私と尖りつつある親族
「え、正月に帰ったときはあんなたくさんあったのに」
「あんたと違ってうちは私とお父さんと博隆で三人家族なんだから減りが早いのよ。それにあのときはまだ地底人少なかったでしょ。こんな大ごとになるなんて思ってなかったから、そんなに買ってなかったの」
地底人は、人の体や持ち物にくっついた『種』から発生する。その直後は空腹の状態で生まれるため、まずは手近にあるものを捕食しにかかることになるのだが、基本的には人間がその対象に選ばれる。皮膚や爪をちょっとかじるだけで満足する個体がほとんどだが、内臓も骨も食らいつくさないと気が済まない個体もいるらしく、被害が甚大になりつつある。それを防ぐのに一役買っているのが、先ほど話に出た特殊な成分が練り込まれたぬれせんべいだ。地底人が『人』として認識する要素をすべて備えていることに加え、『種』の段階からそちらに付着するよう誘引し、成長する前から穏便に地底人を殺害してくれるらしい。仮に成体に目をつけられても、彼らはぬれせんべいを見ると少しだけ活動がにぶるうえ、せんべいを口に入れた場合は死滅するので安心だった。
だから今、この状況下においてぬれせんべいを首に提げていない人間は、それだけで白い目を向けられる。現に私も、しっかりと古いちゃぶ台のような色と形をしたそれを装着していた。地底人はどこいるかわからないことも多いため、『種』から常に身を守っておく必要があるのだ。
「うちももうお徳用のやつが一箱しかないんだよね。今あるやつは洗って焼いて醤油塗り直して使ってんだけど。まさか、送れっていうことなの」
「違うわよお。見かけたら買っておいてほしいのよ。もちろん都会のほうが人いっぱいいるし、その、買い占めとかも多いっていうのはわかってるわ。でも、それはこっちも同じなのよ。この前だってスーパーやせんべい屋さんを十軒くらい回ったんだけどぜんぜん売ってなくてね、もう困っちゃうのよ……まあ、とにかくね、助け合おうって話よ。家族なんだから。どうせあんた暇でしょ」
「う、うん、わかった」
「こっちでも、見つかったら送ってあげるから。じゃあ、気をつけてね。若い子の肉を地底人は嫌ってあまり積極的に襲ってこないって話だけど。あ、そうだ。あんたの口座に少し多めにお金振り込んどく。だから本当にこっちへ帰ってこなくて大丈夫よ。心配しないで」
じゃあ、ぬれせんべい、よろしく。指がうまく動かずに難儀していると、いつの間にか電話は切れていた。髪の毛が覆いかぶさったうなじやもみあげを冷や汗がじっとりと濡らしていく。お母さんは、本当に自覚がないのだろうか。まあ、私の状況では文句を言うことなどはできない。
「ちょっとスーパー回りに行くか……」
靴を履き直し、ドアを開けて外に出る。降り注いできた直射日光に目を細めながら、ほんの一瞬だけ地元に帰る想像をした。体中にいっぱい『種』をつけて、形だけのぬれせんべいを装備して、新幹線で長野駅に行き、そこでバスに乗り換える。神社前の停留所で降りて老人や中高年が目立つ町をトランク片手に練り歩き、家に着いたら、お母さんやお父さん、博隆に挨拶する。その間ずっと、私は地底人の素をスープに胡椒を振るかのごとく拡散し続ける。そのせいで地元は地底人の巣になり、多くの人が、ひどい目にあう。
だけどもちろんそんなことはできないし、したくない。私が地底人に襲われるリスクを高めることになるし、弟の博隆を含む家族に地底人の影響が出て死にでもしたら、なんだかんだでとても後悔するだろう。なにより、そうなったら寄生虫の私は飢え死にしてしまう。だから、多少のリスクを背負ってでもぬれせんべいを探さなくてはいけない。役に立たなくてはいけない。
とは言ったものの田舎にない物が都合よくこちらにあるわけもなく、自転車で行ける範囲のスーパーや駄菓子屋、ドラッグストアなどは全滅だった。店内には同じようにぬれせんべいを求めに来たらしい人がたくさん見受けられた。彼らと、ときおり視線がぶつかる。花粉症の季節のためマスクをつけている人が多く、表情は伺えなかったが、私と年齢が近い人はその布の下で微笑んでいるような気がした。
歩いているうちに電話で受けた傷がぼんやりとしてきたため、最後のドラッグストアを確認したあとで件の洋菓子屋さんに向かった。お茶をする気力のほうは戻らなかったので、ショートケーキとサバランを箱に詰めてもらった。普段ならこの時間はもう少し混み合っているはずなのに、予想通り客入りはまばらだった。見るからに所得が高そうな雰囲気をまとったおばさんたちがカフェスペースで談笑している。かなり長い時間いるのか、皿の上に載っているはずのケーキは消え失せていた。そのかたわらには、食事の邪魔になるためか外された、茶色いぬれせんべいが転がっている。
家に戻ると、まず私は着ていた薄手のコーチジャケットに除菌消臭剤をまんべんなく噴射し、玄関先のハンガーにそれをかけた。それから間髪入れずに手洗いうがいを念入りにして、ぬれせんべいを洗剤で洗って食器とは離れた場所に置いた。もう一度焼いて再利用するため、まずは水気を飛ばさなくてはならなかった。
そして最後に、携帯と耳にはめていたイヤホンを濡らしたタオルでしっかりと拭き取り、自分自身にも除菌消臭剤をかけた。そこまでしてようやく、私は落ち着くことができる。少し前までは玄関で服を着替え、それを洗濯するまで奥の部屋に持ち込まないということを徹底していたが、根がずぼらなために一週間でやめてしまった。
