港町の時計台

 日差しは薄く、足の指先が凍ったように縮む。それでも強張らないように手をしきりに動かしながら、時計工は空に揺られ、大時計を点検する。

「四番の歯車が折れちまってる。こいつが原因だな。それと七番、八番、十二番。こいつも駄目だ。スプリングも寿命か」

 時計工は下に向かって、声を張る。六メートルはある梯子のたもとにいる見習いは「酷いっすね、こりゃ」と受けて、隣の商店主に説明する。

 商店主は、腕を仕切りに組み直し、問いかける。

「それで、幾らかかるんです?」

「そ、ですね。今回の場合だと。何せ特注ですし」

 商店主は空を見上げ、深く息を吐いた。

「ジョイントもすり減ってる。替え時だ」

 時計工は、自身の三倍もあるサイズの大時計をいじりながら、つぶやいた。


 * * *


「とすると、廃棄なさると」

「わざわざご足労なされて、申し訳ないのですが。けれど決めたことです。廃棄します」

 商店主はゆっくりと断言する。

 時計工は黒革の深々としたソファに浅く腰掛け、コーヒーに視線を下ろしていた。見習いもまたソファにちょこんと座って、前かがみになって俯いていた。

 応接間の、人物画の油絵、青磁の壺、鶴の掛け軸が、空間に豊かさというよりも、威圧感を与えている。

 商店主はソファに体を埋ずめ、足をゆすりながら、コーヒーを啜り

「あの大時計は三代目が店のシンボルにと頼んだもので、八代目のわたしまで良く続いたものですけれど。物心ついた時から動き続けていた時計です。確かに愛着はあります。しかし、時代は進むものです」

 商店主は花の模様が縁どられたスプーンを、コーヒーの中でくるくる回しながら、

「昔は街に一つだけの時計が、やがて一区域に一つ、やがて一家に一台、今では一人に一個。もうあの時計は取り立てて人の関心を惹くものではなくなりました。ここらでお役御免でしょう」

「そういうものなのかもしれませんね」

 どろりとした沈黙が流れた。ややあって繕うように時計工は言い添えた。

「わかりますよ」

 テーブルにはカップに半分ほどのコーヒーが残っていた。気まずさもこれを飲み干せば終わる。

 足元をちょいちょいとつっつかれた。横を見ると見習いが、睨むような顔つきだ。時計工はわかっているよと、つつき返す。

「さて、ところで」

 肘をテーブルにつけて手を額の前で組む。

「廃棄となると、さて、どうしたものか、その時計台の跡というのは」

「なんです?」

「そのままだと如何にも不格好でしょう。大時計があった名残というのは。壁の色から違ってくる」

「確かに、壊れた時計をそのまま置いておくわけにも」

 時計工は努めて明るく

「そこで、時計のあったところを埋める装飾などは。軽いアクセントとして、例えばステンドグラスなど」

「はあ……」

 見習いは弾んだ声で言葉を継ぐ。

「簡単なものだとこれくらいです。グレードを一つ高くすると、見栄えもよくてお得ですよ」

 時計屋はあくまでも時計だけを扱うべきだ。そんな信念を切迫した収支と天秤にかけた、妥協の故の副業だった。しかし時計そのものの比重が軽くなるににつれ、馬鹿にならない収入を占めるまでになっていた。発注するだけで、工事は近くの大工だけでやれるのも、こちらにもあちらにも都合が良い。時計工はコーヒーを飲み下した。今回の服飾店の大時計も、聖母をモチーフにしたステンドグラスに取って代わられることとなった。


