ゾーンディフェンス
大滝のぐれ
私と地の底よりのリスケ
布団にくるまれ寝転がっている自分が、どこにいるかまったくわからない。体温で暖められた毛布やボアシーツ、寝巻替わりのジャージだけが私の領域を規定していたが、その周りや自分の思考は霧がかかったかのように曖昧だった。入ってくる情報が、なにひとつ像を結ばない。唸りながら足先を布団の外に出す。乾いたナイフの刃のような冷たさがそこに生じ、そのおかげで、私は昨晩歯を磨き携帯の目覚ましをかけていつも通り眠りについたことを思い出す。そこからは視界や思考を覆う霧も徐々に晴れ、見慣れたマンションの一室が布団を中心に構成されていった。
「あ、待って。待って待って待って」
今、何時だ。途端に全身へ嫌な寒気が駆け抜けていく。今しがたまで考えていたどこにいるかわからないとか領域だとかいう感覚が、べりべりと剥がれ落ちていくのがわかった。この世の終わりのような心持ちで起き上がり、傍らのローテーブルに置かれた携帯を手に取る。机上に置かれたカップラーメンや紙パックのカフェオレのごみ、『志望動機』『自己PR』『退職理由』などと項目分けされた文章が書かれたノートなどに視線を落としながら、電源ボタンを押す。一〇時二三分。終わった、とつぶやきそうになった瞬間、その下に表示された三月十八日という日付に一気にいろいろなものが弛緩した。
なんだ、面接明日じゃん。焦って起きて損した。そうつぶやくと急にお腹が空いてきた。脱ぎ散らかしたブラウスやワンピース、いつとったのかもわからない初音ミクのプライズフィギュアを足でどかし、台所の横にある黄ばんだ冷蔵庫を開ける。ほぼからっぽなその中からクリームチーズと桃入りのゼリーを取り出し、スプーンを手に包装をひん剥いて口に運ぶ。かすかな塩気をはらんだ乳臭さと、うるおいと甘みのある果汁が混ざり合うのを感じながら再び携帯を点灯させると、画面上部の通知欄に転職サイトのアイコンが表示されているのに気づいた。
『企業からの新着メッセージが届いています』
まさか本当に今日だったの、いやでもそんなはずない、忘れるわけない。ぐらぐらと揺れ動く不安をかき消すためにアイコンをタップする。くるくると回転する読み込み中のマークがもどかしい。桃のかけらを口に入れて奥歯で噛み潰したとき、ようやく文章が表示された。
『窯倉 舞美様 お世話になっております。株式会社トッケイヤモリプロダクツ 採用担当の新谷と申します。今後の面接についてですが、東京都内で大量発生している地底人による被害の拡大による、不要不急の外出自粛要請などが出ておりますため、4月1日以降の面接調整が可能であればご協力お願いできますと幸いです―』
「まあ、そうなる気はしてた」
二ヶ月前辺りから世界中で激化した地底人の発生によって、今この国はてんやわんやになっていた。床板の冷たさを素足で感じながら、つい一ヶ月前に行ったスイーツバイキングのことを考える。すでに出現し始めていた地底人を気にしてか人の数は少なかったけど、皆、どこか笑顔や立ち振る舞いが自然だった。『日常』という単語をなにかで調べたら二十番台くらいには出てきそうな感じの、ありふれているけどたしかに幸せだったもの。それが、まさかたったひと月で歴史の教科書のように遠くなってしまうなんて誰が予想しただろうか。
もうとっくに消化されてしまったそれらに思いを馳せていると、なんとなくケーキが食べたくなってきた。代替の日程をネットで調べた返信の定型文に流し込みつつも、私はできるだけ地底人リスクを避けてケーキを食べられる場所がないか考える。いちばん近いのはマンション下のコンビニだが、あそこはいつ行ってもスイーツ系が品薄になっている。少し歩くが、ふたつほど大通りを超えたところにある個人経営の洋菓子屋さんに向かうのがよいだろう。この地底人騒ぎで、そういった形態のお店は軒並み厳しい状況に立たされていると聞く。経済を回すためにちょっと贅沢をしたところでバチは当たらないはずだ。なにしろ昨日の私はお昼の一時に起き履歴書を一社ぶん書き上げ、英語の勉強を五分して、転職サイトを通じて三社も新しい会社の応募ボタンを押したのだ。正当な働きには、それに見合った報酬が用意されてしかるべきだろう。それに加えたった今、面接日程の調整メールも送信した。「このような情勢ですので、ご自愛くださいませ」という、気の利いた一文も添えてある。
お堅いメールを打ち終え緊張がほぐれた手足を遊ばせつつ、外に出られるような恰好に着替えて化粧をする。ついこの間新調したばかりの緑のメッセンジャーバッグに財布と携帯を詰め、少し考えてから読みかけの漫画とモバイルバッテリーを放り込んだ。たしか、あの洋菓子屋にはイートインのスペースがあったはずだ。せっかくだからそこでお茶をしていこう。その後に散歩をするのもいいかもしれない。楽しい気晴らしの方法は一度考え出すといくらでも湧いてくる。玄関でこげ茶のマーチンブーツを履きながら、自然と顔がほころんでいくのがわかった。
しかしドアノブに手をかけた瞬間、肩にかけたバッグのひもから振動が伝わってきて、私はその顔を凍りつかせてしまった。私に縁がある人で午前中に電話をかけてくる人間は数えるほどしかいなかったが、それ自体がもうこれからもたらされる結果を確定していた。頭の中で揺らめいていたいくつもの想像が粉々に打ち砕かれていく。中をまさぐって発生源である携帯を取り出すと、画面には予想通りの名前があった。
「はい、もしもし」
「あ、おはよう。そっちは地底人大丈夫?」
「まあ、今んとこは。基本的には引きこもってるし。あ、面接とかあるとき以外はね。お母さんはどうなの」
「まあ、こちらも変わりないわね」
スピーカーの向こうにいる母親とやり取りをしながら、私は胸の中のどこかがひしゃげる音を聞く。触れたドアノブの冷たさとお母さん側から聞こえるテレビの音声が、体内に駆け巡っていく。
「どう、就活は。って言っても、今は難しいわよねえ。日本はもちろんのこと、世界全体が止まってるんだもの」
「まあ、そうだね。いちおうネット使って応募したりハローワーク行ったりして書類出してはいるんだけどなかなかね。連絡が遅れたりそもそも来なかったり。あ、ついさっき、決まってた面接も延期になった」
「あらそう。まあ、こんなときだしね、ゆっくり決めればいいのよ。ゆっくり、ね」
また、なにかが体の中で潰れる。都会に住んでいる一人暮らしの大卒無職女(第二新卒)と通話する彼女の表情は、苦虫を嚙み潰したような顔になっていると思う。腹を痛めて産み、手塩にかけて育て大学まで行かせた娘が、新卒で入った会社を六か月足らずで辞めて引きこもり同然の生活を送っている。もし私が同じ状況だったとしたら、きっと同じような顔をしているだろう。
「ごめんね、転職中だからバイトがままならないとはいえお金ばっかり使っちゃって。単発派遣が地底人のあおりを食って件数減っててさ、今ぜんぜん入れないの。だから、あのね」
「あら、それはもう仕方ないわよ。こんなときだもの。なんのために今まであんた名義の口座で毎月こつこつ貯金してきたと思ってるの。こういうときのためよ、安心なさい」
「ありがとう。でもさ、やっぱりいったん帰ってきたほうがいいかな。こんなときだから。いや、もちろんリスクがあるのは承知してるんだけどさ、あの」
「いいわよ帰ってこなくて別に。長野のほうで仕事探すわけじゃないんでしょう。それにあんたが言う通り地底人の『種』のキャリアだったら大変じゃない。とにかく、できるだけ外に出ずに、自分のペースで就職活動しなさい」
いいわね? やわらかい声がスピーカーからにゅるんと飛び出し、私の体を拘束していく。彼女の並べる理由は至極まっとうでどう考えても正しいことではあったけど、どうしても言外の意味を探らずにはいられなかった。ブラック企業というわけでも仕事内容がまったく合わなかったというわけでもなく、ただただ人間関係が辛くて辞めた。逃げ出した。その事実が、昨日と今日とでなしたことと絡み合い、私のことをなおいっそうきつく締めあげる。今の私は、立ち止まったままでお金をむさぼり食っているだけの存在だった。
「うん、わかった。じゃあもう切るね」
「あ、待ちなさい」
もう、外に出て優雅にティータイムをという気分ではなくなってしまった。靴を脱ぎながら通話を切ろうとしたとき、お母さんが再び喋り出した。
「うちにさ、地底人予防用のぬれせんべいがなくて。できれば送ってくれると助かるんだけど」
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