サバランを机の上に置いた箱から取り出し、付属のプラスチックスプーンで崩して口に運ぶ。ふわっと広がるバターの優しい甘みに、生地から染み出す鮮烈な洋酒の風味がのっていくのを楽しんでいると、机上に放り出した携帯が震え始めた。またお母さんかと思い、名前を見ずに出る。
「もしもし」
「あ、姉貴? 博隆だけど」
「あ、ああ。どしたの電話なんか」
「いや、ほら、心配になって。東京、外出は避けてくださーいとかなってるから」
「まあ、あくまで『自粛』だからね。私はともかく、働いてる友達は普通に仕事行ってると思うし、私や他の人もある程度の範囲で気晴らしに出かけてるよ。そんで、ツイッターは大荒れ」
「ははは。それは知ってる。話題だもん」
「ていうか博隆、卒業式もうすぐだったよね」
どうするのと言いかけ、慌てて口を閉じる。弟の博隆は中学三年生で、本来なら卒業シーズンの真っただ中のはずだった。しかし地底人発生のリスクを考え、それらは全面的に中止になった。学校や自治体によっては規模を縮小しおこなったところもあったようだが、彼の学校はそうではなかったと前々回のお母さんとの電話で聞いた。
「ごめん。無神経だった」
「いや別にいいよ。姉貴が悪いわけじゃないし。クラス全員で固まって写真撮ったり、普段あんま仲良くなかったやつとさもずっと仲良かったですよねー最高でしたよねーみたいな感じでいるのそんなに気が進まなかったし。それより、剣道部のやつらとディズニーランド行けなくなったのがいちばんつらいかな」
「そっか。私もぜんぜん仕事見つからなくてさー。まあ、えり好みしなければあるんだろうけど。高校は普通にあるの。それも延期か」
「うん。入学式自体は規模縮小であるっぽいけど、四月末かゴールデンウィーク過ぎたくらいか、みたいな感じ。まあ、どうせもっと後になるだろうけど。やだなあ、夏休みなくなるかも。最悪」
明るさを取り繕っているのがありありとわかるその声と、スピーカー越しに会話をする。最後に話したのはお正月に帰省したときだったからか、毛布のようにやわらかくて暖かい感覚が次々と湧いてきて、話題に陰が落ちたままなのに気づくと頬が緩んでいた。重ねた月日はお母さんとほぼ同じでも、人が違うだけでこうも異なる作用をもたらすのか、と少し面白くも思った。
「そういえばお母さんがさっき舞美に電話したのよーって言ってたよ。なんの用だったの」
「ああ、えっとね、ぬれせんべいがあったら買い込んでこっちに送れ、あったらお母さんも送るからみたいな話だった」
「なるほどな。今ほんとにないんだよねぬれせんべい。俺も買いに行かされてる。てかさ、たぶんそっちもそうだと思うんだけど、開店前にずらっと人並んでるんだよね。わざわざ椅子とか熱いコーヒー入れた水筒とか用意してまで。ラーメン屋みたいだよな」
「あー、なんかネットで見たかもそんな話」
「ばかみたいだよな。しかもそういうのってほとんど暇なジジイかババアなんだよね。家に八袋あります、心配ですみたいなインタビュー見たよ。抽選制とか時間ずらしも徐々に始まってるみたいだけど、まあ効果は薄いよね」
どうせ遅かれ早かれ死ぬんだからさ、俺らに譲れよ。老害どもがよ。弟の声がぎらつき始める。でも、それはこちらに向けられた刃ではない。先ほどのように体が固まることもないまま曖昧な返事をする。顔も名前も姿も知らないしわくちゃの肉塊たちに対し、なにかがふつふつと湧きたつような感情と、それを抑制しようとする感情が同時に生まれる。
「朝早くにスーパーに並んでたらぬれせんべい買えるかな」
「えーやめといたほうがいいと思うけどな。だって、行列ってことはさ、それだけ『種』を持っている人と同じ空間を共有するリスクが上がるってことじゃん。危ないよそれって」
「まあそうだけど。でも、そうでもしないときっと買えないよ」
「おかしいよな。働いてる人や若い人が買いものをする時間には、もう暇ぶっこいて並んでたジジババどもが買い占めてるって。必要性が高いのはこっちなのに。クソがよ」
「と、とりあえず、私行ってみるよ明日。今無職でめっちゃ暇だし」
「そんなこと姉貴がする必要あるの」
「い、いいんだって。とにかく、私行くよ明日。じゃあね」
針が飛び出すかのような声が強まっていくのを感じながら、そそくさと電話を切った。携帯をベッドの上に放り投げ、食べかけのサバランを乱雑に崩して食べる。今夜か明日の朝にでも、と思って取っておいたショートケーキにも手をつけた。
別に、私は弟の声に恐怖したわけではない。自分の中に染み込んでいくそのとげつきの言葉が、別のなにかをいましめているものを破壊してしまいそうな気がして恐ろしかったのだ。寂しげな顔をしたどこかの老人の顔を思い浮かべ、必死にその気づきを維持し続けようと努める。
なんかさ、俺たちって、いっつも貧乏くじ引かされてない?
通話を終える瞬間、遠ざけた携帯から届いたつぶやきが頭の中で響く。体内のなにかの機嫌を取るようによどみなくスプーンを動かし、ひたすらケーキを胃に詰める。ため息が出るような濃厚な甘みが、口いっぱいに広がり続けた。
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