第14話 破魔矢
重圧がふっと消えた。
まだ羽衣の傘の中だ。
史華姉、今はブン姉か。乱れていた呼吸が整って、深い吐息をもらした。それが首筋に当たってこそばゆかった。
「大丈夫?」と声をかけてくれたけれど、そっちこそと思ったわ。
でも考えてみたら、年齢を奪われた少女となった彼女のお世話していたので、こっちがお姉さん目線だった。けれどオトナの意識を取り戻した彼女からみれば、JKなんて庇う対象なのかもしれないね。
「もう助けが来たの? でも甘利助教は人間でしょう。相手は魍魎なのよ」
ふっと彼女が笑った。
「大丈夫、先生は頼りになるわ」
ぱたぱたとブロック状に、目線の辺りだけの羽衣が開かれる。
境内は凄いことになってる。
鉄砲水でも起こったように水浸しだ。しかも縁石や鋪石までも掘り起こされて、泥水に斜めに突き立っている。
先刻までに彼女が受けていた攻撃は、高圧の水流だったようだ。
「石女尼は水を自在に操れると、六花姉から聞いたわ」
「自在ではないわ。能力には限りがあるの」
泥濘の境内に和服の初老の男がいた。
羽衣の隙間からギリギリの位置だったけど、ブン姉も気づいて、またぱたぱたと角度を変えて開いてくれた。
浅黄色の簡便な小袖に、鶯色の肩衣を掛けている。そしてその袴が地面を擦るように長い。しかも刀すら帯びていない。
男は白霞ではない、実体を持っていた。あるいは父の肉体を今度はソレが依代にしているのかもしれない。
その痩躯の脇を、氷雪を含んだ突風が吹いている。
だが対峙している人影は、六花姉のものではない。
うっそ。甘利助教なの。
その水浸しの境内がぱりんと、一瞬で凍結した。ばかりか霜柱が地面からにょきにょきと生え出してくる。え、それって。
見慣れた分厚い身体の助教は、そのお尻の骨盤上に白鞘の小太刀を、斜めにさしている。左右のどちらかでも、抜ける。右手で抜けば順手になって、左手では逆手になる。正面に立つ相手からは剣筋が読み取れない。
《目を借りるわね》
六花姉が思念波で語りかけてきた。
《もう勝手に盗み見ているくせに、引きこもりの雪女》と嫌味をカマした。
雪女の六花姉は視角で捉えたものに超寒気を送れる。助教の身体を避けて周囲を凍結させているのが、そうだ。
あるいは記憶にある光景でも、できるとゆった。
そして彼女の知覚とボクのそれは、思念波でリンクしている。ということは自らを封じた結界が、無用のものとなったということなのね。
十束刀、あの魍魎を滅する刀がどこから飛ぶか。
推し量るように距離を置いた初老の男が、「坊、息災か」とぼそりと呟いた。
助教は答えない。
応答せずに歩を進める。
足場は劣悪なんだけど。
ほお、と漏らして「ひとりは、斬ったようだの」と男は言い捨てた。
「・・・お喋りだな。丸腰のままか」
「まだまだ坊には遅れを取るまいて」
耳にべったりと貼りつく粘っこい声。すぐに綿棒でこそげ落としたい。
「見くびられたもんだ」
「なに、背中に隠したものを奪えばよいのよ」
額に皺が寄る。
睨みつけた眼が燐光を帯びている。
刃のように硬質な、まるで肺に刺さってくるような冷気が、こちらにも流れている。むしろ凍結している方が、泥濘よりも良いのかもしれない。
面妖鬼、と見られる初老の男は上背を正した。
息詰まる濃密な刹那が、一閃するかに見えた。
しかし一気に膝をつき、崩れるように倒れた。
「・・・逃げられたか」
その肉体は部屋着を着た父の姿に戻っていた。
本堂に隣接する自宅に戻ってきた。
ブン姉は素裸に羽衣だけなので、お部屋のクロゼットから部屋着を持ってきて手渡した。羽衣を出しっぱなしでは消耗してしまう。
ボクの下着はとてもサイズが合わなくて、悔しい。
「あなたは・・・ブン姉って呼んだらいいのよね」
「そう、あなたが色葉さんね。ミカから聞いてる。お世話してくれてありがとう。そうね、漢字の文でお願いね」
そう言って宙に指先で漢字の形を描いた。
「彼女は・・どうなったの」
そうね、と沈んだ顔で言い澱み、それでも意を決して目線を上げた。
史華姉はまだ鬼叢雲の中に囚われている、という。
あの求厭がその薄い肉体を帯状にして、鬼叢雲を覆うのを遠目で見た。さらに彼は細かい網状にしてその退路を塞ぎ、陰陽の法理で絞り上げたのだという。
鬼叢雲の懐には史華姉も文姉もいたらしい。
涅槃というのは、ああいうものかもしれないわね、と文姉は独り言のようにゆった。
その澱のような闇は、深かった。
むしろ安寧という言葉が似合う。
彼女はそれまで、一粒の魂として漆黒の底を目指して、ゆっくりと闇を漂っていた。重力というものがないけど、体感的には上の方に沈みゆくらしい。それに従って心が穏やかに平準化されていく。
他にもいろんな意識が澱みとなって、湖底の砂泥のようにじわじわと
互いの意思疎通はない。
その姿も声も朧の向こうになる。
そしてただただ
確かにの黄泉の国のような場所だと、思った。
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