人程度だという。
(いや、いるんかい)
なにをしでかしたら世界を追放なんてことになるのか。聞きたいような、聞きたくないような。まぁ、聞いたところで教えてはくれないだろうが。
そういえば、とジェウセニューは従姉妹の姿を思い出した。
「ティアは? ティアだって、神族と魔族(ディフリクト)の子どもだろ?」
ティアというのは本名をアーティアといい、ヴァーンの姪に当たる少女だ。
冒険者として各地を旅しており、時々この魔法族(セブンス・ジェム)の集落にも仕事だったり遊びにだったりと訪れる。
相棒のヴァルことヴァーレンハイトは生粋の人間族(ヒューマシム)の男性だが魔法族が舌を巻くほどの魔術師だ。
小さく成長の遅い彼女の姿を思い浮かべて、ジェウセニューは首を傾げた。
ああ、とヴァーンも少女の姿を思い浮かべたのだろう、苦笑しながら頷く。
「あの子はどういうわけか、地上にいてもおれたちのように不具合を起こさせないんだ。無意識で魔力を制御しているのだろうというのが上層部の見解だ。ただ、アーティアの潜在能力は高い。もし暴走して世界を歪ませるようなことがあれば、即座に神界に拘束することになっている」
「……大人しく拘束されるかな、ティア」
「アーティアの意識がちゃんとしている間は意地でも暴走させるようなことにはならんだろ」
なんとなく、悔しい気持ちになった。
実の息子であるジェウセニューではなく、姪のアーティアの方がヴァーンに力を認められているような気がして。
そんなことは考えていないだろうことは流石にジェウセニューも理解している。
ただ、なんとなく拗ねた気持ちになった。
「……オレは父さんと母さんの子だろ。ってことは、前みたいに力が暴走したら……ティアみたいに神界に拘束されることになったりすんの?」
「……」
言い辛そうに、ヴァーンとルネロームが顔を見合わせた。
ジェウセニューだって馬鹿ではない。いや、確かに勉強は好きではないし、シュザベルほどたくさん本を読んだりなにかを考えたりするよりは身体を動かす方が好きだ。
フォヌメにはよく「野生児だから頭が悪いんだ」だのとからかわれることがあるくらいだ。
自分でも頭がいいとは思わないが、しかし馬鹿ではないと思う。多分。
「母さんがオレを神界にやりたくないのって、そういうのを……なんだっけ、キグ? してるからだろ。オレが地上で暮らせなくならないように、教えることもちょっとしか教えてくれないし」
「えっ、本気で教えてるのに!」
「……いや、母さんの教え方、『魔力をびびびってしてバーンってなったらドーンよ!』みたいな感じでわかりにくいんだよ……」
「ええっ」
『指をえいってやったらばばばってなるからぼーんよ!』とか言われてもよくわからない。なにがどうなっているのかわからないから、ルネロームがてっきりジェウセニューが強くなり過ぎないようにセーブして教えているのかと思っていたくらいだ。
わかりにくいと言われたルネロームは驚きに目を見開いている。
「……神界で少し、おれが魔力操作を見てやろう」
「……うん、よろしく……」
「えぇ……頑張って教えてたのに……」
本気で教えているつもりだったらしいルネロームはしょんぼりと肩を落とした。
ヴァーンと顔を見合わせて、小さく吹き出す。
「確かに、おまえの力が暴走するようなことがあれば、アーティアと同じく神界に拘束……保護することにはなる」
「……そっか」
「だが、おれはおまえにこの地で、この地上で暮らしてほしいと思っている。……無理に向こうへ連れて行って、友達と離れるのも辛いだろう」
「モミュアちゃんにも会えなくなるのは嫌だものね」
「って母さん! ももももモミュアは今、関係ないだろ!」
真っ赤になったジェウセニューを見てルネロームがくすくすと笑う。ヴァーンも口を引き結んで笑いをこらえているような表情だ。
ジェウセニューは口を尖らせてそっぽを向く。
笑いの波が去ったらしいヴァーンはこほんと咳払いをして母子の顔を見た。
「魔力の操作が上手くなれば、一部の者もおまえを神界へなんて言わなくなるだろう。体調のことも、神界で調べればなにかわかるかもしれない。悪いことばかりではないはずだ」
そう言って、ヴァーンは口元を緩ませる。
ジェウセニューもこくりと頷いた。
「うん。……行ってみたい、神界へ」
「わたしも行くー!」
「……わかった、一緒に行こう」
母の頭を撫でる父を見ながら、もう冷めてしまったお茶を口に含む。
ちょっとした珍しい場所への旅行だ。しかも泊まり。
旅行なんて生まれて初めてだと気付いて、少し楽しみになってきた。
「それで、いつ行くの?」
「ん? 明日の朝には出発するぞ」
「…………はい?」
今、ヴァーンはなんと言った? 明日の朝?
いきなり過ぎる展開に、ジェウセニューは思わず口に含んだお茶を吹き出した。
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