第42話【芽生えた情】
――
ラヴィは自身の頭の中で考えを巡らせた。
ノアの箱舟は彼を被験体の成功例だと言っていた。
彼らはやはり秘密裏に事を進めていたのだ。
けれど、子供はジュライによって、既に安全な場所に預けられている。
他に子供が何処かに居たのか。
それとも、研究員の誰かの身内なのか。
しかし、どうしてこれ程までエリーゼ・クロフォードと同じ翡翠色の瞳を持っているのか。
エリーゼ・クロフォードの血液や細胞がノアの箱舟にあまり残されていないことは確認済みだった。
これは屋敷に戻って来た後で分かったことだが、ラヴィが連れられた研究施設には、今まで集めていたエリーゼ・クロフォードのすべてが保管、管理されていた。
エリーゼがあの施設を跡形もなくしたのは、これ以上の研究が出来ない為だったのだと口にした。
「少ない研究材料。
例えば私の血液や細胞等では、今までの様に大きな行動は出来ない。
そしてもう一人の
尚更心臓の無い彼の方が私よりも早く消えてしまうかもしれないな……」
そう言うとエリーゼはティーカップに入る紅茶に口を付けた。
ほのかにランの様な甘い林檎の香りがした。
ラヴィと雨宮はエリーゼ・クロフォードの部屋に
世釋は今は遊び疲れてしまったのか、別室で眠りについている。
エリーゼは言葉を続けた。
「だから、あの施設の様な環境は作ることは出来ないと結論を導いた。
それと君達が彼らが来ても追い払ってくれていたからね、どうしたとしても彼らは私からは何も採ることも出来なくなったということだ」
「だけどそれはエリーゼの考察の範囲内の結果論ってことで、現状ノアの
どうなってるんだよ……」
雨宮は壁に拳をついた。
ラヴィは腕組みすると、エリーゼを一瞥した。
エリーゼは何かを考える様に人差し指の第二関節を曲げた箇所に口元を触れさせた。
雨宮はぐっと、口を噛むと、渋る様に声を出した。
「……考えたくはないけれど、可能性は一つある。
ちょっと一瞬頭に
だけど、さ」
雨宮は言葉に詰まる。
眉を寄せ、視線を一度下に落とした後、再度顔を上げると口を開いた。
「……ジュライがノアの箱舟側に就いていた可能性があるんじゃないか……とかさ。ははっ、いや、でもそんなこと言っても、この中で一番俺がジュライと先生のもとで何年も長い事過ごしてた仲で、あの人の性格もなんとなくわかる。
嘘ついたり、そんな先生を裏切るような行動するような男じゃない。
けれど、駄目だな。
一度疑っちまうと、どうも思考が止まらない。
っ、ちょっと、頭冷やしてくるわ……!」
雨宮は部屋のドアを開けようとすると、先に扉がゆっくりと開いた。
「……私はきっと今とてもタイミングが悪いときに来てしまったみたいだ。
話は……聞いていたよ。
久しぶりだね、雨宮とラヴィくん。
あと……はぁ、ふぅー……エリーゼ様」
緊張しているのか何度も深呼吸する人物を見ると、ラヴィと雨宮は驚いた様に目を見開いた。
「ジュライ……」
「ジュライさん……?」
扉の先には申し訳なさそうな顔をしたジュライが立っていた。
◇◇◇◇◇◇
「正直に言おう。
私は先生や君達を裏切ることはしていない。
今のタイミングでこんな言葉は少し疑い深い発言に聞こえるかもしれないが……断じて裏切っていないのは本当だ。
神に誓ってもいい。
此処で信仰する神が掘られたこの聖書を踏めと言われたら……踏め……っ!
