第36話【非力で、無能で、惨めで】

「カイン・クロフォード。 随分と懐かしい響きだね」


世釋はそう言うと、笑った。


「少し訂正させてもらうけど、世釋もカイン・クロフォードも同じ存在であり、

個人として分類する様な言い方をしないでよ。

僕は只、古い肉体を新しい肉体にだけであって、僕自身に何ら変わりないよ。

君達とエリーゼとあの狭い鳥籠の様な楽園の中で過ごしたあの日々は今の僕にとっても素晴らしい記憶の一つだよ」

「……違う。

あの場所で時間を共に過ごした世釋はお前じゃない。

俺は……お前の存在を否定する。

否定し続ける……っ」


ラヴィは少し声を荒げると、唇を強く噛んだ。

世釋は呆れたように肩を竦める仕草をした。


「そう、思いたいだけでしょう?

認めれば今の夕凪を君はしなくてはいけないからね。

……君は前と違って牙が削られた獣の様になってしまったみたいだね。

まぁ、その原因の要因については検討がついているけれど……」


世釋は郁の方に視線を向けると、クスッと笑った。


というモノは本当に厄介だよね。

与えてもらった情を他の者にも同じ様に与えるなんて……そんなの真似事の様なことを君がしていると思うと、失笑せざるを得ないね。

仄暗い場所で皮と骨だけの身体を血で染めあげていた昔の君の方が僕は

「………」


 一層唇を固く閉じ、眉根に皺を深く刻むラヴィを見て、世釋は歪んだ様な笑いを頬に浮かべた。


「ふふっ、言い返す言葉も浮かばないかい?

僕は今でもどうしてエリーゼは僕ではなく、君を選んだのか。

それが理解できない。

……でもそれはもう疑問にも思うことも考えることさえ今後はないだろう。

君を今度こそ僕らの中から抹消すれば良いのだから」


 郁はピリッと世釋の纏う空気が変わった気がし、額に汗が滲んだ。

 ラヴィはすでに弦を離しており、赤黒い矢が放たれる。

 矢は軌道途中で分裂する。

 細かい矢が四方八方に分かれると、世釋に向かって猛スピードで向かっていく。

 大きな音と、矢によって床が削られて舞い上がった破片の煙によって、世釋の姿が見えなくなる。


「まだだ」


 ラヴィはそう呟くと、頭上に弓を向ける。

 ラヴィの手の平から出た紅い塊はボコボコと音をたて、弓の中に融合すると、先程と比べ物にならないくらいの大きさになり、槍の様な太さになった矢が形成される。


「逃げ場なんて与えないよ。

降りしきる雨の様に大量の矢に打たれて息絶えてくれ。

……ごめん、夕凪」

「……っ、ラヴィさん! 」


 一瞬聞こえた小さなラヴィの声に郁は咄嗟に反応すると、手を伸ばす。

 しかし、矢は放たれると土砂降りの雨が降ったかの様に視界が赤一色に染まる。


「っごほごほっ……!!!」


 郁はラヴィの何かが混じった様な咳き込む声が聞こえた。


「いや、焦った。

すごいね、ラヴィ・アンダーグレイ。

当たっていれば一溜りもなかったよ。

まぁ、僕には無意味だけどね」


 郁の視界に映ったのは、ラヴィの放った矢の赤ではなく、世釋の持つ刀によって斬られた自身の傷口から噴き出した血だった。


「熱っ……!

やっぱり僕が握るとこうなっちゃうか。

すぐ直るけどね」


 世釋は刀から手を離すと、焼けて爛れた手の平はみるみる内に修復する。

 その刀には見覚えがあった。

 夕凪がいつも持っている刀だった。


「流石。

対吸血鬼用に開発された武器だよ。

吸血鬼の血を含んだリビングデッドなんて一溜まりもないのが窺えるよ。

他の僕に挑んできた退魔師達の武器より切れ味の威力が違う。

……こんなの振り回してたあの男の方が僕は化物だと思うけどね。

斬られた傷口は焼かれたみたいに痛いでしょう?

混血なら倍以上に直りが遅いから」


 崩れる様に郁は倒れると、声も発せられない程の激痛が襲いかかる。

 流れる血液の温かさ等感じることもなく、指の先から段々と感覚を失っていく様な感覚に陥る。

 瞼が重くなり、視界が揺らぐ。

 世釋は倒れた郁を尻目に、ラヴィの方に近付いていく。


「君はやっぱりしぶといなぁ。

まだ立っていられる程の力が残ってるなんて。

でも……抵抗は出来ないようだね」


 世釋はラヴィの手首を握ると、ボキッと音を立て、骨が砕ける音がした。

 そして震えながら何とか立っていたラヴィの左膝を思いっ切り蹴り上げると、手首と同様鈍い音がした。


「っぐ……!」


 体勢が崩れたラヴィを世釋は抱擁すると、ラヴィの首筋に牙を立てる。


「じゃあ、返してもらうね。

君の中にある僕らの血も。

只の人間風情が僕らと対等な存在になることは許さないからね」


 世釋はそういうと、ラヴィの血を啜り出す。

 郁はそれを只、聞いていることしか出来なかった。



――― 指一つも動かすことが出来ない。無力だ。

あのときと変わらず、俺は何をすることも出来ず、近くにいる人さえも救うことも出来ず、地面に這いつくばって、後悔することしか出来ない。

非力で、無能で、惨めで……



  








「君は無力でも非力でも無能でもない。

惨めなんて言わないで。

そんな言葉で自分自身を貶め様としないでくれよ」


 そう声が聞こえた気がして、郁は声のする方に視線をゆっくりと向けた。


「君はイレギュラーな存在だ。

誰も予想だにしなかった、事実私自身も信じられなかった。

でも君が必然に現れたことで結末の方向が変わったと私は確信しているよ」


 小さな手が郁の頬に触れると、優しくほほ笑む金色の髪の少女の顔が現れた。


 「っ?」


 郁は驚きのあまり、喉が塞がった様に言葉が出てこない。

 すると銃声の音が郁の鼓膜を揺らすと、弾丸が夕凪を貫いていた。

 世釋はそれに驚くと、ラヴィの首筋から口を離した。

 次の瞬間、世釋の額に弾丸が撃ち込まれ、その威力によって世釋は後退した。

 ジャリっと倒れている郁の耳元近くで靴が擦れる音がすると、腕を掴まれ、起き上がらされる。


「……えん、まさん?」


 先程までぼやけていた視界が少しずつ鮮明になっていくと、眉間に皺を寄せ、心配そうに郁の様子を見つめる猿間が居た。


「……状況は今でも理解出来てないが、随分無茶してたのは見なくても分かるよ郁。

それにしてもお前、見た目幼くなったな……」


 猿間は苦笑いすると、郁の腕を自身の肩に回し、支える。


「……どういうことだ?」


 世釋は今、目の前で起こっている状況に驚き、目を見開く。

 先程まで郁の頬に触れていた少女はラヴィに駆け寄ると、自身の膝にラヴィの頭を乗せた。

 ラヴィは薄っすらと目を開けると、大粒の涙を流した。


「……君は本当に頑張りすぎだよ。

こんなボロボロになって……でも、をここまで育てたのは偉かったね。

ありがとうラヴィ」

「……っ、エリーゼ。

ごめん、守れなくて……側にいてあげれなくて悪かった」

「何故謝る?

悪い事なんて君はしていないじゃないか」


 少女はラヴィに笑いかけると、ゆっくりとラヴィの頭を地面に置いた。

 そして立ち上がり、世釋を見た。


「やぁ、私の半身、鏡合わせの私自身。

久しいね、カイン・クロフォード。

そんなに驚いた顔をしないでよ。

心配しなくてもはそちらの彼女で間違いないよ。

抜け殻の様で無頓着、無表情、無関心。

君と何千年ものあいだ側に居たエリーゼ・クロフォードに相違ないのは彼女だ。

君の長年の念願が達成されたんだろう? 

それに関してはおめでとう、というべきだね。

こんな小さな手では表せないくらい大きな拍手を与えたいが、は駄目だ。

返してもらいたい。

この子は私達の愛しい可愛い我が子なのだ。

君のその薄汚れた欲に巻き込まないでくれたまえ。

これは君の半身、エリーゼ・クロフォードの最後の頼みなのだから」


 少女は仰々しく言葉を述べると、背筋を伸ばしたまま片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足は軽く膝を曲げると、両手で少し破れて自身の血が付いているドレスの裾を軽く持ち上げ、お辞儀した。


「……私が現れたことで結末は変わらないのだけど。

君にはこの状況を打開するべく運命を捻じ曲げてもらいましょう。

戻れるのは一度きりなので、しっかり正しい選択を。

私は君に申し訳ないなんて思わないよ。イレギュラーの君に会えてよかったよ」

「……?」


 少女のその言葉に郁は首を傾げる。

 猿間は懐から懐中時計を取り出すと、少女に投げる。

 少女は懐中時計を受け取り、ゼンマイを巻いた。

 ゼンマイは錆びているのか、歯車がズレて軋む音が時折響いた。

 そして、ガチャリと歯車が合わさる音がすると、郁の目の前に黒い闇の様な空間が現れる。

 郁は猿間によって、その空間に放り込まれた。


「え……っ?」

 

 猿間は世釋によって首を斬られるまで、闇の底へ落ちていく郁を見つめていた。


「悪いが頼むわ。郁」

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