第三話 女王メダイア編


 「昨日物語」第三話

 (女王メダイア編)


          堀川士朗



細かい事をよく覚えていると思われるかもしれない。だが、たいがいの事は忘れてしまった。


過去へ。



次の仕事が決まった。

オーディションを勝ち抜いて役をもらったのだ!

ギリシャ悲劇『女王メダイア』。

今度は海外を含めての地方巡業となる。

主役のメダイアを演じるのは関西歌舞伎界の女形、風卓三郎さん。

僕はこの芝居で、メダイアに仕える16人のコーラスの役のひとりを演じる事になった。

コーラスと言っても歌は歌わず、セリフを16人で一斉に合わせ夫に虐げられた女王メダイアの心情を代弁している。

動きも完璧なまでの集団フォーメーションだ。このフォーメーションと膨大なセリフ(主役よりも多い)を頭と身体に叩き込むのが大変だった。

売れっ子子役の洋介とふっくんは今回も参加している。

メダイアのこどもの役だ。

チロ兄ちゃんチロ兄ちゃんと慕ってくれていてかわいらしい。



森下にあった染め物工場を改装した稽古場『ベニミツピット』は床もボロボロでささくれだっていた。

履いているカンフーシューズ越しにトゲが刺さって痛い。

カンフーシューズは消耗品で、何足もストックを用意していて正解だった。


僕らは連日連夜、稽古に励んだ。

本稽古が始まる二時間前にはコーラスの動きとセリフ合わせの特訓があったし、主役を交えた本稽古が終わっても、僕ら16人のコーラスは夜遅くまで特訓に励んだ。

演出家、品川由紀夫さんの叱咤激励が飛ぶ。

品川さんも言っていたが、この芝居はコーラスが本当の主役なのだと。

僕は足の裏を傷だらけにしながら、このコーラスの役で自分がある事に誇りを感じていた。



8月。

この芝居でヨルダン、エジプト公演に行く事になった。僕はパスポートとビザを取得した。

僕と稽古場の最中から険悪なムードに包まれていた品川カンパニーの俳優、中戸哲治(なかどてつはる)さんとは飛行機の席が隣で、また行きの成田空港の喫茶店で、


「お前良い気になってんじゃねーぞ」


って言われて非常にムカついて僕は飛行機に乗っている間彼の事を無視していた。

こいつが後に、超売れっ子女優袴田幸江と結婚するとは思ってもみなかった。

マア、良い俳優だけどね。

おめでとう未来の中戸さん。



ヨルダンの空港で一万円札一枚を両替したら、無愛想な現地の係の人がドカッとディナールの札束を渡した。

百枚以上はある。

舞台メンバーの清入さんが、


「やーチロ。この国、気をつけないと全然カネ使わねーぞ」


と不思議な心配をしていた。



ヨルダンに着くなり僕はドネルケバブを食べた。屋台で売っている。一つ1ディナール(約100円)。

安くてむちゃうま!



バスで移動。

石造りの古代劇場。

紀元前に建てられたものだ。

ここで僕らは女王メダイアを上演する。

石段の客席には体長25センチくらいの太くて巨大なゲジゲジが何匹もいた。

品川由紀夫さんは僕に、


「おい、あまり日に当たってると日射病になるぜ」


と言った。

僕は長袖の服を襟を立てて着て、帽子も被り、日焼け止めを塗っていたが、この灼熱の陽射しは気をつけていないと品川さんの言っていたように本当にやられる。



ゲネプロ(本番と条件を同じくした舞台稽古)をやった。

石造りの床はツルツル滑って苦戦する。



夜になり、本番。

僕らの統率されたコーラスの動きに客席がどよめいている。

くそ。床が全部石だから滑るな凄く。

お客さんはヨルダンが国を上げて宣伝し、文化交流として僕らを招聘したのでチケット料金は無料だった。だから客層は王族から貧民まで様々いる。

風卓三郎さん演じるメダイアが我が子を手にかけようと決意する「ままよ!」というセリフを現地のこどもたちが日本語の意味も分からず真似て、


「ママヨー!ママヨー!」


と叫んではしゃいでいる。

笑っている。

本番中に。

あれ?ギリシャ悲劇なのにな。

終演。

お客さんは総立ちで拍手している!