踏めないかもしれない……。
踏むくらいならこの命を捧げる……そのくらいの覚悟だと思ってもらいたい」
ジュライは聖書を胸に抱くと、眉を寄せ、固く目を瞑った。
「流石に踏めとは、そこまで言いませんよ。
ジュライさんそんな泣きそうな顔する程辛いことならしなくて大丈夫ですから……」
ラヴィがそう言うと、ジュライは恐る恐るといったように薄目を開け始め、強く抱いていた聖書を持つ手の力を緩めた。
「うっ、申し訳ない。
想像しただけで神を冒涜する発言をこの汚らわしき口で発してしまったことが……聖書を持つこの手が……嗚呼……っ! 」
「……悪かったよ、一瞬でも疑った事。
すいませんでした」
雨宮はジュライに頭を下げた。
ジュライは雨宮の行動に戸惑い、同じように頭を下げた。
「疑われても仕方がないのはわかっている。
だから、雨宮は頭を下げる必要はない!
それに……私が謝ることがあるのは事実だ。
その為に急いで此処に来たんだからね」
ジュライはそう言うと、懐から木箱を取り出した。
木箱には釘が刺さっており、二か所だけ一度取られたような傷が出来ている。
「これは……?」
ラヴィは木箱を見た後、ジュライの方に視線を戻した。
雨宮からは息を吞むような声が聞こえた。
エリーゼは解かったのか、口を紡ぐとジュライの発する言葉を待っていた。
「これはビャクシンという木から作った特別製の木箱です。
この木箱を閉じるのに銀素材の釘を用意しました。
……すべて、魔物が嫌う代物です。
閉まう建物の扉には私しか持たない鍵を掛け、定期的に隠し場所は変えていました。
しかし、この木箱に入れていたものは初めから別のモノに取り換えられていたのではないかという予感が的中しましてね。
今回此処に来たのはその報告と、先程の話を聞いた後の貴方がたの見解を聞こうと思いまして……」
「……まさか、カイン・クロフォードの心臓が本来入っていた木箱だったということですか?
それが誤っていたって……それがあの子の中に入ってるとか言わないですよね……?」
ラヴィは動揺したように、声を出すと、エリーゼがふふっと笑う。
「それなら納得いく。
ノアの箱舟は只のデッドにならなかった子供だと思っていたようだけど、あの子供はダンピール。
混血の吸血鬼そのものだからな。
眷属なんて創ったことが今までなかったから、見たときは驚いたよ……」
ラヴィと雨宮はエリーゼのまだ余裕のある回答に驚きを隠せずにいると、ジュライは言葉を続けて話し出す。
「ラヴィくんの予想通りの返答しか出てきません。
これを見るのは初めてでしょう。
本来は見なくていい代物です。
……ですが、今後のことを考えて伝えなくてはいけませんね。
この木箱に入っていれば腐ることもなく、取り出されたままの状態で保管することが出来ます。
この銀の釘で外部からそして心臓と一緒に聖水に浸かしたこの十字架を入れ、内部からも蓋をしました。
どうしてその方法を取らざる負えなかったのはカイン・クロフォードの心臓を私達や、雨宮の手でも傷つけることも出来なく、封印し消滅することを待つことしか出来ませんでした。
箱は月に一度聖水で清め、封印する力を強める役目を私が担っておりました。
ですが、先日木箱から腐った様な液体が出てきました。
最初は彼の血液が何かの拍子に発生したのかと警戒していたのですが……意を決して木箱を開けましたら」
「中身が違った」
ラヴィがそう答えると、ジュライはこくりと頷いた。
「魔物の心臓なのは確かです。
少しづつ浄化されていたのでしょうね。
その中身が偽物にすり替えていた人物は判明しています。
同じ聖職者の友人だと思っていた男です。
金に目が眩んだと懺悔しました。
……同じ聖職者として恥ずかしい。
その男は首を括り自殺しているところをここに来る直前に発見し、追求はこれ以上は出来ませんでした」
「くそっ……ノアの箱舟がもう手を回してたってことかよ。
卑怯な手使いやがって……!!
ジュライ、子供達は?
