第11話 破魔矢

 目覚めた。

 覚醒した瞬間に、そこがどこだか分からなかった。

 布団の中で丸まっている。

 祭壇に置いた百目蝋燭の灯りが漏れてきて、薄暗い天井の板目を照らしている。ここは里宮の本殿だと、それでわかった。

 固く結んだ結び目を解くように身を起こし、不自由なそれがーそれが自分のものだと知った。不愉快な紙おむつの感触があるからだ。

 それでも不安で両肩を抱いて、ちゃんと肉の感触があるのを確かめた。

 さらに恐怖が蘇る。

 身体の存在感が希薄になって、ドミノ倒しのように内側に細胞が崩れていく感覚。そのくせ聴覚と触覚だけが鮮明に残ってる。それで何が起こったのかを知るのだけど。

 冷静になった今考えると、あれは死の擬似体験だったと思う。

 恐らく生物は死の瞬間に、あの時間を通り過ぎるんだと思う。

 涅槃ねはんへの入り口を見ちゃった。

 史華姉の本体に宿ったブンと名乗った人格は、元々は彼女の影のひとりだと聞いていた。しかも本人とも友好な関係で、それぞれあだ名で呼び合っていた仲だという。

 それも不可思議な巡り合わせね。

 本体と影は、普通ならいがみ合うものだけど。

 あの肉体にサルベージされたのは、彼女自身の人格ではない。まだ鬼叢雲に宿っているのかもしれない。

 ボクは史華の影に憑依してた。

 その身体に同期したのだろう。

 憑依していた魂は邪魔者だし。

 それにしても。

 六花姉たちはどうなっちゃったかな。

 ここからあの展望台まではクルマで小一時間の距離がある。今から父にクルマを出して貰っても手遅れだし、足手まといになるだけ。

 あの雪女の姉の事だもの、上手くやれるはず。

 深い呼吸をして、姉の意識に触れようとした。

 白い繊毛を脳裏に浮かべ、それを流してゆく。

 そう蜘蛛が風に糸を飛ばすように。

 そう風まかせに宙を旅するように。

 無作為に見えて繊毛は相手の意識を掬うものだけど、明らかにそれが塞がれている。あの求厭の不思議な能力かと思ったけど、違う。

 はっと思い出した。

 姉は自らを結界で塞いでいる。

 雪女が自ら引き篭もっている。

 つまり、助力は期待できない。

 

 足音がする。

 聞き慣れた音だ。

 父の、癖のあるスリッパの踵を引き摺る音。

 半身を起こして耳を澄ませると、本堂の陰に父の気配がする。

「・・・色葉、寝てたんか。もう起きなさい。夕食にしよう」

 と引き戸の向こうから声を掛けてきた。

「いいよ。入って来てよ」と返した。

 木材と木材が摩擦する耳障りな音がする。まるで樹皮を剥がすような音で、引き戸が小刻みに開いた。

 その隙間から「ご飯はおれが作ったからね」と父らしき声がする。

 足音はそこで寄って来ない。

「さあ早くリビングにおいで」

 ふふふ、と笑いがこみ上げた。

 ああ、こんな実感で笑うんだ。

 六花姉とそっくりな微笑みだ。

「貴方こそ入って来てよ、出来るもんならね」と言い捨てた。

「色葉、お前。親に向かって」

「無理よねえ、この結界には近づけないよね」

 隙間に眼球が見える。

 父のそれにも似てる。

 けど中身は違ってる。

 およそ人間の目線ではなく、爬虫類のようにくるくると回転させている。

 この数年、伊達にこの眼を育てていない。

 千里眼。

 父の意識は閉じ込められている。

 そこに居るのは彼の肉体であって、別の何かだ。

 ぐっ・ぐっ・ぐっ・・と蟾蜍ひきがえるのような音がする。

 そいつが嘲笑している、という事だけがわかる。

「石女尼・・・貴女、やっと姿を現したわね」

 そう、彼女が父に憑依している。

 父の背中、肩甲骨の下の痘痕あばたを千里眼で確認した。その患部を根にして意識に侵食している。そう、あの痘痕はボクにも植えつけられたことがあった。

 狙いはわかっている。

 このボクの身体を奪おうとしてる。

 そうして転生を得ようとしている。

 父が、いえ彼を擬態した何かが、戸口の向こうで身震いをした。

 たちまちに花粉のような白い煙霧でその眼の周辺が白濁した。

 からりと音を立てて、戸口が僅かに開いた。父の顔が宿怨に醜く歪んでいるのが、今度は鮮明にわかった。

 その全身からかすみのような、花粉か胞子のような、微小な粉末がこの本堂に流れてくる。それがまるで明確な意思を持っているかのように、堂内からこの四方結界を包み込もうとしている。

 ぴしり、と家鳴やなりがした。

 異音だけではなく、振動が来る。

 結界に下がる紙垂れが明らかに振動している。

 結界縄は切れもしないし、落ちもしない。

 白霞は迫ってきても、この結界を超えることは出来ない。その焦りかもしれない。お生憎さま、このボクの肉体を単独で寝かせていたのは、理由がある。

 これも餌のひとつ。

 なぜボクが事前に禊みそぎを済ませていたか。

 なぜ長時間もの闘いを予期していたか。

 半身を起こして、襟を正してひと呼吸。

 自分のに混じり姉の体臭が舞っている。

 そう、この巫女服も緋袴も六花姉からのお下がりを纏っている。雪女のお墨付きがついている。そうそう手出しが出来ないはず。

 夜具の中から小振りの、短弓と矢筒を取り出した。

 ふふ。

 ふふふ。

 矢筒から破魔矢を引き抜いて、短弓につがえた。

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