 * * *


 こうして一つの街から時計台は消えていく。列車は左右に大きく揺れながらカーブし、その街を遠ざけ、時計工たちを新たな街へと運ぶ。

「大時計は時代遅れか」

「なに、気落ちしてるんすか。次の仕事、港町なんでしょ。海見るの、かれこれ十数年ぶりなんすよ、僕」

 見習いの答えは空気のように軽い。時計工はぼんやりと窓を見つめている。新しい土地の景色は、平凡に褪せている。

「時計屋も消えていくものなんだろうな。装丁屋にでも鞍替えする頃合いなのかもな」

「また、うじうじと。最近、らしくないですよ。それよりも海っすよ。海。あー、今が夏だったらなあ。あっ、駅弁。目玉焼きですよ。ほらっ」

「お前は気楽でいいな」

「気楽もお気楽、楽して生きろって、そう言うじゃないすか、親方」

「言わないよ」

 列車は小さなトンネルに入り、ゴウゴウと音が反響し続けた。


 * * *


 雲も少なく、日は眩しい。強い風さえ無ければ、絶好の仕事日和と言えた。日向のベンチは太陽の残り香がして、温かい。しかし強風がコート越しに体温を奪う。時計工と見習いは遅い朝食をコロッケパンで済ませ、口をもごもごしながら細い石畳の坂路を上っていく。

 街を見渡せる小高い丘に、その教会は位置している。遠景にはコバルトの海まで望める。教会は全長八メートル、先端の十字架のオブジェを含めると、九メートルはある。

「壮観ですな。これが木造とは」

 教会の神父もまた首を伸ばしながら

「石造りのこの街では珍しいでしょう? 何でも東から木工職人を呼んで、六年も費やしたとか」

 青の空と緑の草花に、焦げ茶の建物は良く映えた。装飾は少なく、木のおおらかさを強調する作りだ。大きな一枚板の扉が開かれ、その上に誇らしげに時計台が置かれている。もっともその針は大幅にずれて、五時を指している。手元の懐中時計で確認すると、まだ正午にもなっていない。

「なんでも、これで三件目だとか」

「ええ。初めはここの、地元の時計屋に頼んだんですが、一向に原因がわからず。それから」

 神父は、高名な首都を中心に活動する時計屋の名を告げた。

「これまた分からず。老朽化だろうとは、おっしゃるのですが」

「そうですか。一応、善処してみますが」


 海からの風は勢いを増していた。陸のそれと違って、短いテンポでの強弱をつけず、しかし確実に力を増しながら風を送り続ける。早く帰りたいものだな。だが、帰るって、何処へ? 小さな、しかし一人きりには大きすぎる我が家が浮かんだ。膝まで生えた冬草の庭も。錆びた赤い三輪車も。俺は、そこへ帰って、何をするというのだ?

 大時計の中身は良くできていた。止まっているのが不思議なくらい、欠けた歯車もなく、連結部の軋みもなく、木造ゆえの木の歪みも最小限に留められていた。良く手入れされている。重宝されている幸せ者の時計だ。設計も丁寧で、独善的な所のないオーソドックスな作りで、しかし抜かりはない。あと、二十年、三十年は動き続ける。そう見えるのだが、何処をどういじっても、時計の針が動くことはなかった。寿命というものがある。丁寧に設計された長生きしそうな時計も、ふとした加減で全てが駄目になってしまう。五番よし。六番よし。これで三回目の確認だ。七番よし。こうした仕事の場合、直そうとすることよりも、直らないことへの言い訳を作るのに手間が折れる。残念ですが、寿命です。古い型ですし。このステンドグラスなんてどうでしょう? 十一番よし。耳を当てて、とんとんと叩く。ジョイントよし。全てが良い。全てが良くて、にも拘らず、時計の針は動かない。もう一度確認しようとして、しかし海風に馬鹿らしさが焚きつけられて、止めた。

「親方?」

「こいつは駄目だ。寿命だよ。今、降りるから、梯子をしっかり固定しろ。風にあおられるなよ」


 帰り道、教会に巡礼する老人の一団とすれ違った。もう、あの時計を仰ぎ見ることがないと知ったら、彼らはどんな顔をするだろうと、視線は背後の木々に惑った。


 * * *


 宿の一室を押さえる。小さな机にベッドが一つ。飯喰らいは床に雑魚寝で済ますことになりそうだ。観光シーズンから外れたせいもあって、料金は三割引きだった。中途半端に時間が余る。

「海、見に来ましょうよ。海」

 見習いはオーバージェスチャーで、はしゃいでいた。

 メインストリートの宿から、坂道を下っていく。街路樹が冬に負けじと、緑の葉を揺らす。灰色の猫が根元でうずくまっている。

 なんとか、もう一度、診てくれませんか。設計図はこれですが、突き合わせてみてください。今日は強風でコンディションが優れなかったでしょう。寒かったでしょう。明日でもいいです。明日にでも。

