私とせんべい狩りの朝
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携帯のアラームが、一定のリズムで耳を刺し貫く。昨日みたいに自分がどこにいるかわからなくなることはなかったが、水を吸った綿のような重い眠気が頭にわだかまっていた。ずきずきとした痛みを感じながら体を起こし、窓にかけられたカーテンを引き開ける。乱立したビルや電柱などが配された見慣れた景色はいまだ夜に閉ざされている。まだ、朝の五時だった。
適当に服を選び、最低限の化粧をして家を出る。三月の中旬とはいえ、まだそれなりに冷える。ナイロン地のアノラック越しにはっきりとした冷気を感じながら、月明かりに照らされた街を歩く。犬を散歩させている人、スーツを着込んで駅のほうに向かっていく人、朝まで飲んでいたのかふらつきながら歩いている人。彼ら全員の胸元には、ひもが通ったぬれせんべいがぶら下がっている。家を出る前に網で焼き、醤油を塗り直したものを私も持っていた。地底人除けの効果がどれほど残っているのかはよくわからないが、問題はきっとそこではないのだと思う。ぬれせんべいをきちんと首から提げていること。それ自体が重要で、免罪符になるのだ。
藍色だった空の端が、紅茶のような赤色に染まり始める。それと同時に私はスーパーの敷地に足を踏み入れた。インターネットをフル活用し、『三月十九日 ぬれせんべい入荷予定との情報あり』というタレコミが寄せられていた近場のお店から、もっとも人が集まらなさそうな場所を選んだ。しかし、固く閉ざされた自動ドアの前には、それでも十五人ほどの客が外壁に沿って整列していた。ほとんどがしっかりと防寒具を着込んだ中年から年配ぐらいの人たちで、私と歳が近そうな人は、一家でやってきたらしきグループの中にひとりだけいた。浅めに被ったニット帽から、丸まった前髪がぴょんと飛び出している。
「おや、ごめんねえ」
ぼーっとしていたためか、別の方向から列に並ぼうとやってきたおじさんと肩がぶつかる。ああ、すみませんと言いかけ、私は反射的にさっと距離を取ってしまう。薄汚れたウインドブレーカーを着た彼の胸元には、ぬれせんべいがなかった。いやでも今は品薄だししょうがないか、てかないんだから買いに来てるんだよね、そうだよねと自身に言い聞かせつつ、その後ろに並ぶ。仮に今ここでなんらかのアクシデントがあって彼が後ろに飛びのいてきたとしても、体が触れずに済むであろう距離。そのぶんのコンクリートが、私の足元に広がっていた。
ほんの少しの罪悪感を抱えつつも、先ほどの一家がおじさんを見てあからさまな反応をして身を引いたことを見逃さなかった自分が、ひどく陰険で卑怯な人間に思えた。この丸い物体があるかないかで、心の持ちようはずいぶん違う。持っていない状態でのこのこ現れた人に対し『なにか事情があるのかもしれない』という想像を働かせることをすっとばさせ、無条件で敵意や被害感情を抱くことを許す。ぬれせんべいは今や、そういった類の仄暗いアイテムに成り下がっていた。
空に広がる赤色が徐々に透き通っていく。寒さは少しずつ和らいでいったが、列に加わる人はどんどん増えていった。自転車や車を使って出勤してきた店員に、前のほうに並んでいる誰かがなにか言っている。内容はほとんど聞き取れなかったが、語気が荒いことだけはわかった。なにか気に食わないことでもあったのだろうか。おおかた寒いだの早く開けろだの毎日買えるようにしろだの、そういったことだろう。あらゆる事情を鑑みることをせず、自分の中の狭い認識を、他人に押しつける行為。
高校に上がる前に亡くなったおばあちゃんも、死の間際はそのようなことを繰り返していた。お母さんやお父さん、私と博隆にはどうもできないことにいちいち怒り、罵声を浴びせ、場合によっては暴力を振るうこともあった。でも、それはもうしかたのないことだろうと今は思う。記憶や思考のほとんどが白くなって立ち消えた状態で、それでもおばあちゃんはわずかに残っていた自分自身の『世界』に則って行動をしていたのだ。誰にも、それは責められない。個人の持つ領域や輪郭を押しつけ合って、ぶつけ合って、私たちは生きている。
