第10話
首をかしげている殿下を置いて、家の中にある階段を上っていく。
殿下が慌てたようにくっついて来た。呪いの家に取り残されると思ったのだろう。
二階に上がると、これまた長い廊下にいくつもの扉があった。城のように用途ごとに部屋をわけているのだろう。なんて贅沢な使い方だ。私のボロ屋に一部屋譲ってほしいくらいだ。
たくさんある扉のうちのひとつ、黒いものが一際強い部屋の前に立って、トントントンとノックをする。
しばらくの沈黙のあと、キィッと扉が開いた。中にいたのは、この家の孫だという、先ほど怒鳴り合いをしていた青年。
うわぁ、よく見ると顔色悪っ。
目がくぼんでるし、唇は紫。
死人のように見える。これはお婆さんも心配する。今にも倒れてしまいそうだ。
「こんばんは。お困りみたいですね」
「……聖女様?」
大きく目を見開いた青年は、私を見て怯えたように体を細かく震わせて、やがて懺悔するようにガクリと膝をついた。
「聖女様っ、俺は、どうしたらいいでしょうかっ……。父さんに八つ当たりをしましたっ。ばあちゃんにもっ。合わせる顔がありませんっ……!」
死人が最後の力を振り絞ってすがりついてくるみたいに、膝をついたまま手を伸ばしてくる。
死者が墓地から生き返ったみたいだ。
殿下びっくりしてるし。おぞましいものを見たと言いたげに私の後ろに隠れた。失礼なくらい正直な王子だ。
顔色の悪い男に視線を合わせるようにそっと膝をついて、聖母の笑みを張り付けながらよしよしと頭を撫でる。
さぁて、根っこの部分を叩き折らないといけないから、気合いを入れないと。
男の背後にあるぼんやりとした黒いモヤを見た。
「この家は好き? このままだと、この家はなくなるわ。嬉しい?」
ヒュッとおびえたような呼吸音が響いた。
はくはくと存在しない空気を吸い込むように口を動かして、やがて男は固まった。顔がくしゃりと歪んでいる。
「あなたの家族もみんな路頭に迷うことになるかも。でも、嬉しいはずよね。だって、それが、あなたの望んだことだもの」
鈍器で殴られたような顔をして、青年は私を見た。強ばった顔をしている。
やがてその顔は幼子どものようにくしゃりと顔中にシワを寄せて、嫌がるように首を横に振った。
「俺は、そんなことっ……望んでないッ」
「そうねぇ。あなたはただ、自由を望んだだけ。自由の代償が、たまたま、この家だっただけだもの」
「自由の代償が……家?」
「あなたはこの家に生まれたから自分は自由になれないと、そう思ったはず。だったら家がなくなればあなたは自由になる。そうでしょう?」
「……ちがうっ……俺は……」
不安そうに瞳を揺らして男は視線を下げる。
肩も手も全部が震えている。苦しそうに喉元に手を当ててガリガリと引っかいていた。
その手に、ひと際真っ黒の靄がくっついている。目を凝らして眺めて、首を横に倒す。
「付けてるのは、腕輪?」
「あ、これは……願いを叶える腕輪だって。それで……買いました」
罪人のように差し出された右腕を見る。
うわぁ、これまた汚い腕輪だ。銀色の腕輪の周りにヘドロがこびり付いている。
でもどこかで見たものに似ているような気もする。どこだったかな?