 神父のすがりつく姿が思い返される。あらかじめ覚悟して、あらかじめ準備していて、それでもどうにもならないのをわかっていて、それでも繰り返してきただろうあがき。なるようになった。それだけだ。ポケットから手を出して、前を向く。向かい風に胸を張る。


 * * *


「海っ! 海っ!」

 見習いは砂浜を波に沿って駆けた。真新しい足跡が刻まれる。

「独占だー」

 見渡す限り、一面の海原にも浜辺にも人影はない。他にあるのは何処から来たのか、風に惑う茶色い紙袋くらいだ。鳥たちも、この土地を見捨てたかのように姿がない。一面の砂浜が後ろに広がる。

 眼前にはごうっとしたさざめき。青緑色の水平線から、深緑になっていき、そこから音が聞こえて来そうな位置になるとエメラルドグリーンになり、メロンの果肉のように盛り上がり、白い飛沫を立てて砂を這い、透明の水となって去っていく。そうした一連の波の動きが、色合いがひとところに定まらず、日と共に移り変わっていく。一方で波音は常に変わらず、ごうごうと寄せては離れていく。時計工は知らぬうちに、写真の構図を考え、太陽と岩場が重なる場所を探して歩いていたのに気づいた。目を閉じる。カメラなぞ、在りはしないのだ。女房は去り、子供は去ってから、写真を撮る習慣は絶え、それは何処かへと消えてしまった。古いアルバムは、本棚の一番下に置いたまま。見返すこともないし、新しいそれを作ることもない。

 足元が濡れている。何時の間にか、波のあるほうへと引き寄せられていたのだ。緑の海に後ずさる。風と波音の間から、見習いのかすれた声がする。透明な白い塊、恐らくクラゲの死骸だろう、をぐいぐいと踏みつけている。それだけが海での事件で、時計工は吹き付ける風に目をしばたたかせた。

「広いな」

 一つ特に大きな波が、靴を濡らそうと足元に滑り込んだ。それから逃れようとした動きが、自分でも変な踊りのように滑稽で、慌てて周りを伺う。誰も居ず、唯一の見習いは砂場にしゃがみこみ、空に顔を傾けていた。

「広いな」


 * * *


 海岸通りの波止場を行く。夕焼けまでぼうっとしても良かったが、見習いが思い出したように

「腹が減ったっす」

「確かに」

 人通りを求めて、大きな道を選んだのだが、それは本当に交通するだけの道で、飲食店は望めなかった。海岸からの風はいよいよ勢いを増し、それから逃げるように、小道に入る。偶然、日当たりのよい、風が吹きつけない場所に入った。商業区とも違う、しかし完全な生活圏とも違う不思議な通りだった。石畳が陽光に眩しく照っている。

「親方親方、見てっ、ほら」

 見習いが指さした向こうには、カボチャ。大きな屋台ほどのスペースに行儀よくカボチャが整列している。赤茶色の列、橙の列、緑の列。

「何だい? こりゃ」

 見習いは、キュウリ色の球をぽんぽんと叩く。

「これも、カボチャ?」

「して、どうしてこんなところに」

 と、路の影から十五くらいの、時計工の娘と同じ年頃の女の子が、駆けてきて、

「ドロボー」

「ドロボウ?」

 辺りを見回す。他に誰もいない。

「ドロボウ?」

「どろぼう?」

 おうむ返しの繰り返しだが、それで警戒が解けたようで女の子は「ごめんなさい」ともごもごし、それから

「ドロボウかと思った。お客さん、ね。今日は風が風だから、商売あがったりだったのよ。一見さん、冷やかし歓迎。さあさ、どのカボチャ、気に入った?」

 女の子は、ついとカボチャの正面に立ち

「これは昨日入荷したてのナンヨウヒメカボチャ。麦を肥料にした肥えた土地でね、二毛作でニンジンと一緒に収穫するの。栄養も豊富で風邪知らず。その上、腹持ちが良い」

 突然、スポーツ実況のように売り文句を畳みかけてきたものだから、時計工はにやついてしまった。見習いは「カボチャ屋? 魚屋ならわかるけど」と言いながら、満更でもない様子だ。柔らかな日が、女の子とカボチャに差し込んでいる。

