4 久
いつもよりかなり早く七時半に会社を退けると、本屋に立ち寄ってから、都心近くのレストランで絵理子と食事をした。彼女とは早いもので、かれこれもう二年もの付き合いになる。気のおけない友人の、ちょっと理知的な知り合い。はじめ彼女と私はそんな関係だった。
「何考えてるの?」
食事の最中、ふいに隣のテーブルから聞こえてきた<車>という言葉の断片に私の神経がささくれだったとき、彼女がそう声をかけてきた。
「いや、とりわけなにも……」
私は答えた。
「ただ、きみとも久しぶりだと思ってね」
事実、私が彼女に会ったのは、約一ヶ月振りのことだった。
「だから……」
「だから?」
今夜はきみが欲しいんだよ、と私は無言で囁いた。
しかし、そういった私の感情の裡には、その気持ちとは全く別の、ある固いしこりがあったのである。
彼女は首を右に傾けて私を見つめている。
そのときそれが起こった。
私の側から見て彼女の後方で、別席のワイングラスを片付けていたボーイが椅子の足に爪先を引っ掻けてつんのめったのである。最高級とはいえないまでも上の部類に属するこのようなレストランでは、非常に珍しい出来事だった。ボーイは、とにかくグラスを割らないことだけに必死になっていたのだろう、倒れることが避けられないと悟ると、自分の背と尻を床に向けるように身体を捻り、盆に<いくつか載ったグラス>を両手で鷲掴みにした。グラスの打つかり合うガチャッという鋭い音がして、客全員が一斉にその方向を振り向いた。次いでボーイが床に倒れる鈍い音と、盆が床に打つかって転がるカラコロという間の抜けた音が聞こえ、
そして――
尻餅をついたボーイがその両手の中にまるで宝物ように後生大事に掴んでいた<ワイングラスの数は一個>だった。
その瞬間の呆気に取られたようなボーイの顔が、私の目の中に映じた。だが、彼は礼儀によってその場から注意深く外された客たちの内奥の視線を感じると、すぐにその表情を払拭し、慌てて盆を拾うと、今度はバツが悪そうにそそくさとその場を離れて調理室の中へ消え去った。
その刹那、彼は不思議そうにもう一度首を捻った。
私は目の前がまっ暗になるのを感じた。
レストランに来る途中で立ち寄った本屋での出来事が、突き刺すように脳裏に浮かび上がる。
私が仕事関係の雑誌を買おうと立ち寄ったその小さな本屋には、そのとき<ビジネスマン>風の客がひとりいた。そして、その客が店主と口喧嘩をしていたのである。
『そんな、親父さん、こないだの本の代金はちゃんと払いましたよ』
『いいや、貰ってないね。財布を忘れたとかでツケにしといたんだ』
『その後で、すぐ戻ってきて、金、渡したじゃないか!』
『いや、あのとき、あんたは戻ってこなかった! 前にも似たようなことがあったから、きっと、そのときのことと勘違いしているんだよ!』
丸縁眼鏡をわずかにずらすと、店の主人は、その若い客に答えた。
本の代金を払った、払わないという押し問答は、次第次第にエスカレートしていき、ついには<激しい口論>となった。
『こんな店、二度と来てやるもんか! 糞親父!』
捨て台詞を残すと、その客はぷいと横を向き、店の出口に向かった。
『ああ、あんたなんか、こっちから二度と願い下げだよ!』
客の後ろ姿に、店主が激昂を浴びせかける。
頃合いだと見計らって、私はそれまでに目で位置を確認しておいた雑誌を手に取ると、肩を怒らせた客と擦れ違いざま――実際には、<その客が店を出る直前に――本屋に足を踏み入れた?>。その途端、あろうことか、私の目の前で店の主人が消失してしまったのである。
そのとき、私は悪夢を見ているのかと思った。あるいは、度重なる過度の飲酒のため、ついに自分の脳が腐ってしまったのかとも……。
やがて、どす黒い恐怖が私に襲いかかってきた。私は大声で叫びを上げると、一目散にその店を飛び出した。
先の食事中、今日の昼間の段階で合理化されたはずの<車>という言葉に私の神経がささくれだったのには、そんな理由があったのである。
私の頭の中で声なき声が飛び交っていた。
(この<現象>は現実に進行しているものなのか?)
戸惑いを浮かべた私の目の中に、驚愕の表情を浮かべたボーイの顔がありありと再現された。
(それに、これは本当に私ひとりを襲った狂気の産物ではないのだろうか?)
私には確信がなかった。
「ねえ、あなた今日、やっぱり変よ!」
私の顔は、おそらく、いきなり蒼白になってしまったのだろう、そんな私を気遣うように、絵理子が優しく声をかけてきた。
「いや、そんなことはないさ」
私は答えた。
「ただ……」
「ただ?」
「少しばかり、疲れているのかもしれないな……」
絵理子は少女のように首を傾げると、もの問いたげな目つきで、私をじっと見つめた。
優しい沈黙。私も彼女を見つめ返す。
(今日、家に来る?)
しばらくしてから、彼女の唇がそう動いた。
「さっきあなたもいったけれど、久振りですものね、私たち……」
今度はかすかに聞き取れるくらいの声で、彼女が囁いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます