第40話【ノアの箱舟】


「おや、君は確かアンダーグレイくんでしたか? 」


 先生と雨宮達が屋敷から出掛けていった二日後、ラヴィはエリーゼの身の周りの世話を終え、片手間にと使用人達に自ら頼み、木の剪定を手伝っていた。

 声を掛けられ、手を止めると三脚の上から声の主の方に顔を向けた。


「すいません、今降りますのでお待ちください」


 ラヴィに声を掛けた老人は少し白髪が混じった長い顎髭を携え、杖を持つ手には綺麗なシルクの手袋をしていた。

 両脇には白衣を纏った人物が三人ほど立っていた。

 ラヴィは老人の顔に覚えがあった。

 確かこの老人は先生達の雇い主であり、この屋敷の主人である。

 あまりこの屋敷には戻らず、少し遠い別宅に住んでいると聞いていた。

 数回程この屋敷に来たところを見かけたことがあるが、先生が対応していた為に言葉を交わしたのはこれが初めてだった。

 周りにいる白衣の人物達はノアの箱舟の人物だろうとラヴィは推測した。

 ラヴィが地面に足を付けたのを確認すると、老人はラヴィに向かってにこやかな顔をし、口を開いた。


「早速で申し訳ないが、私共と一緒に来てもらえないだろうか?」

「えっ、いつもの彼女エリーゼの定期検査ですか?

先生から聞いてますので、同行等は大丈夫ですが……すいません、剪定をしていたもので道具を片付けてからでいいでしょうか?」


 老人は感心したかのように目を大きくすると、頷きながらラヴィが先程剪定していた木を見る。


「ほぉ、木の剪定をしてくれたのですか、ありがとうございます。

ですが、道具は使用人に片付けさせるからそのままにしておいていいでしょう」

「……はぁ」


 ラヴィは使用人の方達にすべて片付けてもらうのが少し申し訳ない気がしたが、家主が言うのならこれ以上は何も言えなかった。

 屋敷から使用人やメイド達が向かってきている姿が見えた。


「では、エリーゼを呼んできます」

「エリーゼ・クロフォードはもうこちらの人間が先に呼びかけ、すでに移動していますよ」


 ラヴィの言葉を遮るように、老人はそう言うとにこりとほほ笑んだ。


「事情が少し早まりましてね、アンダーグレイくんにも私共ノアの箱舟の協力をして頂きたいのですよ」

「協力ですか……」


 先生からは同行するだけでいいと念を押されていた為、どう返答すべきか口ごもっていると、老人は言葉を続ける。


「貴方が慕う彼には私が伝えておきますので、ご安心ください。

一緒に来てくれますよね、アンダーグレイくん」

「わかりました」


 老人はメイドの一人にも同様に声を掛け、ラヴィと同じく馬車に乗せられる。

 馬車が動き出すと、隣に座っているメイドがラヴィの服の裾を軽く引っ張った。


「どうしました?」

「はじめまして……私、アイシアと言います。

こちらの屋敷に就いたばかりの新参者でこういった同行というのが初めてでして……」


 彼女は不安そうに眉を下げると、苦笑いした。

 アイシアは腰上まで伸びた髪を一括りに横に纏めており、少し大人びた容姿をしていた。

 薄い黄色みがかった髪色にラヴィは胸の辺りがチクりと痛んだが、どうしてなのかそのときのラヴィにはわからなかった。


「私、実は昔ご主人様に助けて頂いたのです。

なので、この屋敷にメイドとして勤めることになって……本当に嬉しくて!

まぁ、まだまだミスばかりしてしまってメイド長さんに怒られてしまうことはあるんですが……」


 アイシアは照れくさそうに自分のことを話し、それをラヴィは相槌を打ちながら聞いた。

 はじめて会ったにも関わらずこんなにも話に花が咲くとは思わず、馬車が停まり、目的地に着く頃には外が薄暗くなっていたことをラヴィはそれまで気づかずにいた。

 馬車の扉が開くと、白衣の人物数人に迎えられた。


「教授はすでに建物内にいますので、ここからは私共がご案内します。

ラヴィ・アンダーグレイ様はこちらへ」


 アイシアの方には女性の一人が近づき、ラヴィとは違う場所に案内されているようだった。

 建物内は白い壁に白い床。

 扉も白色なのでとても殺風景に見えた。

 長く続く廊下の奥には同様に白い大きな扉があり、取っ手箇所が少し薄汚れて見えるのは出入りが激しく、何人もの手垢によって汚れているのだろうと窺えた。


「……あぁ、あれは忙しいせいか中々時間がありませんで。

汚いところを見せてしまったね。

拭いてはいるんですが……」


 ラヴィの視線の先の意図に気づいたのか、白衣の男の一人が困ったように笑いながらそう答えた。

 カチャリと扉が開く音がすると、ラヴィは部屋に案内され、ここで少し待っておいて欲しいと言われた。

 部屋の中は椅子とテーブルがあり、テーブルの上にはキャンディーやチョコレートが入った箱と、透明なビニールパックが置かれていた。

 ビニールパックの中には透明な液体が入っている。 

 中身は只の水のようで、口の部分があってここから飲むことができるようだったが、ラヴィは口にするのは止めた。


「ここで待ってると言っても……エリーゼはどこに居るんだ?」


 ラヴィは箱から包み紙を開くと、チョコレートを一粒出した。


「毒が入ってたりしてな。

昔は毎日疑ってたなぁー……子供はチョコレートとキャンディー好きとか、単純でどうしようもない」


 チョコレートを口に含むと、中で転がす。

 じわりと溶けていき、口の中に甘さが広がる。


「今は甘ったるくて不味い。

ビターはないのか……」


 扉が開く音がすると、先程とは違う白衣の男が現れる。

 片手にペンとカルテらしいものを持っていた。

 男は椅子を持ってくると、ラヴィの向かいに座る。


「簡単な質問をするから、答えてくれると嬉しい。

これはこの建物に入った全員に初めは聞いていることなんだ」


 ラヴィはこくりと頷くと、男は話を続ける。


「健康状態は近日中に気怠さや、具合が悪かったことはなかったかい? 」

「いえ、特に不調はないです」

「そう。

服を捲ってもらっていいかな?」


 男は聴診器を取り出すと、ラヴィの胸と背中に当てる。

 そして、次にラヴィに口を大きく開けるよう言い、舌圧子や歯鏡で喉の奥や、歯を見られる。


「目を見せてもらうね」


 目の下を指で触れられ、軽く下に引っ張られる。


「あの……これって何の意味があるんですか?」


 ラヴィがそう言うと、男は薄く笑った。


「言っただろう?

この建物に入った全員にやっていることなんだ。

血液検査もしたいところだけど、今回は必要はないと言われているからこれで終わりだよ」


 男の一言にラヴィは疑問を抱いた。

 今回は必要ないということは前に来た人物達は行ったということであり、行わない理由が特別にあるということだ。

 ラヴィは立ち上がると、足元がふらつく。


「安易に口にするもんじゃない。

昔からその手のものは含んでいたから耐性が出来てると思ったけど……それとも空気内に何か薬品を含ませているんですか?」

「……流石ですね。

後者の方ですよ。

少し吸った私でも眩暈がするのに……君は長時間居たのに今効果が出るのか?」


 男はそう言うと、気絶したように倒れた。


「この手の薬品にも少し耐性があったのかもしれないです。

建物に入ったときから少しおかしいと思ったんですよ。

その作ったような表情と声色。

昔からそんな大人ばかり見てたからね」


 ラヴィはふらつきながらも部屋の外に出て、壁づたいに歩き出すと、建物の出口方向に向かう。


「アイシアは無事だろうか……」


 ラヴィと同じようなことになっていたとしたら、気絶した彼女を大人達はどこに運ぶのかラヴィは考えを巡らせた。


「……先に来ていると言っていたエリーゼは本当に此処に居るのか?

先生の不在時を狙ってたっとか?

何の為に?」

「ラヴィ・アンダーグレイ様。

何処に行くのですか?」


 後ろからそう声がすると、首元に注射器の針を刺され、何かを入れられる。

 ラヴィを部屋まで案内してくれた男だった。


「まさか眠っていないなんて……それも歩けるだけの体力も残っているとは。

あんたの調合した薬をすぐに使うべきだったよ」

「嫌だなぁ旦那さん。

僕は只の研修医なだけで、この薬もほんまは旦那さんの様な先輩差し置いて出すつもりひんかったですわ。

せやけど旦那さんがつこぉてくれるなんて、僕、嬉しい!」

「君の言葉の言い回しは独特で時々解らないが、今の言葉は少し意味がわかった気がするよ」

「独特ですぅ?

僕も最近習得したばかりやから慣れてませんけど、おもろいやろ?

さて、この男の子どうします?」

「私が運ぼう。

あんたはここまでだ、これ以上は研修医には踏み込むことじゃないと教授も言うだろうから」

「あらま、残念!

この扉の先が一番興味あるのに。

やけど、こんな知識浅そうな人間呑み込んでも僕の得になれへんしぃ……せやけど気になってしゃあないしなぁ~……しゃあない殺そ」


 研修医の男はそう言うと、メスを取り出し、男の首をなぞった。

 メスでは切れそうにないのに、男の首は綺麗に床に転がった。


 首のない男の脇を抱え、持ち上げると、研修医の男は近くの部屋の扉のノブに手をかけた。


「さてさて、この死体はこの部屋に放り込んでおいて……あの扉の鍵は~……あ、あったあった!

ポケットに無造作に入れてたら、いつか落としてまうぞ!

なーんて、死体さんに言うてもしゃあないけど。

あ、君ー? まだ意識ありそうね。

麻痺してるだけやから、ちょっと時間経てば動けるようになるよー。

それまで僕がお姫様だっこしてあげるから心配ないよう!

君が探してる女の子も吸血鬼のお姉ちゃんも扉の奥におると思うでー」


 研修医の男はそう言うと、ラヴィを抱き抱える。

 顔が近くまでよると、研修医の顔がよく見えた。

 猫ッ毛の様な黒髪に、八重歯。

 しかし、細い目の奥は冷たい暗闇が広がっていた。

 ラヴィは感じたことのない悪寒を感じる。


「僕な、なんでも知りたいし、学びたいし、興味が絶えなくてさ。

せやから、此処でようさんの人間が隠れて行っとることにも興味湧いて、わざわざ研修医になったのに、あかんなんて酷いと思えへん?

君も知りたない?


 研修医は鍵を開けると、扉が開く。

 すると、扉の奥から獣の叫び声が聞こえた。

 キーボードを打つ音、大人たちの話し声。

 そして血の匂いと糞尿の匂い。

 ラヴィはガラス張りになっている壁の方に視線を向けた。

 そこには動物の形を保っていないような黒い塊があった。


「やはり、駄目です。

何度やっても暴走して、息絶えてしまいます」

「動物でもまだ成功例がないのに……子供なんて尚更成功していないではないですか!

皆、リビングデッドになってしまう……あんな苦しそうな動物や子供……見ていられません!!」


 女性の研究員は眉を下げると、震えながら拳を握った。


「では、君が代わりになると?」


 女性の目の前で不服そうな顔をしながら、男はそう言うと溜息を吐いた。


「それはっ! ……すいません」

「でも進歩だ。多く投与すればあの様に原型をとどめないことが分かった。

少なければ錯乱して使い物にならなくなり、デッドになるだけだ。

それなら、試してみる価値はある。

丁度、男女両者の被験体も用意出来た」

「ですが、男女の被験体なら過去にも……」

「血液の型が女の方がI群だ。

珍しく発見できたことは奇跡だ。

試してみる価値はある。

男の方が普通の型だが、あの悪魔祓いが特別に引き取った少年だ。

何かあるに違いない……」


 白衣を着た研究員達がそれぞれ述べているようだった。

 きっと彼らが話している被験体はラヴィとアイシアだろう。

 アイシアの身の危険が迫っていることが分かり、ラヴィは研修医の胸の辺りを強く両手で押した。


「こらこら、万全やないのに何処行こかとしとんの?

大丈夫、すぐに君の事引き渡そかとせぇへんよ。

まぁ、見つからへん様にじっとしててよ」

「……貴方、誰なんだ?

なんで、あの男殺したんだ」

「嘘!

もう話せるん?

君すっごいなぁー!

僕の調合した薬成人男性でも数時間もなんも動けへん計算で作ったのに。

僕はここでは只の研修医の1人やから、それだけの認識でええよ。

せやね、君とはちゃう人種ってだけは言えるわぁ。

せやな……吸血鬼のお姉ちゃんに近いのかな?

わからへんけど、悪魔ってどこの分類に入るん?

腹ペコちゃんに聞ったらよかったなぁ……。

あ、腹ペコちゃんっていうのはあっちで友達になった子で怒ると蠅みたいな姿になって、強くて強うて……本当敵わんの。

僕ぅ話脱線しとんな、無口やったんやけど最近喋るの好きになっちゃって!

すまんな~、あの男殺したのは、なんやろ? 虫潰した感覚でパァンって感じ?

あんま深く考えてへんかったわ」


 研修医はひとしきりしゃべると、満足そうに笑顔になった。


「……止めないと」

「何を止めるわけ?

むしろ下手に動くよりも事が行われようとしとるなら、その事柄を把握してからの方がええんちゃう?

ほら、始まったとちゃう?」


 研修医の視線の先を追い、ラヴィは首を動かし視線を斜め下方向に向けた。

 ガラス張りの先には隔離された部屋が中央にあり、その周りには白衣を着た人達がいた。

 中にはパソコン画面を見ている人物や、隔離された部屋を見ているものもいた。

 中央にそびえ立つ部屋もガラス張りになっており、エリーゼ・クロフォードが居た。


「エリーゼ……」


 彼女の表情はラヴィの場所からは見えづらく、窺えない。

 続いて視界の端から車椅子に座らされたアイシアが現れた。

 眠っているのか瞼を閉じ、車椅子に身を任していた。


「……やっぱり、止めないと」


 ラヴィは足や腕を力いっぱいバタつかせると、研修医の腕から離れることが成功した。

 そして近くに放置されていた点滴スタンドを手に取り、ガラスに叩きつけた。

 ガラスは割れると、悲鳴や驚いた声が聞こえた。


「大人しくしてればいいのに……大胆やなぁ。

さて、僕の顔知れへん人らもちらほらいるし、バレたらやばいなぁ。

しゃあない、ここは帰った方がいいな。

……おもろいもの見れるかと思ったのに台無しやわ。

君、どないすんの?

そんな小柄であないな人数の人間に太刀打ちできるん?

僕知らんからね、ほなね」


 研修医はそう言うと、いつのまにか姿を消していた。

 ラヴィは白衣の男の一人の背に向かって飛び降りた。


「ぐっ!」


 背を踏み台にすると、床に着地する。

 踏み台にされた男は痛そうに背中を擦った。

 ガラスの大きめの破片を手に取ると、ある人物の後ろに回り込み、喉首に当てた。


「どういうことなのか、答えてくれませんか? 」


 ラヴィ達二人を連れてきたあの屋敷の主人である老人だった。

 周りの研究員の表情から察するに、彼がこの研究室の責任者。

 研究員の男が言っていたなのだろう。


「アンダーグレイくん、これには少し事情があるんだ。

怪我をするだろう?

破片を捨てなさい……!」

「答えてください。

このまま切ることも可能です。

正式な刃物ではないので浅いかもしれませんが、痛みに長く耐えて出血多量でショック死です。

喉首を切るのは慣れているので躊躇はしませんよ?

わかったら、唾を一度呑み込んでください」


 老人はごくりと一度唾を飲み込むと、ラヴィは少し喉首からガラスを離した。


「貴方達も近付かず、その場から動かないでください。

動けばこの方の骨を一本ずつ折ります」

「何馬鹿なこと言ってるんだ、子供一人くらい……!」


 背中を擦っていた男が近づくと、ラヴィは老人の右手の親指以外を折った。


「っ!

ぐぅ……」

「本当に折ったのかよ……」


 男は歩んだ分と同じ分だけ後ずさりした。


「っ……分かった話そう、アンダーグレイくん。

でも、実際に見てもらった方がいい。

そろそろ効果が出る頃なんだ……!

だから、危険だから彼女だけでもエリーゼ・クロフォードが居る部屋に入れたい……っ」


 ラヴィの背からアイシアの苦しそうなうめき声が聞こえる。


「うっ、ぐっ……!

痛い、いたい……!

苦しい……っ!!」


 アイシアは車椅子から崩れ落ちると、這う。


「早く、隔離を!!

やはり彼女も失敗です!!」


 研究員の一人がそう言うと、他の研究員も慌てる様子をみせた。


「いや、違う。

ほら、少しずつ落ち着いてきたようだ苦しそうにしているが体にリビングデッドのような異変も確認できない!」


 老人はそう言うと、アイシアの方に歩み寄ろうとする。

 ラヴィは目の前で起こっていることに動揺し、ガラスの破片を落としてしまい、次の瞬間数人の手がラヴィを拘束しようと伸ばされる。


「やめろ、ラヴィに触るな」


 エリーゼの声がすると、いつのまにかラヴィの隣に立っていた。


「エリーゼ……?」

「ラヴィ。

何も聞かず、私についてきてくれ」


 エリーゼはそういうとラヴィの手を引き、先程までエリーゼが入っていた部屋に誘導する。

 ラヴィが入るのを確認すると、エリーゼは鍵を閉めた。


 そこからは一瞬の出来事だった。

 アイシアの背から無数の手が現れ、次々とその場にいた人達が襲われ、血の海になる。

 アイシアは俯いていたが、顔を上げるとラヴィ達の方に向く。

 両目からは血が流れ、口は頬まで裂けている。


「なんだよこれ……!」


 アイシアはラヴィ達の方に歩み寄ってくると、血で濡れた手でガラスが揺れるくらいの力で何度も叩く。


「そう簡単に蹴破れないよ。

元は彼女の様なデッドを入れておくよう改良してあるガラス部屋なのだから……ラヴィ、すまない。

君を巻き込んだ。

まさか、あの男がこんな強行手段を取るなんて、予知できなかったんだ」

「アイシアは……彼女はどうしたんだよ。

リビングデッドってなんだよ!

ここで何が行われてたんだよ……っ!

答えてくれエリーゼ……!」


 エリーゼは口元を緩めると、ガラスの向こう側にいるアイシアの方に人差し指と中指を向けた。


「人は愚かだな。

自ら行っている行為を美化し、正当化しようとする。

善意だと疑わず、思い込み、綺麗ごとの様に造る思考に醜さを抱くよ。

この処女アイシアも本当はこんなことの為に生を受けたのではないのにな」


 エリーゼはガラスを指でなぞると、赤黒い色をした刃物がアイシアの身体に無数に刺さる。

 刃物は降ってくるようにアイシアの頭上に落ちていくと、みるみる内にアイシアの原型が無くなっていく。

 ラヴィはその光景に声を発せられず、後退りすると尻をついた。

 刃物の動きが止むと、エリーゼはラヴィをゆっくりと起き上がらせた。


「……死なない兵士、人知を超えた肉体の変化。

病やウイルスを抹消する薬、朽ちることのない身体。

私には理解し難いけれどそれは誰でも欲しいと一度は抱く願望らしい。

ノアの箱舟は、私エリーゼ・クロフォードの血と肉のすべてを使い、神の真似事の様に新人類を作ろうしているらしい」

「……」


 エリーゼはラヴィの手を引くと、部屋の外に出る。

 そしてラヴィの手を握ったまま、軽い足取りで進んでいく。


「他のノアの箱舟の者達は異変を感じてもうこの場からは立ち去っているだろうな……

きっと立ち去った人間達でまた新しく場所を作って立て直すでしょう。

すぐにはここまでの施設は作れないだろうから、大きな動きはまだ起きないと思う。

あの屋敷の主人は亡くなったけれど、所有者はノアの箱舟だろうから壊されることはないよ。

ほら、彼らが帰ってきたら迎えてあげないといけないだろう? 」

「……でも、いつかは同じようなことが起こる」


 ラヴィは歩みを止める。

 エリーゼは悲しそうにほほ笑み、振り向くとラヴィを抱きしめた。


「…帰ろう、ラヴィ。

ごめんなさい、巻きこんでしまって」

「先生は……あの人は知ってたの?

知っていて、黙ってたのか……? 」


 エリーゼはラヴィから離れると、包み込む様にラヴィの両頬に触れる。

 ラヴィは頬に触れられた手に自身の手を添えた。


「君に隠してたわけでもなく、話さなかったわけじゃないよ。

多分だけどまだ話すときじゃないとでも考えていたんじゃないかな……。

もう、こうなった以上は仕方がないのかもしれないけれどね。

彼はノアの箱舟に雇われているのは事実だけど、このノアの箱舟の計画には否定的なのは間違いない。

……従うフリをしているのは彼の大切なものを天秤にかけられているからでしょうね。

彼らが今追っているのはもう一人の純血の吸血鬼カイン・クロフォードを捕らえる為」

「もう一人の純血吸血鬼カイン・クロフォード……」

「〖明暗〗〖陰陽〗〖両儀〗〖コインの裏表〗互いに対立し依存し合う存在。

この地に来てからは退屈で色々な本を読み漁って、当てはめてみた。

元々概念が無かったから、只の分かり易い例えだけれどね。

ノアの箱舟の考えは変わらず、カイン・クロフォードの血なら私以上の成果を生み出せると想定していた。

でも、そう簡単にはいかないでしょう。

だから、もう安心していいよ。君らは」

「何を安心していいの?

……もう、意味がわからない」

「前も言ったけれど、君が想像しているように吸血鬼は長命じゃない。

等しく死は訪れる。

私は朽ちる前に新しい肉体に移り替えて生き永らえてきた只の化物なんだ。

だから、このままならもう消滅を待つだけ。

ノアの箱舟はこのことを知らない。

言う必要もないから言わないだけだけれど。

ラヴィ、私にとってはこれは自分勝手なハッピーエンドなんだ。

君らに会って、やっとエリーゼ・クロフォードのすべてを」


 エリーゼはにこりと笑い、頬から手を離した。

 そしてラヴィの手を握り直すと、出口へ進んでいく。

 外に出て少し経った頃、後ろから建物が大きな音をたて、崩れる音がした。

 ラヴィは振り向かず、歩みを進めた。

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