「海辺だから、魚って、思うみたいだけどね。ここは港街よ。色んなものが集まって、いろんな人が集まって、熊だのペンギンだの、何だって口に入れるんだから」

「へえ」

 女の子はまごついて

「ペンギンは言い過ぎたけど」

 カボチャを撫でながら

「カボチャはね。仕入れ時期と単価が安定してるのよ。日持ちもするし、扱いやすいの」

「魚は海の機嫌次第だし、傷みやすいからか」

 そう答えながら、時計工は懐かしい気持ちに囚われていた。カボチャのシチュー。ニンジンにジャガイモにあと緑の粉末みたいなもの、何だっけ、そう、セロリ。休日に娘が良く作ってくれたっけ。

「生モノは露天には無理かー。だからカボチャなんすね」

 見習いはふむふむと、手の平大のカボチャに目をやる。

「それだけじゃないわ」

「何すか?」

「カボチャが、何よりも好きだから」


 * * *


 時計工は設計図を羽ペンでマークしながら、記憶の中の大時計の内面と照らし合わせる。歯車の八番はどうだったか。知らぬ間に右にズレすぎていなかったか。このジョイント部分は、別のものに代官されていなかったか。幾つもの仮説を、打ち立てては、潰していく。見習いにコーヒーのお替りはもう良いと告げる。

「眠っていいぞ。明日は早いからな」

 それに「親方よりも早く寝る弟子がいるもんっすか」とお決まりの答えが返ってくる。

「朝食の買い出しと、現場への事前連絡は任せてください。嬉しいっすよ。親方ならやってくれると思ってました」

「気休めみたいなものだけどな」

 時計工はその気休めに全力を懸けていた。


 * * *


 腕を包み込むような大きさの歯車を、その正確な位置を、確かめる。机上でのシミュレート、設計図との矛盾個所は、これで全て埋まった。何処にも間違いはなかった。それでも大時計は動かない。

「八番、確認。状態、改善せず」

「親方ぁ」

 今日は風が無い分、声がクリアに響く。振り返ると、見習いが泣きそうな顔をしている。神父が目をつぶり何かを呟いた。

 時計工は息を吐きながら、顔を上げ、初めて何者にも邪魔されず、街を眺望した。

 クリームとイエローの煉瓦家が大小不揃いに散らばって、そこを血管のように道が畝っている。その道々を一粒一粒の街人がそれぞれ自由に流れていく。折々に鮮やかな緑がぽつぽつと添えられている。そして向こうには広い広いコバルトブルーの海が広がっている。

 時計工は大時計を撫でながら

「ああ。お前はこうやって街を見守ってきたんだな。大丈夫だ。この場所を奪いやしないよ。何せ俺ほど時計のことを」


 * * *


「しかし、なんすねー、あんなんで動かなくなるもんなんですね」

「そういうもんだよ」

 二十八番ネジ。小さな小さなネジだった。第五歯車と第六歯車の陰に隠れていた。それが欠けていたせいで、大時計は時を失っていたのだった。

「けど、久しぶりに親方、カッコよかったすよ、まだまだあと一回、絶対に直してやるっ、なんて正に鬼って感じで」

「久しぶりぃ?」

「あっ、嘘。そんな、そんなっ」

 時計工は、車窓を見つめながら言う。

「ああ、こんな仕事を続けていきたいもんだな」

 汽車はベルを鳴らし、時計工を港町から、時計台のある港町から、また別の時計台のある街まで運んでいく。

「しかし、この荷物、重いっすね。あっ。これカボチャじゃないっすか。こんなデッカイの非常識っすよ。僕みたいにこう、小玉にしとかないと」


 * * *


 女の子はほくほく顔で、

「毎度あり」

「おう」

「何に使うの? スープ?」

「シチューにな。ニンジンとジャガイモとセロリの。カボチャはごろごろ乱切りで。欲張って口に頬張ろうとすると火傷するような」

「うーん、なんかわかるけど、セロリは煮込まないんじゃないかなあ」

「煮込むんじゃなくて。緑色の粉上の。仕上げに振りかける」

「それ、セロリじゃなくてパセリよ、パセリ」

 二人とも声を出して笑った。

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