首をかしげながら、その腕輪に触れる。
「聖女様っ、家は、無くなるんですか? 俺は、どうしたら……っ」
「大丈夫。この家は無くならないわ。私が魔法をかけてあげる。捻れた愛が、元の形に戻るように」
「ほ、ほんとう、ですか……?」
「本当よ。ただ、あなたが本当はこの家を愛しているように、あなたのお父さんも、ただあなたの才能を否定したいだけではないと、胸に刻んでね」
くぼんだ目が、じっとすがるように私を見た。
「廊下をよーっく見てみるといいわ。それできっと、全部、わかるから」
腕輪から出ていた、どす黒いものを指で弾く。剥がれ落ちたそれをぐしゃりと握り潰した。砂のように崩れると同時に、どす黒いものは消えていった。
「それじゃあ、私たちは帰るから、お婆さんたちによろしくね。お代は後払い制なの」
ポンポン、と男の肩を叩いて立ち上がる。
戸惑ったように揺らめく視線をその場に置き去りにして、扉の前につっ立っていた殿下の元へと歩く。
「殿下、帰りましょう」
「は? 終わったのか……?」
「終わりましたよ」
いつもあんたの変なのを取ってあげてたでしょうという突っ込みを押さえて、殿下の背中をぐいぐい押して部屋から出る。
戸惑うように後ろを振り返る殿下を促してそのままそっと、家をあとにした。
「そういえば、息がしやすくなっていたな」
「呪いの根源を潰しましたからね」
夜道を歩きながら、空を見上げる。
「本当に、大丈夫なのか?」
「疑り深いですねぇ。大丈夫ですよ。道案内はしましたから。あの呪いは、自由に焦がれる愛と、子を思う愛がぶつかって生まれたようなものなんです」
「愛がぶつかる?」
「自由を愛することだって悪いことじゃないですし、子どもを愛することだって悪いことではありません。お互いの愛するものが、ほんの少し、ズレただけ」
ふわりと、夜の風が吹いてくる。
暗く、前もよく見えないけれど、月の光がぼんやりと夜道を照らす。
行きは先はこっちだと、そう知らせるように、目の前を浮かび上がらせていく。
「ただ、愛に優劣はないので、ぶつかり合うと面倒なんですよ。そこに、絶対的な正解なんてないんですから」
殿下は首をひねっていた。
よくわからないらしい。
愛というのは本当に面倒だ。嫉妬や憎悪も愛から生まれることが多い。
好きだからこうしたい。
好きだからこうして欲しい。
どちらも『好き』から生まれた思いだけれど、ぶつかり合うと厄介だ。
愛しい我が子に幸せになって欲しいから、こうして欲しい。自分の言うことを聞いて欲しい。
それは、紛れもなく、ひとつの愛の形だ。
けれども、好きを免罪符に自分の考えを押し付けて、相手の生き方や想いを捻じ曲げていい理由にはならない。
わかっていても止まれないのが、愛の恐ろしいところ。
馬鹿みたいに汚くて。
だからこそ、宝石のように輝いている。
ほんの、一瞬の時を、キラキラと輝かせる、醜くて美しいもの。
しきりに首を捻っている殿下を見て、小さく笑った。
子どもだなぁ、と思うのと同時に、どうすればそこまで純真になれるのか甚だ疑問だ。
「殿下。愛には、終わりがないんですよ。もっと、もっとと、欲が出るんです」
「そうなのか?」
「はい。ねちっこくて、ドロドロしてて、何よりもどす黒くて──けれども、春に降り積る雪のようにとても儚くて、美しいんです。だから私は苦手です」
肩をすくめて、また空を見る。
「聖女が愛が苦手なんて言ってもいいのか?」
「いいんですよ。誰にも苦手なものはあるんです。殿下には、まだわからないのかもしれませんね」
「むっ、私をバカにしただろう」
「いいえ〜。まったく」
愛が苦手な聖女がいたっていいだろう。
そもそも、聖女というのは勝手に付けられた呼称であって、私が名乗ったわけじゃない。
殿下は、名残を惜しむように、少しだけ歩いた道を振り返った。
「あの男は、画家になりたかったのか?」
「気づいていたんですね」
「臭いがしたからな。油絵を描くのだろう」
「殿下が買わないと宣言した絵がそうですよ。立派な額縁に飾られて──どこか知らないところに売られるよりも、よっぽど大事にされてると思いましたけどね」
皮肉だなぁと思う。
たったひとつの名声では我慢できなくて、けれども何よりも大きな愛を渇望する。
「殿下は、やりたいことはないんですか?」
「私は民を守るのがすべきことだ」
それは、殿下の夢なんですか? とは、聞けなかった。
生まれた瞬間から王子という重荷を背負わされているのだから、『自分』というものが何かを望むなんて、殿下には考えられないのだろう。
空の飛び方を知らない鳥のようだ。
静かに、口を閉ざした。
黙って歩いていると、殿下が思い出したように手のひらを打つ。
「料理はなかなか楽しかったな」
そんなこと、普通の人なら、いつだって当たり前にできるんですよ。
上機嫌に笑っている殿下を横目に見ながら、ため息混じりに笑う。
「ウチの台所でよければ、たまにお貸ししますよ」
私の善意を、殿下はすっとぼけた目で殴り捨てた。
「おまえは城に戻るだろう? 何を言っているんだ」
「戻りませんけど」
「連れ戻せと言われている」
「それは殿下の都合です。押し付けるのはやめてくださいな」
「おまえ、頑固だぞ!」
「殿下に言われたくありません!」
ギリギリと睨み合っていると、パッと殿下が顔を上げた。キリリと目元をつり上げている。
視線を夜道に這わせ、薄い唇をキュッと引き結ぶ。
あれ、なんだか、雰囲気が……。
「……殿下?」
「しっ」
青い瞳が、剣呑さを帯びる。
さりげなく後方に押しやられた。
殿下の右手が、左腰に下げられている立派な剣に伸びた。
「……誰かいる。私のそばを離れるな」
聞いたこともないような、低い声音で、殿下はそう言って少しだけ剣を抜いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます