第2話 あっちの世界へ
スラっとした長身に美しいご尊顔。そのさらさらの前髪でお弁当のおかずを仕切りたい。まさかこんなに間近で拝むことができるなんて。ああ、尊い。
「ちょうどいいとこにきた。この子にあっちの世界のことを教えてやって」
そう言い残しザキさんはさっさと出て行ってしまった。ちょ、長谷川さんと二人きりなんて。心臓の中にいるみたいに全身が激しく脈打つ。
「はじめまして、僕は長谷川
知ってます。知りすぎてます。ペンを持つと条件反射で長谷川祐介って書いちゃうくらいに。
「きみの名前は?」
「ま、ま、
「うさぎちゃんか、可愛い名前だね」
わたしは死んだ。
死んでしまったのでそれから長谷川さんはいろいろ説明してくれたみたいだけど、ほとんど理解できなかった。ぽうっとして頭が働かなかったというのもあるし、話が複雑な上に現実味がなさすぎたせいもあると思う。
「今いるこの世界はブッコローの体の外側にあるから、いわば外部ッコローだね」
「がいぶっころー」
「でもブッコロー化した人間はブッコローの体の内側である内部ッコローの世界で生きることができるんだ」
「ないぶっころー」
わたしは馬鹿みたいにオウム返しする。馬鹿みたいにオウム返しって、短時間に動物出てきすぎだろ、とか思う。
「内部ッコローの世界では自分が理想とする容姿になることができる。仕事も勉強もする必要がないから、好きなときに好きなことをしていればいい。まさに楽園だよ」
どっかのラノベかゲームの話でもしているのだろうか。本当にそうだとしてもわたしは詳しくないから気が付かない。
「僕たち有隣堂社員は優秀な成績を収めるとご褒美みたいな感じであっちの世界に行けた。これまではまさに有隣堂しか知らない世界だったんだけど、それを社長が一般人にも展開しようと言い始めた。それで誕生したのが例の化学物質ブッコローなんだ」
長谷川さんから放たれる言葉が左右の耳から入ってきて頭の中で何度か跳ね返り、逆側の耳から出ていく。
わたしがぼんやりしていることに気づいたのか、長谷川さんがやわらかく微笑んだ。
「まあ口で説明してもよくわからないよね。実際に行ってみるといいよ」
「でもどうやって」
「目を閉じて自分がどこか遠くの方へ飛んでいくのをイメージする。そして、ブコブコブコブコブッコローと唱えるんだ」
たぶん長谷川さんがトマトジュースだよとマグマを渡してきてもわたしは飲むだろう。
「こっちに戻ってきたいときも同じようにしたらいい。まあ説明はこんなとこかな、なにか質問はある?」
むしろなにも疑問はなかったけど、覚えたての単語を使ってみたくてわたしは尋ねた。
「な、内部ッコローにいる間、この体はどうなるんでしょうか? 誰かに襲われたりするかも」
「それなら心配いらない。ブッコロー化した人たちはみなブッコローセンターに運ばれ、特殊な液体の中に保存される。そこには酸素や生命活動に不可欠な栄養素が混ざっているから老衰するまで死ぬことはないんだ」
それ以上、話すことはなかった。長谷川さんはわたしが内部ッコローに行くことを望んでいる。というよりあのセリフを言わせたいだけなのかもしれない。やってやろうじゃないか。
なにも起こらなくてもいい。そういう辱めなら、むしろ大歓声だ。わたしは目を閉じて力の限り叫んだ。
「ブコブコブコブコブッコロー!」
*
気が付くとわたしは広い野原のような場所にいた。空は晴れ渡り、そよ風が心地いい。見た目を自由に決められるだけあって、周りには美男美女が多かった。ほかにも恐竜やロボット、映画やアニメのキャラクターというのもいた。
わたしはうさぎにすることにした。真っ白でほわほわしたうさぎ。地味だが自分にはこれくらいがちょうどいい気がした。
「やあ」
声を掛けてきたのはブッコローと似たようなオレンジ色をしたトリだった。
「こんにちは。わたしはじめて来たんだけど、ここは素敵なところね」
「おっ、新入りか。僕は結構長いからね。わからないことがあったらなんでも聞いて」
なんでもと言われるとなんにも思いつかない。でもそう言ってくれたからには一個くらい質問しなきゃいけない気がして、ちょっと考える。
「ええと、見た目を変えたいときはどうするの?」
「容姿変更届を書いて提出すればいいんだよ。受理されてから反映されるまで一週間かかるけど」
「なにそれ、行政の手続きみたいで煩わしいわね」
「みんなのんびり好きなことして暮らしているだけだから、時間なんて気にしてない。一週間待つくらい全然平気なんだ。誰がどんな姿だろうととやかく言うやつはいないし、気分で変えるのも楽しいよ」
そうか。ここには人種も年齢も性別も存在しない。現実世界のあらゆるコンプレックスを気にしなくていいんだ。
友達の輪に入れずおどおどすることもない。奨学金の返済に頭を悩ませることもない。先行き見えない将来を不安がる必要もない。それってとても素晴らしいことじゃないだろうか。
来てから数時間しか経っていないけど、わたしはこっちの世界の方が好きだなと思った。でも一生こっちで暮らすかと言われると、そこまでの覚悟はまだなかった。
そういえば元の世界には本当に戻れるのだろうか。一度試してみてもよさそうだ。わたしは目を閉じて例の呪文を唱えた。
*
「ザキさん」
「わ! びっくりした!」
ザキさんは大きくのけぞった。先ほどと景色が少し変わっていて、わたしは段ボール箱の中にいた。残念ながら長谷川さんの姿は見当たらない。
「戻って来ると思わなかった」
「これはわたしと同じくブッコロー化した人たちですか?」
周りには手のひらサイズのブッコローがたくさんいた。どれも動いたりしゃべったりしていないのできっとあっちの世界にいるのだろう。
「そうだよ。今日の分を詰めてセンターに送るとこ」
「ザキさんはブッコローにならないんですか?」
「あたしは有隣堂の社員だからね。外部の人間を内部に送る使命がある。ほら、こっちでは人間の姿の方がいろいろと活動しやすいだろ」
たしかにブッコローの姿でうろついていたらなにをされるかわからない。
「あたしも長谷川も、仕事が片付けばそっちに行く」
それでも迷っているわたしにザキさんはやさしく微笑んだ。
「有隣堂の名前の由来を知ってるか?」
わたしは首を横に振る。
「『徳は孤ならず、必ず隣有り』っていう孔子の言葉からきてるんだ。徳がある者のところに人は集まるってことなんだが、それはつまり正しいことをしたら人は必ずついてくるから、困難に負けずがんばれっちゅうわけだな。現実世界はなにかと苦悩が絶えないだろ? こんな辛いならと死を選択しちまうやつもいる。死ぬくらいならあっちの世界で生きるという選択肢もあるぜって、教えてあげたいんだよ。ブッコロー化させることをあたしは正しいことだと思ってる。だからこの仕事をしているんだ」
正しいことをしたら人はついてくる。人が集まり続けているあっちの世界は、正しい世界ということになるのだろうか。
「なあに、好きなときに戻ってきたらいいさ」
ザキさんは笑いながらわたしの頭をぽんぽんと撫でた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます