私と板からあふれる騒音


   〇



 そのまま眠るわけでもなくまどろみ、気づいたときには時計の短針が上半分より下に移動していた。服についたしわを伸ばしつつ台所に向かい、昼食代わりの味つき袋麺をそのままかじる。お湯を入れてゆでることを想定した濃い味が舌をなで、体がどんどん毒されていくような気がした。袋の底にたまった麺のかけらを口に流し込むと、携帯を取り出して際限ない悪意とひとつまみの善意のるつぼを開く。東京に行った人が帰省してきて『種』を運んでいる、渋谷のライブハウスで若年層を中心に地底人に襲われる事件が発生、国の経済政策、地底人拡大予防策がお粗末すぎる、それに比べて諸外国は……などという内容の個人ブログや文章をスクショした画像やネットニュース。それらにべったりとこびりついたノイズとなるものを頭でよりわけ、情報だけを手元に残していく。

 とにかく、今やれることは気をつけることしかない。そう結論づけ、空っぽになったラーメンの包装をごみ箱へ投げ込む。入るわけもなく、くしゃくしゃになったそれはかなり手前に落下した。


「それにしても、地底人ねえ」

 若年層が殺されることはまれ。発生初期にその言葉が大きくなりすぎたせいで、私たちには危機感が刻まれていない。のだと思う。

 でも、若い人が若い人が若い人が、というような空気を感じるたび、私はたしかないらだちを覚えた。もちろん、対策もせずに「朝まで飲んでましたあー」みたいなことを言うやつはいるけど、少なくとも私はそんな絵に描いたような馬鹿ではない。地底人は確実にいると、そいつは自分たちのすぐ隣へ容易に忍び寄ってくることができるとしっかり理解し、対策を講じている。ぬれせんべい装着だって除菌だってしているし、自分がすでに『種』によって地底人の手に落ちているのではないか、という考えも常に頭の片隅に置いて行動している。でも、街頭インタビューで『二三歳 会社員』といったテロップの横で同世代がああいう愚かなことを言っていたり、ネットで『お前たちが広めているんだ、見ろ、お前らのせいだ、お前たちがしっかりしないから』みたいな雰囲気の論調を見たりするたびに、私はのどをかきむしりたくなった。もちろん、私だって出かけているから問い詰められたら答えに窮するだろうが、あなたたちだってこそこそ出かけたり油断した行動をとったりしているのだからおあいこでしょ、とも思ってしまう。私も含め、人間はそんなできた生きものではない。


 つらつらとそんなことを考えていたせいで、手に持ちっぱなしだった携帯の画面が通話応答の表示に切り替わっているのにしばらく気づかなかった。山下鮎子。大学時代の友人の名前をさっと読み、通話ボタンを押す。無理に弾ませている、しぼみかけのボールのような声がする。


「もしもしー。ごめんごめん、今なにかしてる? 時間大丈夫か」

「無職ですから暇ですよ。どうしたの。そっちこそバイトは。今日は固定の出勤日じゃなかったっけ」

「地底人騒ぎのせいでごっそり出勤日削られたのー。マジ最悪だよね、うち仕送りしてもらってないからこのままじゃ家賃払えん。あのクソババアに頭さげんのは死んでも嫌だし」

 鮎子は私と比べものにならないほど両親との関係が悪く、三つバイトを掛け持ちして仕送りがないぶんを賄いつつ、漫画家になるという夢を追っている。詳しくは聞いたことがない。この無理に出している声の根源に、私は深く踏み込む勇気がなかった。


「まあまあ。で、どうかしたの」

「あ、そうそう。さっき昼休みの時間に由依から連絡きてさ。久しぶりに飲まないかって。だからもし暇なら舞美もどうかなって」

「え、でも自粛がどうとかって言ってるじゃん」

「もう東京に住んでる時点で同じだよ。たしか要町とかそっちのほうだよね舞美がいるの。もう殺されるときは殺されるよ。まあ死にたくはないけど……もう、いい気もするけどね」