右手の人差し指でぬれせんべいを触りながら悶々としていると、私の隣に人が並び始めた。列が店をぐるりと囲み、一周したらしい。場所選びを失敗したかもしれない。そう思いながらSNSを開き、しばらく触れていなかったために氷のようになった画面をかじかむ指でなぞる。すると、ここよりもさらに大量の人がひしめき合っている写真がいくつもヒットした。店員が大声で入荷数には限りがあります、お買い求めになれない場合もございます、と叫んでいる音声つきの動画もある。それら投稿にはもれなく、並んでいる人を嘲ったりバカにしたり、政権批判、地底人に関するデマ情報が載ったサイトのリンクなどの内容を含む返信がいくつもぶら下がっていた。地底人が出現する前からこういうことは多々あったが、現在はその頻度や怒りの濃さが増している気がした。
そんな原色の悪意や不安で彩られた文字列を次々と画面に表示していく。本当はこんなことやめたい。でも、SNSは私のような人間にとっては生活の一部になってしまっている。自分の中に落ちているうまく言語化できない怒りや不安、これはおかしいな変だなと思っている事柄を同じように感じている人を手軽に探し、結束し、力を得ることができるツール。それを通して「周りにいないと思っていたけど、世界をのぞいてみたらこんなにたくさん私と同じ怒りや思考を持って生活してる人がいる。いや、いた」と思ってしまったことのある私は、きっともうこれを手放すことはできない。別の意見や思考を私にどかどかぶつけてくるような投稿が際限なく私の中に流れ込んでくることがあるとしても、自分の領域をやわらかく保ち、ひとりで、私は同じ存在を探してネットの海を泳ぎ続けるだろう。
そうやって勝手にズタボロになっている間に、街はどんどん目覚め始めていた。スーパーの敷地の外を行きかう人がどんどん増え、いつも通りの生活を送り始める。会社へ向かったり、ごみを出しにいったり、まだいちおう解放されている保育園に子供を送ったり。そんな営みのさなか、体を震わせ彫像のように開店のときを待っている私たちは、そこから弾き出されていた。外にいる彼らはときおり立ち止まり、一匹の大きな蛇になっている私たちを携帯のカメラで撮影して立ち去っていく。遠目だから確認はできないが、きっとその唇は弧を描いているのだろう。私も、おそらくだが博隆も、昨日の電話でぬれせんべい行列の話をしていたとき同じ表情をしていた。
「なにこの行列。あ、ぬれせんべいか。ばっかじゃないのこんな朝早くから」
「こんなの地底人が発生したらどうすんのかしらね。人が密集すると『種』が芽吹くのも早くなるんじゃなかったっけ」
「意味ないじゃーん」
私の右手側にある歩道を歩く女性ふたりが忍び笑いをしながら通り過ぎていく。話し声は相手側に聞かせるよう大きく、嘲笑は控えめでエレガントに。そんな雑誌のような文句が頭に浮かんだことに舌打ちしそうになりつつ、彼女たちの胸元にぬれせんべいがこれ見よがしにぶら下げられていたことを私は見逃さなかった。昨日食べたサバランとショートケーキの味を思い出し、突発的に現れた怒りをゆっくりと鎮める。
あいつらだって、きっと本心では不安に駆られているのだろう。そうじゃなければしっかりとぬれせんべいを装着することなんてしないはずだ。私は冷静ですよ。達観してますよ。あなたたちと違ってね。そういうスタンスを指示されてもいないのに勝手に表明し、マウントを取りたいだけなのだろう。
でも、たしかにこんな密集してたら意味ないよな。彼女たちがいなくなってから三十分ほど経ち、開店したスーパーの中に吸い込まれていく人を見ながらそう考える。一度張りついた『種』は、過密になればなるほど地底人を発生させる確率が上がる。ネットでもテレビでも、そのことは盛んに拡散されていた。にも関わらず、彼らを防ぐものを買い込みにきてその温床となるような条件を揃えてしまうという、皮肉な状況がここには完成してしまっていた。しかし、それはここに限った話ではない。たぶん、日本中がそうだ。
