観劇(貴志視点)
秋の気配が濃厚になってきた頃、僕と葵ちゃんは宮野
チラシを見ながら歩いて行くと、商業ビルの4階に劇場があった。
ロビーには、演劇の他に寄席や講演会のポスターも貼ってある。座席数三百くらいだから使いやすいのかもしれない。
僕たちは開演20分くらい前に入場して席を探した。この劇場は全席指定席だ。
ちょうど真ん中あたりだったので、見やすそうな席だねと葵ちゃんが喜んでいる。
ここに来る途中、電車の中でも街を歩くときも葵ちゃんは楽しそうにしていた。
「付き合ってから初めてのデートだね」と、はしゃぐ姿を見て、なんだか申し訳ない気持ちになった。
交際の許可はもらえたものの、葵ちゃんが中学生ということもあり、ちゃんとしたデートはまだ一度もしていなかった。
(きっと今まで我慢してたんだろうなあ)
僕は葵ちゃんの手をぎゅっと握って言った。
「葵ちゃんが高校生になったら、いっぱいデートしよう!」
「うん。楽しみにしてるね!」
僕の言葉に葵ちゃんは無邪気に笑う。そんな彼女がいじらしくて、人目も構わず抱きしめたくなるのを我慢した。
「劇場なんて学校の芸術鑑賞でしか来たことないけど、映画館とは雰囲気が全然違うよね」
葵ちゃんは客席を見渡して目を輝かせた。
舞台には、高級そうな赤い
「舞台ってやり直しがきかないから、観る方も緊張するのかもね。あと、緞帳の向こうにどんなセットが組まれてるのか、すごく気になる」
「きっと海かお城のセットだよね。あ、客席埋まってきたね。良かったあ。一番前の席なんか舞台に近いから、空いてたら役者さんもショックだもんね。萌音ちゃん、緊張してないかなあ」
「初日じゃないんだから大丈夫でしょ。宮野さん、どんな役なの?」
「お城のメイドさん。人魚姫のあまりのポンコツっぷりに振り回される役なんだって」
「へえ、なかなかおいしそうな役だな」
「ふふ、萌音ちゃんもそう言ってた」
開演のブザーが鳴り、僕たちは口をつぐんだ。
客席の明かりが落とされ、おごそかに緞帳が上がった。
舞台に揺らめく青い光で、ここが海の中だとわかる。
(セットはシンプルだけど、そのぶん照明でうまく表現してる。面白いな)
天然のドジッ子で憎めない人魚を、若手女優が上手く演じていて、王子との掛け合いや魔女とのやり取りなどで、観客たちを笑わせる。
最初は遠慮がちだった笑い声が、話が進むにつれて大きくなっていく。いい流れだ。葵ちゃんも隣でケラケラと楽しそうに笑っている。
(舞台っていいな。お客さんの反応がすぐにわかる。でも、これが自分の作品だったら怖くて観てられないだろうな。受けると思ったセリフでしんとしてたら立ち直れない)
宮野さんは、人魚に振り回されながらも一生懸命に世話を焼くメイドをコミカルに演じていた。
「萌音ちゃん、いいね」
葵ちゃんが僕の腕に触り、小さな声で言う。
「そうだね」
僕が顔を近づけると、葵ちゃんは笑顔を浮かべた。
客席は暗いけど、照明の明るさでそれくらいはわかる。
(可愛いな。いやいや、今は舞台に集中しないと)
休憩は入らず、芝居は2時間弱で終わった。
フィナーレで役者たちが舞台に並ぶと、客席から大きな拍手が沸き起こる。僕も葵ちゃんも手が痛くなるほど拍手をした。
アンデルセンの書いた「人魚姫」と違い、ハッピーエンドだったのが良かった。
もちろん、原作の切なくもどかしいラストもいいが、コメディにアンハッピーエンドは似合わない。
観客たちにはおおむね好評だったようで、「面白かった」「笑えた」などという声があちこちから聞こえた。
「萌音ちゃんが、終わったら楽屋裏に来てって言ってたから、ちょっと聞いてみるね」
葵ちゃんが受付にいた女性に声をかけると、楽屋に案内してくれた。メインキャストは個室のようだが、宮野さんは新人なので大部屋にいた。
「萌音、お客さんが来てるよー!」
「あ、すみません!」
案内してくれた人が声をかけると、宮野さんが慌てて返事をした。
たぶん先輩なのだろう。彼女は僕たちに礼をして、また受付に戻っていった。
「葵ちゃん! 来てくれたんやね。美作さんも」
まだ衣装もつけたままで、宮野さんが楽屋から飛び出してきた。
「萌音ちゃん、初舞台おめでとう!」
葵ちゃんが花束を渡した。オレンジや黄色でまとめられた明るい花は、彼女をイメージして葵ちゃんが選んだものだ。
「わあ、可愛い! ありがとう!」
「面白かったよ! 萌音ちゃんの役もすごく良かった。まわりの人たちも褒めてたよ」
「ほんと!? 嬉しいっちゃ。美作さんはどうやった?」
「面白かったよ。照明とかセットとかもすごく良かったし」
「ありがとうございます。スタッフが喜ぶと思うけ伝えときます」
「あ、うん」
僕は彼女と親しいわけではないので、どうも態度がぎこちなくなってしまう。
チラリと葵ちゃんを見ると、しょうがないなあという目で僕を見ていた。これじゃあ、どっちが年上かわからないな。
話をしていたら宮野さんの客が来たので、僕たちは楽屋を出てロビーに向かった。
「楽屋って初めて行ったからドキドキしちゃった」
「役者さんたちの素の部分が見えて面白いよね」
なんて話していると、後ろから誰かに声をかけられた。
「きみたち、萌音の友だち?」
「そうですけど……」
(誰だ、この男)
僕たちに声をかけたのは、30代後半くらいのうさんくさそうな男だった。少し長めの髪を後ろでひとつに結び、にやけた表情で僕たちを見ている。
「きみの声、よく響くね」
男は葵ちゃんに言った。
「なんか言ってみてよ。さっきの舞台のセリフとか」
「ええ?」
葵ちゃんが困ったように僕を見る。
僕は葵ちゃんを隠すように前に出た。
「なんですか、あなた。いきなり失礼でしょ」
「ダメ? じゃあ、早口言葉でもいいよ。東京特許許可局とか、青巻紙赤巻紙黄巻紙とか」
男は僕を無視して続ける。
「うわぁ、
「ちょっと、葵ちゃん!」
「ありがとう。これでもプロの声優だからね」
はい、と男は僕たちに名刺を渡した。
〈劇団フェニックス 代表 杉田俊彦〉と書いてある。
そういえば、声優がやってる劇団って言ってたな。
「すみません、気がつかなくて。失礼しました!」
葵ちゃんが慌てて頭を下げるので、僕もしぶしぶそうした。
「いいのいいの。いきなり知らないおじさんに話しかけられたら警戒して当然だよ。自分から名刺渡すことなんてあんまりないんだけど、きみの声、なんか気になっちゃったからさ」
「あの、彼女まだ中学生なんですけど」
「えっ、そうなの!?」
「はい。中3です」
「そっかあ。じゃあ、もう少し大きくなったら遊びにおいでよ」
「え?」
「待ってるからね~」
ひらひらと手を振る杉田を呆然と見送ったあと、二人して苦笑いを浮かべた。
「ずいぶん軽いノリのひとだったね」
「うん、びっくりしちゃった」
葵ちゃんは笑いながら彼の名刺をバッグにしまった。
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