「えーでも……ん、なんか言った」

「なんでもない。それよりさあ、いいじゃん、な? できるだけ『種』が地底人にならなそうなところ選ぶからさ。バーとかじゃなくて」


 鮎子の意見を頭の中で咀嚼しながら、私は想像の中で彼女たちと共に居酒屋を訪れる。着席して注文をし、最初の飲みものが運ばれてきたとき、店の奥で悲鳴があがった。座敷に座っていた中年男性が、地底人が持つ大きなスコップで上半身をマグロのタタキのようにされていた。彼は肉塊をまんべんなく叩いて丸く成型した後、おじさんだったそれに荒々しくかぶりつく。骨が砕ける乾いた音と筋肉や内臓がちぎれる水っぽい音が店内に同じタイミングで響き始めた。突発的な暴力に恐怖し、一拍遅れて人々が逃げ惑う。私たちもその中に加わって出口へと駆け出すが、すでに地底人は六人ほどに数を増やしていた。何本ものスコップが照明を反射してきらめき、中年や老人を中心として、硬く鋭い銀色が人体をえぐる。あちこちでハンバーグ状の物体が形成され、鉄錆臭さと糞尿のにおいが混じった臭気が辺りを包む。私たちも地底人にスコップで軽く殴られよろけたところを、ふくらはぎと右腕に噛みつかれた。唾液でぬらりと光っている傷口からは、ニッキ飴と牛脂が混ざったようなにおいした。枯れた叫び声やうめき声が、先ほどまで料理やお酒による幸せに満ちていた空間に染み出していく。そのころにはすでに、地底人の興味は彼が作ったミンチ人間に完全に移っていた。私たちは目にその光景を焼きつけてから視線をそらし、安堵を感じつつ店の外に出た。コンクリートと生ごみのにおいに囲まれたそこには、いつも通りの冷たくてぎらついた、夜の池袋が広がっている。


「わ、わかったよ。ただ絶対ぬれせんべいしてきてね。予防にも努めてね」

「やったあ、嬉しい」

 不安は胸の中で渦巻いていたが、正直に言うとそれよりも鮎子たちに会いたい、気晴らしをしたいという欲望のほうがまさっていた。

「じゃあ、七時くらいに池袋の西武線改札出たところね。西武の水玉の壁があるところ」

 鮎子との通話を終えると、再びSNSを開いた。数分目を離していただけなのに、もう私の知らない絶望に満ちた情報がわんさか出てくる。怒れ。もっと声をあげろ。しんどいときは離れてもいいんですよ。もっと冷静になれよ。嘘つき売国奴。○○先生の意見をもっと広めるべきです、それ以外は全部悪です。家にいよう。それだけで世界が救える。それが無理な人もいるんですよわかってるんですか。


 男のものか女のものか、若者か老人かもわからない声たちが私をさいなむ。見なければいい。見なければいいのはわかっている。でも、最新の情報や繰り返し訴えられているか細い声を聞かなくては、認識しなくては、という気持ちを消し去ることができない。それは今、私が無職という状態にいるからだろうか。点在している『当事者』というくくりの近くか、もしくは内部に立っているからだろうか。


『でもそれって、自分の首に差し迫ったギロチンだからそういう意見を支持しているだけですよね。今まであったいろんなことは対岸の火事だと思ってなにもしなかった、話題にしたこともなかったくせに』


 たまたまタイムラインに表示された言葉が私をひっかく。あまりにもタイミングがよすぎて思わず笑ってしまう。ありとあらゆる言葉が、意見が、境界を踏み越えて中に居座ろうとしてくるのを感じる。賛成も反対も中立も無関心も、すべてがすべて平等に、関係ないとでもいうような、素知らぬ顔をして。私はそれをひとつひとつあらため、手で掬おうとやっきになる。だが、それはすぐにむずむずとした気持ちへと取って代わった。布団の上に携帯を放る。ぽすっ、と気の抜けた音がした。















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