第10話 破魔矢

 求厭ぐえんの薄い肉体が変化を、した。

 宜しい、我が魂魄を御覧じろ、と彼が呟いたその直後だった。

 両手を水平に開き、ゆったりと歩み出した。

 その腕が奇妙な変貌を遂げていた。

 過去帳や御朱印帳を広げていくように、紙片のように平たくぱたぱたと段階的に伸びていく。その四肢は異様な長さで、自らの身長を既に超えて、関節すらもない。一方で胴体の方は、ますます薄く厚みを失っていく。

 長大な四肢に支えられた胴体部分は、既に森林の梢を超えた中空に浮いている。薄闇の空からおつぼねめいた、ほほほと嘲笑している声が降ってきた。

 六花姉は言っていた。

 あれは魍魎でも人間であったこともないわ、と。

 正体は不明だけど、不定形のあの鬼叢雲おにむらくもを包み込んでくれたら、その急所を射抜くことが出来るかも。でも急所ってどこさ?

「六花姉」と振り返ってみれば、彼女の巫女舞が止まってる。

 それでも結界の内圧は維持されているのか、鬼叢雲はこちらには接近して来ない。

 姉は緋扇を上半身の前に置き、ゆっくり身体をあおいで冷ましている。雪女の生理現象で、能力を使うと身体に蓄熱するってゆってた。

 目前では信じられない光景だ。

 求厭は鬼叢雲を捕獲している。

 漆黒の帯のような触手が、ギラギラと鈍い光を乱反射する塊を掴みあげ、締めあげている。

「あの変化を見てわかったわ。あれは求厭自身ではないのよ。かつて存在した求厭の形代なの。だからあれからは生き物の匂いが伝わってこない」

「なんなの、それじゃ」

「あれは師と呼んだ僧がいたのよ。その人が肉体を持った求厭そのものと思うわ。あれの正体は、恐らくは彼の写経の類いでしょうね。写経の墨滴に、きっと渾身の魂を封印して書き記したのよ。残留思念が篭められたその形代の特性で、紙片への変幻が可能ということよ」

「求厭なら元禄元年に山城国で逝去しているが、その存在を裏付ける本人の書簡などは遺されていない」

 結界の外から甘利助教が言った。

「そうよね。それが肉体らしきモノを得て、自由に歩き回るどころか、朝廷に仕えていたのだから」

 彼は結界に草を踏み鳴らして近付いてきて、「返すぞ」と白鞘を渡そうとした。それを六花姉は掌を立てて押し留めた。 

 十束刀は彼が隠し持っていて、万一への布石だった。

 お祓いに使ったのは無刄の模造刀だ。


 ともかく。

 最初の目的は果たした。

 彼の正体を知ることだ。

 側に置くべきかの判断材料が欲しいというのは、全員の総意だった。

 彼に鬼叢雲をけしかける、その場所としてここを選択した。三竜瀧の展望台からでは視界は前方にしかない。だけどその反面で、背後は護られる。この断崖は六花姉の棲家でもある。姉の思念波は濃密にここに漂っている。

 いわばこの樽沢そのものが、雪女の城でもある。

 つまり籠城戦で誘引する、それで求厭が能力を使い、彼の正体でも掴めれば一挙両得という策だった。

 それともうひとつ。

 あの鬼叢雲には史華姉の本体の、年齢と意識が溶け込んでいると思われる。ここで一矢報えれば、もちろん六花姉の助力を得てだけど、取り戻すことが出来るかも知れない。

「六花姉、ボクはどこを射抜いたららいいの。求厭が絡め取ってる今だと思うの」

「判らないのよ、今は。この結界は内側に向けて張ってあるの。私の能力を塞ぐためにね。あの冷気溜まりは巫女舞の前から張っていたのよ」

「よく的中できたね」

「雪女の勘よ、ふふ。あれに仕向ける導線を引くのは造作もないわ」

 被りを振る彼女はそっと首を竦めた。

 首筋に、玉のような汗が浮いていた。

 そんな鎮痛な表情を見たの、初めて。

 六花姉は畏れている、きっとあの勾玉、六龍珠を。

 冬場のあの日、姉は気紛れに小旅行に出た。そのときにボクとのリンクが途切れた三日間があった。勾玉を奪われたのはその渦中だった。

 詳しくは教えてくれない。

 史華姉が年齢と意識を喪失して帰宅したとき、実は説教もくらったのでしばらくは冷戦状態で、お互いカリカリしてた。魚網なんて大物を《引き寄せ》てしまったのは覚悟の上だったんだけど。タイミングを無くしてしまったな。

 苦悶の声に、ぎょっとした。

 ごめんね、眼前の死闘に、史華姉への注意を失っていた。彼女のその蒼白い裸身が苦痛に膝を折っている。弓を置いて駆け寄った。

 史華姉のその肌に、体温が戻り始めている。さらに海綿が水分を吸うように、腋の下の乳房がみるみる膨らんできている。

 それはもうたっぷりとした量感で、水桃のように甘い蜜を孕んでいるようだ。

 その変貌した娘の眼を見やった。

「史華さん、戻ってきたの」

 彼女は怯えた眼でそれをかぶりを振って返した。触れようとした右手から、鹿革のゆがけがぱさりと抜け落ちた。

「違うわ」

「だって」

「わたしは、わたしの名前は、ブン」

 その瞬間にボクの身体は、いえ、史華姉の陰の肉体が一気にくずおれた。体重という実感が薄れて霧になった。

 触覚だけが残り火のようにあって、布地が肌を滑って落ちていくのがわかる。

 そうして輪の形に道着が置き捨てられたのを、自分の身体が破砕されたのを意識だけで眺めてる。

 そうだ。

 聴かされていた事だ。

 影の肉体が同期された、と気づいた。

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