「押さないでください!」
「ぬれせんべいは一家庭ひとつまでです。再度お並びになるのはおやめください」
「一番目にお待ちの方どうぞー」
朝の気だるさと余韻を引き裂くように、たしかないらだちをはらんだ店員の叫びが店内にあふれる。なんとか入店した私はその中を泳ぎ、やっとの思いでぬれせんべいを手にとった。できるだけ割れていないものを選びたかったが、考えることは皆同じらしく、完璧なものは残っていなかった。半分に割れてしまったせんべいが何枚か袋の中で揺れているのを感じつつ、レジに向かう。密集するのを避けるため、床には一定の間隔で目安となるビニールテープが貼られている。しかし、それを厳守している人は半分くらいしかいない。ふとレジのほうに目をやると、入店時に私の前にいたおじさんが並んでいた。案の定、テープを無視している。彼の前にいるチェスターコートを着た痩せぎすの男性が頻繁に後ろを振り返り、あからさまに迷惑そうな顔をしていた。
会計を済ませ、店を出る。地面に描かれた駐車場の線を踏みながら後ろを振り返ると、ガラス壁の向こうに広がるレジでは、いまだ多くの客がゾンビよろしく整列している。牛乳やかつおぶし、バナナや豚バラ肉などをかごに詰めている人もいたが、そこには例外なくぬれせんべいの茶色が見え隠れしていた。本当はもう一袋購入したかったが、この混み具合では二度目は無理だろう。私の隣を走り抜けたおばさんが、駐車されている赤色の車を開け、運転席で眠そうな顔をしていた男に何事かささやき、スーパーのほうへと派遣している。黒く煮えたぎったなにかが、胸の中に漏れ出していく。携帯を取り出しSNSを開こうとして、すんでのところでやめる。代わりに着信履歴からお母さんの電話番号を呼び出して電話をかけた。あれ、あの人今日パートだったっけ、と考えつつ待っていると、八コール目で通話が繋がった。
「もしもし。おはよう。買えたの」
「う、うん」
雲がまばらにかかった青空のもと、私はコンクリートの上に立ち尽くす。携帯とは逆の手に握ったビニール袋の持ち手が、汗で濡れていく。少しだけ考えてから、口を開く。
「お母さんのほうは買えたの」
「え? ああ、こっちはねえ、だめだったの。あの電話の後お母さんも探したんだけどね。いちおう今、博隆にスーパーに行ってもらってるけど。それ次第かしらね」
ダウンを羽織ったスウェット姿であくびを連発しつつ、田んぼが広がる中をスーパー目指し自転車で駆けていく博隆が、ぱっと頭の中に現れる。きっと、その背は気だるそうに丸まっているはずだ。
「そうなんだ。あ、あのね、買えたよ、二袋」
「本当? じゃあ送ってちょうだいね」
ありがとう、助かったわ。その部分だけ、なんとなく色づいたように聞こえた。じゃあ、楽しみに待っててね。ビニールの中に収まるぬれせんべいをにらみつけ、私はゆっくりと噛みしめるようにつぶやいて電話を切った。しかたない。しかたないんだ。私は今、なにも生み出していない。家族がいなくなったら、悲しいし、困る。
早起きによる疲れが節々からあふれ、体を満たしていく。それを感じながら家に戻ると、再びお母さんが電話をしてきた。博隆が二袋ぬれせんべいを確保して戻ってきたという報告だった。
「やっぱり若い子に任せるのがいちばんねえ。そういうことだから、送らなくても大丈夫よ。地底人に気をつけて。できるだけ家にいるのよ。じゃ」
上着と財布の入った鞄やぬれせんべいを放り投げ(そこではっと思い出し、慌てて除菌をした)、布団に飛び込む。起床したときにあったはずのぬくみは完全に消え失せ、そこには平坦で冷たいやわらかさだけが存在していた。
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