初めての本
6月の半ば。
紫陽花の咲く庭で、貴志くんはわたしに一冊の本を差し出した。
「やっと出来たんだ。真っ先に葵ちゃんに渡したくて」
真新しい本の題名は――
『前世大賢者だった俺は、魔法学校で青春します』
青をバックに白抜きで書かれた文字の横に、麦野案山子の名まえがあった。
「うわぁああ、本になってるー!!」
主人公のオスカーが、魔法学校の制服を着て仲間たちと笑っている。
「オスカー、カッコいい! クレアちゃんは妖精さんみたいで可愛い。ベロニカはツンデレ美少女って感じ。ザガートは色気があるし、ライアンは優しそう。みんなイメージにぴったり!!」
うわーん、興奮が止まらないよぉ。
震える指で表紙をめくり、顔を寄せて本の匂いをかぐ。
「はあ、出来たての本の匂い。落ち着く……ホントに貴志くんの小説が本になったんだね。なんだか夢みたい」
「まだ発売前なんだ。その本は葵ちゃんにプレゼントさせて」
「いいよ、買うから。10冊でも20冊でも!」
「そんなに買わなくていいよ! この本は葵ちゃんがいなければ絶対出来なかったんだ。だから、どうか受け取ってください」
「うぅ、わかりました。じゃあ、ひとつだけお願いが……」
「なに?」
「サインしてください!」
わたしが両手で本を差し出すと、貴志くんはニヤリと笑った。
「宛名は
「葵でお願いします!」
「あはは、了解です」
わたしは急いで家に戻り、黒のサインペンを取ってきた。
貴志くんはベンチに座り、表紙をめくって見返しのところにサインを書いてくれた。
〈葵ちゃんへ いつもありがとう 麦野案山子〉
「うわぁ、本物のサインだあ! これ、練習したの?」
「うん……ちょっと」
少し漢字を崩しただけのサインに、貴志くんの照れを感じる。
「ありがとう。宝物にするね! これは大事に飾っておくから、何度も読む用と布教用にあと2冊は買わなきゃ」
「嬉しいけど、お小遣いなくなっちゃうから無理しないでね」
「大丈夫! お母さんとお父さんにも協力してもらうから!」
「あはは、心強いなあ」
「まかせて! わたしは麦野案山子のファン第1号なんだから」
口だけじゃなく、わたしは本気で『前世大賢者だった俺は、魔法学校で青春します』の布教活動に努めた。
茉莉花と図書の村上先生は、本が発売されたことを話すとすぐに購入してくれた。他にも、もと図書委員のひとや読書好きの友だちには積極的に薦めた。
貴志くんは知り合いに宣伝しにくいみたいだから、わたしが代わりに、スミレ荘の住人や大家さん、コンビニの店長や佐々木くんたちに宣伝してまわった。
声高に褒めまくるわたしの横で、貴志くんは恥ずかしそうにしている。
店長さんは「店にも置いてあげるよ」と言ってくれたし、佐々木くんは「すげえっすね!」としつこいくらい繰り返していた。
出版社も厳しい時代。1巻目が出たからといって必ずしも次が出るとは限らない。2巻目、3巻目と続けて出してもらえるように、少しでも販売部数を伸ばさなくっちゃ!
貴志くんも新作の短編を書いてそこで宣伝したり、ネットで地道に営業活動をしたりして頑張っている。
本を出したから終わりじゃないだなと実感する。
貴志くんの小説家としての人生はここから始まるんだ。
* * *
萌音ちゃんが劇団の公演に初めて出演することになった。
スミレ荘の住人たちは全員観に行く予定だ。お母さんは理香さんと一緒に行くというので、わたしは貴志くんを誘った。
「萌音ちゃんの初舞台、一緒に観に行かない?」
「いいよ。どんなのやるの?」
「チラシもらったよ。えーっと、オリジナルみたいだね。『ポンコツ人魚姫の恋』だって」
庭のベンチに並んで、二人でチラシを覗き込む。
「へえ、コメディなんだ。面白そうだね」
「この日のマチネが空いてるらしいけど、行けそう?」
「うん、大丈夫だよ。一緒に行こう」
貴志くんがそっとわたしの手を握る。
顔を上げると、あま~い笑顔でわたしを見ている。
両想いになってからというもの、貴志くんの溺愛がしゅごい! いや、すごい!
そのうち誰かにバレるんじゃないかとヒヤヒヤする。わたしはいいけど、貴志くんが責められたりするのは嫌だ。
わたしがさりげなく手を離すと、貴志くんは悲しそうな表情を浮かべる。
あー、胸がキュンキュンする。
なんでこんなに可愛いの。
抱きしめたい衝動をぐっとこらえて言う。
「今度、お出掛けしたとき手をつなごうね」
「うん」
嬉しそうにうなずく貴志くん。
これだけ愛情表現をしてもらえると自信がつくのか、わたしは前ほどヤキモチを焼かなくなった。
恋人がヤキモチ焼きで困るって話をよく聞くけど、それって愛情表現が足りないんじゃないかな。
すぐに不安になっちゃう子には、うっとおしいくらい言葉や態度で気持ちを伝えてあげないとダメなんだよ、きっと。恋愛初心者のわたしが言うのもなんだけど。
「楽しみだねー」
「芝居が終わったら食事してから帰ろうか」
「やった! お母さんに言っておくね」
「うん。……暗くなってきたし、そろそろ部屋に戻らないとね」
「あ、うん。じゃあ……おやすみなさい」
「おやすみ」
名残惜しいけど、手を振ってそれぞれの家に帰る。
(いつか同じ家のドアを開けるときがくるといいな)
ふと隣を見ると、貴志くんと目が合った。
微笑む彼を見て、同じことを考えているような気がした。
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