第3話 夏

 夏の終わり、ミホは夜が明ける前に目が覚めた。

 窓を開けて外を見ると、あの三つ星が薄明るくなった空に輝いている。それが眼に映った途端、ミホは打たれたように立ちつくした。

 こんなに寝苦しく、蒸し暑いのに、空はもう冬の支度をしているのだ。

 この感動を、サヤカと分かち合いたい。

 そして夜。

 サヤカは「さそり座」を見上げながら、こんな話をしたのだ。

「オリオンはギリシャ神話の狩人。あまりに強いのでおごり高ぶり、その報いで神にサソリをけしかけられ、殺された。だから、さそり座が天に昇ってくるとオリオン座は地面の下に身を隠してしまうというわ。いまの夜空は、サソリの天下。でも朝が近づくと再びオリオンは姿を現すのよ」


 しかし、ある日。

 ミホとサヤカは生活指導の教師に呼ばれた。

「PTAのほうから問い合わせがありましてね、あなたがたが夜な夜な出歩いて、遊んでいるようね。なにをしているのか、説明していただけないかな?」

 口調には疑惑がこもっているようだ。

「それは……」

 ミホは口ごもった。

 どうも、ふたりの振る舞いをPTAのだれかがこっそり見ていて、学校にご注進に及んだようなのだ。

 子供だけで夜な夜な集まって、星を見ている。これはひょっとして、大人にとってよろしからざること、たとえば「物語」を語り合っているのか……。

 そんな疑惑を持たれても仕方がないのか。


 ミホが困惑していると、サヤカが肩を叩いた。

「ご説明します」

 そしてサヤカは、居並ぶ教師たちへ向かって、落ち着いた調子で説明を始めた。

「およそ、天文学ほど「物語」と縁遠い学問はありません。

 惑星や準惑星、衛星、彗星、小惑星、スペースデブリに至るまで、太陽系内の天体の運行は、ニュートン力学が完全に解明しました。相対性理論は、それをさらに厳密にしました。

 太陽や恒星は、水素が集まって核融合反応を起こしている、天然の原子炉です。ブラックホールやそれがまとめる銀河は、重力とそれが起こす作用ですべて説明が可能です。

 宇宙に存在するあまねく事象は、すべて数学の言葉で記述することが出来る。スーパーコンピュータによるシミュレーションが、それを証明しつつあります。

 星空に生起するありとあらゆる事象は、方程式によって精密に記されています。宇宙そのものだって、アインシュタインが記した方程式で完璧に記述されているではありませんか。

 天文学は曖昧さのない世界。そこに「物語」が入り込む余地など、どこにもありません。

 生物学の世界では、生態や進化に『物語』を見てしまう研究者がいるらしいが、天文学にはあり得なません。

 宇宙のような完璧な世界に、人間の勝手な想像も、擬人化も、つけいる隙はないのです。

 それに、天文学は徹頭徹尾、実用的な学問です。暦を作成するには地球が天体として運行していることを知る必要があり、測量のためには星の正確な位置が必要です。

 天文学はデータサイエンスであり、星を見ることでわたしたちが知ることは三角関数であって「物語」ではないのです」

 サヤカの堂々とした有様に、ミホや、教師たちも圧倒されていた。


 それで、ひとまずは収まったようなのだ

 しかしそれ以来、ふたりで夜に出歩いたり学校に残ったりすることは、憚られるようになってしまった。

「どうしよう」

 困惑するミホに、サヤカはある提案をした。

「クラブを作らない? 天文クラブ。学校公認で、みんなで星を見るのよ」

 設立趣意書を作ってきた。あのとき教師に説明したことが理路整然と書かれていて、そのためか、ミホたちの「天文クラブ」はすんなりと学校当局に認可された。

 そして、顧問になってくれたのは、あの初老の女性教師、マドカ先生だった。

 理科準備室を部室にして、放課後集まることにした。


 すぐに下級生三人が入部してきた。

「ヨシエです」

「ナツミです」

「アヤネです」

 新学期が来て、天文クラブの活動は、ますます盛んになっていった。

 夕方。学校の屋上に集合して観測会を開いた。

「まだ、あの星々は見えるわね」

 小惑星を観測してその軌道要素を計算する。変光星を観測して、その周期から伴星の軌道を推測する。部員はおのおのの研究課題を見つけて、観測にいそしんだ。 


 クラブの人数は増えていった。

 週末ごとに開催される観測会も、その人数は次第に増えていった。

 ある晩、公園に集まって、天体観測を行うことにした。

。部員は夜、外れの高台に集合する。

 高台は墓地になっている。墓石に刻まれた没年は特定の時期に集中している。「物語」が猖獗を極めた時代、「物語」に心を操られた、たくさんのひとびとが命を奪ったり、奪われたりした。その悲惨な歴史を現在に伝えているのだ。

 眼が暗闇に慣れていくと、星の数はどんどん増えていく。

 みなはいちめんに拡がる星空に圧倒される。

 夏の夜空はギャラクシー、無数の星の集まりが空に長く伸びている。

 はくちょう座はそれに横たわって、ベガとアルタイルの橋渡しをするようだ。

 ベガとアルタイルの組み合わせには強力な「物語」が込められているのだが、それはおくびにも出さなかった。


 サヤカは天体望遠鏡をセットしていた。

「理科室の備品なのよ」

 用意した望遠鏡を、中天に見える衛星に向けてみた。

 衛星の表面にはクレーターがよく見える。隕石孔だ。黒い平坦な表面で覆われているところと、クレーターの多い白っぽいところ。荒涼とした衛星の表面は、そこが「物語」とは無縁の場所であることを、よく分からせてくれる。

 サヤカは見えるものに片っ端から「科学的」な説明を入れていく。むろん「物語」を生成させないための手段だ。

「今晩は、第六惑星の輪がきれいにみえるわね。シーイングがいいのかしら」

 シーイングは大気の状態である。腫れていてもシーイングがよくないと、望遠鏡の像が揺らいでしまうのだ。

「あれはなんですか?」

 ナツミはひときわ明るい星を指さした。

「第二惑星。朝晩によく見えるわね」

 望遠鏡を向けると、衛星のように欠けて見える。


 みなを集めてサヤカはいった。

「流星群の観測もいいですね。今晩は衛星が明るいので、あまり条件がよくないですが」

 今日は流星群が見える日だ。

 流星は軌道を周回する微少な物体が大気圏に突入して起きる。断熱圧縮の高熱で輝き、尾を引いて地球へ落ちていく。

「しぶんぎ座流星群」というらしい。

「しぶんぎ座」ってどういう意味ですか?

 初参加のナツミは疑問を投げかける。

「それはおいおい、説明します」

 この言葉のほんとうの意味を知ってるのは、サヤカとミホだけなのだ。

 ミホたちに感化され、星を見る少女たちは、しだいに増えていった。

 なにもかも、順調に見えた。

 しかしその活動は、とつぜん終止符が打たれたのである。


 秋も深まってきて、そろそろ冬の足音が聞こえてくる日だった。

 その日はついにやってきた。

 サヤカは休んでいた。

 机の中に、こんな書き置きがあった。

 封筒には

「ミホさん、さようなら」という走り書きとともに、疎らに点を打った黒い紙が入っていたのだ。

 そして昼休み。こんな校内放送が入ったのだ。

「ウヅキ・ミホさんとアイザワ・サヤカさんは、至急校長室にいらして下さい」

 校長室には、固い表情の校長と、見慣れない女性がいた。

 どんな要件で来たのか、すぐに分かった。

(ついに、ばれてしまったのか)

 ミホは覚悟を決めた。

「初めまして。わたしは物語捜査官です。ご存じですね」

 警察には「物語」を取り締まる、専門の部署があるという

 捜査官はミホを指さして、いった。

「そのとろんとした、夢想的な眼差し……。間違いない。あなたは『物語』に感染している。事情を聞かせてくれないかしら」

「……はい」

「あなたは星空に『星座』を見ていたわね」

 ミホはどきっとした。

「空に輝く星に勝手に線を引いて『意味』を見いだし、由来をでっち上げる。それは『神話』の再構築になってしまう。

 それがどんなに悪辣な行為か、あなたは知っているの? とても、そのまま野に放てるはずもない。

 あなたは最悪の保菌者(キャリア)であり、『物語』を周囲にまき散らすスーパースプレッダーと化す恐れがある。

 天文クラブはたんなる科学サークルではない。『物語』の培養器である恐るべき反体制の徒党……ところで、アイザワ・サヤカさんは?」

「いません。今日は登校してないのです」

「まあいい。あなただけでも連行します」

 そして捜査官はいった。

「あなたは裏切られたのね。アイザワ・サヤカさんはあなたを見捨てて、自分だけ逃げたのよ」

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