子供達で誰かいなくなったとかは……?」
「あまり自宅に居たくないので頻繁に子供達がいる建物に顔を出していたので無事は確認しています。
彼らの健康状態とかも把握済みですし……保護から外れていた子供が居たとしか考えられません」
「そんな……」
ラヴィは救えていなかった子供がいたことに動揺し、壁にもたれ掛かると俯いた。
「本当に彼の体内に心臓があるのかは確認しようがないのは事実ですが今現状確信にも近いのも事実です。
雨宮はわかると思いますが、あの少年からはカイン・クロフォードのような憎悪に似た圧迫感も感じ取れない。別人なのは確かなのです。
……ノアの箱舟から渡されたのは不幸中の幸いだったと今は考えましょう。
監視といったら聞こえが悪いですが……我々で何かが起こらなかったとしても起こったとしても把握できる状況です」
「……起きませんよ」
ラヴィがぽつりと呟いた。
そしてグッと一度口をつむぐと、口を開く。
「起こさせませんよ、何も。
……もし最悪な結果になったとしても、その時は俺がすべて背負います。
その覚悟はもうありますから」
◇◇◇◇◇◇
ラヴィは屋敷の扉を開くと、勢いよく世釋が腰に抱き着いてきた。
その反動で後ろに居た雨宮にぶつかった。
「おかえりなさい!!
ラヴィ兄ちゃん! 雨宮くん!」
満面の笑顔をすると、世釋は嬉しそうにラヴィの腹辺りに顔を埋めた。
「ただいま、世釋」
「おいおい、世釋。
俺にもお兄ちゃんって言ってくれよー」
「雨宮くんは雨宮くんの方がしっくりくるんだもん!
えへへ……僕ね、皆の似顔絵描いたんだぁー見て見て!」
「へぇ、すごいね。見せて」
世釋は離れると、手に持っていた絵が描かれた紙を両手で開いて見せた。
ラヴィはしゃがむと、世釋の絵をじっくりみる。
色々な色を使ってラヴィや雨宮、そしてエリーゼと世釋が描かれていた。
「よく描けてるじゃん!
あれ? 俺なんか髭描かれてない?
駄目だろ世釋! 追加しちゃぁ~」
「雨宮くん、これ皺だよ?
エリーゼがね、教えてくれた!」
「まじか……皺を気にする歳に俺はもうなってしまったのか!
ってまだピチピチの二○代の肌じゃい!!
年齢的にギリギリかもしれないけどまだ早いわ!」
「えへへー」
雨宮は世釋を追いかけると、世釋は楽しそうに廊下を駆けていった。
その後ノアの箱舟にあるカイン・クロフォードの亡骸は動くこともなく、血液を体内に入れても排出されるばかりで、ノアの箱舟の研究者は頭を抱えていたのをラヴィ達はこの目で確認することができ、しかしまた何をするか今まで以上に分からない為、頻繁に足を運ぶようになった。
最初は協力をする気になってくれたのかと歓迎されたが、そうではないと分かった今では研究員達はラヴィ達の姿を見るだけで怯えたような戸惑ったような表情をする。
きっと薄々彼らも自分たちのやっていることに疑問を抱き始めており、現在でも行っている行為をラヴィ達にいつどんな強行手段を取られるのか気が気ではないのだろう。
世釋に関しても大きな変化もなく、普通に何も変哲の無い年相応の少年のまま過ごしている。
ラヴィと雨宮のことを兄と慕い、笑顔も口数も多くなった。
ラヴィも雨宮、エリーゼの様に世釋のことも自分自身の中で大切な一人だと思い始めた。
だから、前とは違い決意が揺らぐときがある。
そんなときは先生から受け継いだ腰に添えた刀をラヴィは触れる様にしていた。
そして世釋はやはり人間とは違い、食糧は出される食事の固形物とは別に少量の血液が必要だった。
それも只の血液ではなく、エリーゼから流れる血液ではないといけなくなり、輸血パックに入れられた血液は拒絶するようになった。
「ラヴィ兄ちゃーーーん!!」
世釋に呼びかけられ、ラヴィは前を見た。
屋敷の中庭の中で一番樹齢が長い大きな木の下で、椅子が数席並べられており、テーブルの上には焼き菓子が置かれたティースタンド、そしてティーカップ、ティーポットが置かれている。
世釋はラヴィに大きく手を振るう。
エリーゼもティーカップを片手に持ち、微笑んでいた。
「ラヴィ!!
今回はすげぇー高そうな菓子があるぞー!!
