第13話 破魔矢

 腐臭が漂ってきた。

 それは飢えて渇ききった肉体となって、おろおろと細い腕をかざしながら現れた。蓬髪が非常口サインの灯りを浴びて、黴のような昏い緑色を帯びている。

「色葉・・や、こっちに・・いらっしゃい」

 蟾蜍ひきがえるが言葉を発するような声音が誘っている。

 腐臭が例の白霞から放たれていると、思った。

 次の瞬間、その霞がそもそも霊体だと判った。

 おそらくは面妖鬼の本体だろう。

 彼が離れたからこそ、父の肉体が石女尼に変化している。

 そしてこの霞を吸うことで痘痕に感染させられて、肉体の器を盗まれるのだろう。

 鍵を開けるのを諦めて、その引き戸に背を寄せた。

 矢筒には最後の一本の破魔矢がある。

 一体、何処を狙ったらいいの。

 アレは塊になって蠢いている。

 また弾かれちゃう絵が見える。

 だって彼は武道の心得がある。

 この矢だって防がれてしまう。

 武具を取ると、不思議と指先と身体の慄きが治まった。

 深く深呼吸をする。早鐘のようだった胸の動悸も治っている。

 お婆ぁの言いつけ通り、やっぱり鍛錬というのはいいものね。

 

 短弓を引き絞って、狙いをつけた。

 破魔矢を放つ瞬間。

 指先を僅かに逸らして、射った。

 それは石女尼の白髪を引き千切って飛び、見事に射抜いた。

 非常口サインを。

 蛍光管ガラスが砕け散る音がして、小さな稲光りがした。それで白霞はぱあっと霧散した。

 ばかりか、六花姉の毛髪が魍魎反応したらしい。

 微細な蜘蛛の巣のような細氷の網が生じている。

 お顔の水分が一気に氷結して、睫毛に氷柱がぶら下がる。呼吸をすると肺の内壁に氷片が刺さって痛くなる。

 そう、一気に零下数10℃の爆風が生まれている。

 信州大学の教授のクラスで学んだ。

 また六花姉の語った通りでもある。

 魍魎は滞留電流や磁場に、意識の乗った電気体が凝ったもの。

 ならば異質の電流を、空中に撒き散らしてあげると、その存在自体が危ういのではないか。現に石女尼でさえ、膝を折って平伏して唸っている。

 さらに超寒気の稲妻だ。

 ボクが無事に済んでいるのは、雪女のお下がりの衣のお陰だ。

 戸口の内鍵に指を伸ばして回した。

 背中を当てて屋外に出る。

 そこは外回廊になっていて、本殿と自宅を繋ぐものだ。地面からの高さは2m近い。飛び降りるのは得策ではないなぁ。

 本殿の表階段まで走るしかない。

 外の空気は一気に暖かくて、顔の強張りがぱりんと割れる。軽く凍っていたんだね。外回廊を駆け抜ける時に空になった矢筒を放った。少しでも身軽でいたいけど短弓だけは手放したくはないわ。冷静さを保つためには。

 表階段の直前で転びそうになった。

 そこに白霞が滞留しているからだ。

 微粒なそれは扉の隙間も抜けていけるし、肉体がない分だけ自由なんだろう。JKひとりに前後を塞ぐなんて、ズルっこいなぁ。

 しょうがないな。

 回廊の欄干を掴んだ。暗がりになっていてもそこに植え込みがあるのは、知っている。それでも背中から落ちれば大事にはならないだろう。お肌は傷だらけになるだろうけど、飛び出すしか道はない。

 緋袴なので思い切りが必要。 

 でも短弓は手放したくない。

 思い切って踏み切って、左掌をついて空中に飛び出して。

 千早の袖が風を含んで、ばさりと膨らむ。その瞬間に突き飛ばされる、そんな感触がする。

 背中に柔らかい衝撃を受けて、前方に押し出される。

 異様な光景を見ている。

 転びもしない。

 足指が植え込みの葉をこすりながら、更に高く飛翔している。羽衣だ、純白の翼が緩く羽ばたいている。

 それでも長くは続かないようだ。

 大鳥居が見える石畳の境内に着地した。緋袴の膝がぶつかって、後で痣になるだろうな、と瞬間的に思う。

「史華姉なの」

 背中に押しつけられて、潰れた胸の量感がわかる。ふわふわで芯のあるお胸。その身体でお風呂に入ったこともあるので知っている。

 あれ、彼女は裸のままのようだ。

 触れている太腿には何も付けていない。冷たい肌の感触がある。

「初めまして、かな」

 その腕で首を後ろから抱きすくめられたままだ。

 そうだ、彼女は史華姉の影のひとり。

 殺されてしまったブンという娘だと聞いている。


 元々は彼女の肉体を餌にしていた。

「何で裸のまま置くのよ、六花姉」とあの滝の展望台で訊いた。

「だって捧げモノっぽいじゃない」と姉は意地悪な声で返した。


 折り重なってしゃがんでいるふたりの身体を、雪のような清冽な羽衣が包んでいる。それが渦を巻いている。独楽のように、物凄い勢いで回転している。

「これでしばらくは保つわ。じきに助けが来るから」

「六花姉?」

「いいえ、甘利先生よ」

 ぴしり、ぴしりと衝撃が来る。

 ずしん、ずしんと重圧が来る。

 苦悶の声を上げながら、頭を庇ってくれている腕に力がこもる。小じんまりとしたテントのような空間の内側で、彼女は身を挺して守ってくれている。

 どんな攻撃を受けているのか、ボクには判らない。

 そしてようやく。

 永遠に思えるような時間が、不意に途切れた。

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