5 巧
T川沿いの彼女のアパートに入ると、絵理子は、まずメモリプレーヤーを立ち上げた。
「ワインでいい?」
ついで冷蔵庫を覗いてから、私に尋ねた。
「ありがとう、いただくよ」
外部スピーカーが、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲・ホ短調を奏ではじめた。
一八四四年(メンデルスゾーン、三十五歳のとき)、六年の歳月をかけ友人のヴァイオリニスト、フェルナンド・ダヴィットのために書き上げたその曲は、当時の流行にあえてさからうことなく、ヴァイオリンの演奏技巧を存分に駆使した極めてテクニカルなものだった。だが曲には、その技巧という言葉から連想されるような上滑りな名人調子は微塵もなく、全体的に、よい意味で貴族趣味の反映された古典的、浪漫主義的抒情が滲みだすように溢れていた。初演は一八四五年三月十三日。ダヴィットのヴァイオリン、病気のため自らの指揮を断念したメンデルスゾーンに変わり、彼が三五年から常任指揮者を務めていたゲヴァントハウス管弦楽団の副指揮者、ニールス・ガーデの手によって行われた。そして、その曲を収めた楽曲メモリは、私が付き合いはじめに絵理子にプレゼントした最初の品でもあった。
「どう、少しは、調子が戻ってきた?」
グラスを二つ持って私の傍らに坐ると、絵理子が訊いた。
「わからないんだよ、何が起こっているのか?」
華麗な、だがいま聞けば古色蒼然たる感じは否めない音楽が、私たち二人を取り巻いて流れていた。
「わからないって、いったい、あなたに何が起こったっていうの?」
彼女が私に問いかける。
「話してみて?」
だが、私に口にできたのは、
「昨日、帰りに車に跳ねられそうになったんだよ。ぼんやりしていてね。たぶん、そのことが尾を引いているだけだとは思うんだが……」
という、事実の一断面を伝えた言葉に過ぎなかった。
酒に酔っていたという、そのときの状況を説明するのはあえて避けた。というのは、絵理子が幼いときから父親の大酒に苦労し続けている母親の姿を嫌になるくらい見てきていることを聞いていたからだ。正体を失くすほど酒を飲む人間を、彼女は極端に嫌っていた。もちろん品良く酒を飲む大多数の人々に対しては、彼女も別段気にした様子を見せはしなかったが……。
「気をつけていたつもりだったんだがなぁ……」
私が呟く。絵理子はどこか淋しげな笑みを浮かべながら、私を見つめている。
「そう……」
溜息とも吐息ともつかぬ声で、しばらくしてから彼女が答えた。
「気をつけてね」
私から目を反らし、
「あなた、顔に似あわず、案外、ぼおっとしているところがあるから……」
その言葉に、私は素直に頷いた。そして、
「でも、そのぼおっとしている男に惚れたのは、きみの方だぜ」
「嫌な人ね」
「まぁ、それも性格のうちさ」
いうと、私は彼女の右目に口付けした。彼女の身体がふっと柔らかくなる。唇を滑らすと、今度は右耳に熱い息を吹きかけた。彼女が身を捩る。
「あせらないで。夜はまだ長いわ」
私の頬に軽く両手の指先を這わすと、熱い息を私の右耳に浴びせかけて、彼女が囁いた。
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