早く来ないと全部食うからなぁー!」
雨宮も焼き菓子を頬張りながら、ラヴィを急かした。
◇◇◇◇◇◇
ラヴィは扉を二回ノックすると、扉を開けた。
扉の先にはベッドに腰かけ、読書をしているエリーゼがいた。
エリーゼは本に落としていた視線をラヴィに向けると、微笑んだ。
世釋とは真逆の様にエリーゼは血を飲むことも減って来た。
むしろ、食事を取らなくなってきた。
元々肌が白かったのだが、今では青白い肌をしている。
「世釋のこと深く考えても無駄だよ。
只、私の血液の方が惹かれるだけだろう。
人間の赤ん坊の様に母乳が恋しい感情と近いんじゃないか?
それに、その方が無駄に輸血パックの在庫を減らさなくていいと考えた方が楽だろう」
「……むしろ、エリーゼの摂取する量が日に日に減っているから、そんな在庫とか心配しなくていい」
居ても立っても居られずにラヴィが少し前にエリーゼの腹の中になんでもいいからと栄養になるものをと思い、パンをふやかした粥を持っていくことがあった。
しかし、エリーゼはスプーン一杯の粥だけ食べただけだった。
死期が近い。
エリーゼ・クロフォードのいう消滅が刻一刻と近付いてきているのだろう。
「なぁ、前に自分勝手なハッピーエンド……エリーゼ・クロフォードのすべてを終われるってあのとき言ってたよね?
まるで、ずっと消滅することを望んでたみたいに聞こえたんだけど……」
ラヴィはどうして突然そんなことをエリーゼに聞いたのか、言葉が出た後に気づいた。
エリーゼはラヴィの問いに少し俯くと、先程まで読んでいた本を閉じると、口を開いた。
「私は長命じゃないが何千何百年の間、ずっと生きている。
肉体は朽ちる前に、新しい肉体を作り魂を移すことで生き永らえているだけの只の化物だと、言ったでしょう?
新しい肉体ってのは、何でもいいわけではなくて……生きている生物と同様に生殖活動をした結果作り出した云わば自分自身の子供の肉体ってこと。
生まれてきた子供の意思も自我も何もかも無視して、新しい只のエリーゼ・クロフォードの肉体として成り代わらすだけだった。
それに疑問も感じたこともない当たり前のことで、無頓着、無関心の抜け殻のまま生き続けることを繰り返すだけ。
そうしてずっとエリーゼ・クロフォードとして君臨してきた。
今はそれはとても残酷なことなのかもしれなかったとは思えるようになったわ。
……私は今のエリーゼ・クロフォードのまま、この世界からいなくなりたい。
そう、思い始めて……あぁ、これは私の私だけの、私が望んでいたハッピーエンドなんだって。
只、それだけ。
ほら、自分勝手でしょう?」
本の上に置いていたエリーゼの手が震えており、ラヴィは震えている手の上に自身の手を包み込む様に置いた。
微かな震えは少しずつ弱まっていくと、エリーゼの吐息がラヴィの耳元で聞こえた気がした。
ラヴィは手元に落としていた視線をエリーゼの方にゆっくりと向けた。
エリーゼはラヴィに潤んだ瞳を向けていた。
「……これはお願いだけど、残り少ないこの時を最後までラヴィ、君に側にいて欲しいなっと思い始めたんだ。
看取って欲しいんだ……君に」
エリーゼはそう言うと、寂しそうなだけれども嬉しそうな顔をした。
「……どこか行ってみたいところ、何かして欲しい事、してみたいことある?
出来るだけ、叶えるよ。
それで、言われなくても最後の時まで貴女の側に居ますよ」
ラヴィはエリーゼの手をもう一度強く握ると、微笑んだ。
一緒に過ごしている時間のせいだったのか否、既に運命の引き合わせだったのか。
それは今になってもラヴィは解らない。
けれど、心の底から愛おしいと恋しいと想う気持ちが生まれ、合わせた唇の熱さに溶ける感覚はそのとき芽生えたラヴィの初めての感情そのものだった。
その日々は刻一刻と壊れ始めているのを、今のラヴィ達は知らずにいた。
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