現地の演劇大学の学生が楽屋を訪れる。

学生はみんな興奮している。

僕らの楽屋は古代劇場の裏手に急遽作った掘っ建て小屋で、基礎がしっかりしていないからテーブルが凄い角度で傾いていて、メイク用具も転がりまくる。

そんな掘っ建て小屋の楽屋に訪れた学生たちはメイクを落としたばかりの僕たちに通訳を介して、


「ありがとう。今日、日本人のあなた方に演劇の素晴らしさを教えてもらった。本当にありがとう!」


と熱く語って固い抱擁をした。



エジプト。

ヨルダンと比べてもあまり変わらない粗末な宿はオールドカイロに面した安ホテル。

部屋はボロいが、屋上のプールだけは広くて、僕たちはそこで泳いだ。

余り日に当たらないようにした。

コーラスのメイクは白塗りなので、日に当たると乗らなくなってしまうからだ。


日本から持ってきたエロ本をボーイに上げたらサービスががぜん良くなって、ステラビールという現地のビールを僕らに運んできてくれた。

ぜひ家宝にしてくれ、そのエロ本。

ステラビールは飲みやすくて美味しい!



休日の夜。ナイル川沿いの三ツ星レストランで鳩料理のフルコースを食べた。鳩だけど、そんなに抵抗なく食べられる。ひとり20ポンドぐらい。



ホテルに帰ってきて、エアメールで寂しいって言ってきた日本にいる僕の彼女、坂下由江さんに国際電話したら三分しか話してないのに、50ポンド取られた。日本円で約6500円だった。

恐るべし、国際電話!



オールドカイロ周辺のバザーを歩く。

暑くて倒れそうだ。

実家のおばあちゃんにお土産を買って行こうと思い、土産屋の軒先を見る。

よさそうな、ラクダの革で出来た財布を手に取ると、店主のおじさんが、


「それ100ポンド」


と言った。

高いと思ったから、


「ノー。10ポンド!」


と無理なほど値切ったら即座におじさんが、


「オーケー」


と言った。

失敗した。

10ポンドでも高い方なんだ。

ほんとこの国は定価というものがない。

全てが交渉次第なのだ。

こういう国が、世界の果てにはあるんだと思った。



ピラミッド観光をした。中枢の王の部屋はなんだかオシッコ臭かった。スフィンクスちっさ!



壮行会を兼ねて在エジプト日本大使館での豪華な食事にありついた。

食事の前に大使に、飾られた高山翁狭の5000万するエジプトの砂漠を描いた絵をうやうやしく紹介されたが、僕はふーんたいした事ない絵だなとか思っていた。

だが外ではマシンガンを携えた警備の兵隊が立っていた。

当然の措置だった。

(実際、この年の暮れにはペルーで日本大使公邸の占拠事件があった。また翌年にはルクソールで、日本人を含む観光客62人が殺害される悲惨なテロもあった。)

エジプトの夜の治安の現実がそこにあった。

持つ者と持たざる者の貧富の差だ。


食事の時に同じ事務所の、この芝居では従者役の山田政太郎が僕の食っている時の顔を写真に撮っていて、やめろ!と思った。

食っている時の顔を撮すな!山田バーカ!バーカ!



翌日、カイロのオペラハウスで本番。

空調の効いた劇場で、現地日本人ザマス族相手のモチベーションの低い芝居になってしまった。少なくとも僕はそうだった。ギアが全然かからなかった。

ヨルダンのあの夜のような熱狂の舞台はどこにもなかった……。



12月末。

女王メダイアの北海道、東北、四国ツアーが終了した。

キツかった!

過酷なギリシャ悲劇だった。

重いマントの衣装を着て集団フォーメーションで動きまくり、汗をかきまくり、1ステージで2キロ以上体重が落ちた。それを終演後に元に戻すのもまた大変だった。

全身筋肉痛だった。

温泉に行きたいな。坂下さんと。



結局今年は大学に二日しか行けなかった。

試験も受けていない。

留年は確定だろう。

ああ、そんな事よりも。

温泉に行きたいな。坂下さんと。

でも坂下さんは電話で僕にこう告げた。


「チロくん、私ね。今、お見合い話が持ち上がっているの」

「え」

「親からも反対されてるの。その……チロくんとの交際。私たち7つも歳が離れているわ」

「うん」

「チロくんはまだ21だし」

「うん」

「ごめんね」

「うん。お見合い相手、良い人だと良いね。坂下さんには幸せになってほしいんだ……」

「ありがとう。バイバイ」

「さよなら。坂下さん……」


僕は。

僕は電話を切った。

やけにそっけないなと思った。

やけにあっけないなと思った。

でも、それが別れというものなのかもしれない。

僕は。

何も考えられなかった。



            続く


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