第12話 破魔矢

 白いをかすみが宙を舞う。

 小魚の群れのように、霞そのものに意思がある。

 それが渦を巻いている。

 本堂の、結界の周辺に漂っていたそれが向きを変えて、海岸底流がそこにあるかのようなうず潮が発生している。

 その中心にあるのは父の眼だけど、今は怨念に満ちた形相をしていて、とても醜悪で直視したくない。かつてはその胸に無条件に飛び込んでいった父。彼が最凶の魍魎に囚われている。

 だからこそ、祓ってあげたいと思う。

 その眼を的に見立てて、今は破魔矢をつがえている。

 正射正中。

 正しく打てば、正しく的中する。

 お婆ぁがゆってた。

 ほっと息をついて、構えを解いた。夜具に隠しておいた、矢筒を背中に背負った。矢筒にはあと3本しか残っていない。

 ゆっくりと呼吸を整えた。

 この短弓は近射用に仕立ててある。けれど弦は強弓に張ってある。この破魔矢には鋒きっさきはないけれど。ただのポンポンに六花姉の頭髪を入れた物だけど。その打撃力で眼球に当ててしまうと只では済まない。

 どこを狙うか。

 前頭部は頭蓋の一番頑丈な箇所だと思う。冷静にそう考えるのは、姉の思念がこの衣に残留しているからだろう。

 まず一射。

 この短距離では放物線を描く射線にはならない。

 しかしそれが外れた。

 いえ外されたみたい。

 彼の顔面に例の白霞が塊になって、滞留した。それが破魔矢の射線を浮かせて髪の生え際をすり抜けていった。頭髪が幾らか犠牲になったみたい。お父、ごめん。

 狙いはどこにする。

 開いた戸口は僅かに10㎝強。

 結界を破れないと知った白霞は彼の周囲に戻っている。あくまでも防御に徹するらしい。厄介だな。心臓でも狙うしかないのかな。

 そう思案していた時、妙に空気が変わった。

 父の肉体を支配している気配というのかな。

 冷徹で頑なな、張りのある顔立ちになった。

 そう武道を嗜んでいるミドルの風貌に近い。

 知る限り、父には武道の素養はないけれど。

 からりと木戸が開かれた。

 それもあっけないくらい。

 ひっと情けない悲鳴が漏れた。

 彼は部屋着のトレーナーだけを着けて、下半身は剥き出しのままだった。

 そこに禍々しい雄の充血した凶器が飛び出してきたからだ。その器官がそんな形になるのは、ちょいと先に階段を昇った先輩から聞いていた。ボク自身はまだ踊り場でもじもじしてるだけだけど。

 それにいつだったか、大蛇おろちが原で鬼の虜になったときに、刀を持つ腕鬼とともにその部分だけの鬼が顔の周辺を嬲っていた。

 でもそれとは違う、忌避感。

 紛れもなく肉親のそれだよ。

 幼いときにお風呂で見たのとは違う、血潮を充血させて反り返っている。父親が自分に欲情しているという、女としての本源的な恐怖。

 そしてわかった。

「貴女、入れ替わったのね。今は男子なのね」

 男子なんて上ずった声で言っちゃった。そう、面妖鬼というのもいたわね。そのふたつの精神体が、父の肉体には憑依しているってことなの。

 いけない。

 事前に想定していた結界はひとつだけ。

 彼は、造作もなく木戸を開いてみせた。

 だめ。思わず足が竦んで後退っている。

 お父、ごめん!もうそこを狙っちゃう。

 完全には弓を引き絞きれない、か弱い矢がよろよろと飛んだ。黒い足が一閃してそれを払い退けた。爪先をなんとか避けたけど、こっちの前髪が浮くような旋風が来て、その次の瞬間には距離をぐっと詰めてくる。

 そんな俊敏さは、父にはない。

 助教が、彼は武士だと言った。

 後ろに飛び退って、弓をとる。

 破魔矢を取る時間を稼ぎたい。

 引き絞るための距離も欲しい。

 ボクの後頭部に微かに触れる。

 結界の髪垂れが揺れているのが見えた。

 くくく、と押し殺した嘲りが耳につく。

「ぬしは戦さ場に慣れてはおらぬな・・・」

 と、それが低い声で言ったが、その声音は父とは紛れもなく違う。

 しまった、それよりも結界から押し出されてしまった。

 振り返らなくとも、後方にも引き戸がある。回廊になっていて、本殿への参拝者用玄関に通じる。狭い廊下になっている。

 そこまで駆け抜けられるかな。

 三射目を射つ。

 股間より拳ひとつ開けて左腿を狙った。

 思案に迷うそぶりで不意をついたはず。

 彼の足を弱らせておきたい。それで少しは逃げるチャンスを拾えそう。

 弾かれた。左掌がそれを薙ぎ払った。けれども低い唸りも聞こえた。

 魍魎が破魔矢の先端に触れると超寒気を発するようにしてある、と六花姉はゆってた。

 今だ。

 一気に引き戸を開けて廊下に出る。

 お客様用の廊下なので、緑色の非常口のサインがある。そのおかげで薄暗いけれどぼんやりとわかる。回廊を回る。

 背後には引き摺っているような足音がする。

「待ちなさい、色葉。ご飯が冷めてしまうよ」

 回廊の向こうで、今度は父の声がしている。

 どうも石女尼に精神体を入れ替えたらしい。

 参拝者玄関の内鍵に、指が震えて摘めない。

 どん、と音がして。

 蓬髪をざんばらにして年老いた老女の姿が、回廊の向こうから姿を現してきた。非常口の灯りで、骨に皺だらけの皮がついた素裸の足が、よろめき動くのが見える。

 父は、肉体までも恩讐の虜に変化へんげしたらしい。

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