『渡邊郁しか知らない世界』
地に足を付け、今を生きる。
ある日。
副社長の松信が企画開発部のメンバーを会議室に呼びだした。
「街を作るぞ」
青天の霹靂。
突拍子もない発表に、メンバー一同言葉を失った。
「私達は、本屋だ」
そうなのだ。私達は本屋であり、企画開発部である。街作り部ではない。
「だが、書店の売上が落ち続けている今、同じことを続けていてはダメだ」
「なるほど」
かろうじて声を出すことに成功した。まだ何も飲み込めてなどいないが。
「それで、街というのは」
「本だけでなく、食事や酒、それにアパレルショップや理容室を含めた複合施設を作る」
「アパレルショップに、理容室もですか」
ようやく話が飲み込めてきた。飲食店ならば、既に会社で運営もしているし、私達も開店経験がある。しかし、アパレルと理容というのは、初めての挑戦だ。かなりの長期戦、そして険しい戦いとなりそうだ。だが、これは会社の決定である。私たちに言えることは1つだ。
「承知いたしました」
「ありがとう。君達なら、この会社の振り子を大きく動かしてくれると信じている。それと」
松信が私の方を向き、優しい微笑みを見せてきた。嫌な予感がする。
「郁くん。君が、店長だ」
株式会社有隣堂企画開発部業態開発課、渡邊郁。
朝6時30分に起床し、天気予報を見ながら朝食をとる。
7時に子供を起こして、朝食を食べさせ、幼稚園のバスを見送る。
その後化粧をして、会社に向かう。これが日課だ。
さて。
開店は3年後。不安になっている暇はない。やることは無数にある。
今回の仕事は、社外の方とも今まで以上にコミュニケーションが必要となる。
今まで通りのやり方でできることは行いつつ、先ずは新規事業の知識を詰め込まなくてはならない。
「私が店長」
ゾクッ。背筋が凍る。
明日、最初のミーティングがある。
「しっかり。私が皆を引っ張らないと。よし。先ず明日のミーティングに向けて準備だ」
ミーティングの結果は散々だった。
新しい知識に、まるで追いつけていない。事前に準備して、何度も復習したはずだが、記憶を辿っている間に、話は次の話題に進んで行く。
「これで良いですか」と確認される頃には、もう遅い。何も話が入っておらず、何度も何度も謝りながら、もう一度一から話してもらう。
このままではいけない。
2日後にまたミーティングが行われる。
今回の反省を活かして、今度こそ完璧に準備しなければ。
資料を開ける。
13時20分。13時24分。13時29分。
やけに時計を見てしまう。
資料の文字を見ているはずが、目の焦点がいつの間にかズレてしまう。
普段聞こえない心臓の鼓動が、やけにうるさい。
ページが、進まない。
明らかに焦ってしまっている。しかし、時間は有限だ。走り切るしかない。
2日後。
今回は無事にミーティングを終えることが出来た。
しかし、どっと疲れた。それに、前回のミーティングほどではないにしろ、足を引っ張っている気がする。
皆が私に合わせてくれている気がするのだ。
これもきっと、私の知識不足によるものだろう。
自分の机に戻り、再び資料を確認する。
ページをめくる手が、動かない。
目の前の景色が色褪せていくのを感じた。
「郁くん」
松信が声をかけてきた。
「君達には新しいことをお願いしている。自分で全てをやり切ろうという想いも大事だが、それでは君の身がもたない。全てをやる必要はないんだ。できないことは、できないで良い。そこは、出来る人にどんどん頼りなさい。リーダーの仕事は、皆をまとめて、結果に責任を持つことだよ」
「ありがとうございます」
人に頼る。苦手だが、確かに大切なことだ。
「君は明日、休みだろう。明日は、ゆっくり休みなさい」
翌朝。
7時に起床し、子供の食事を作る。
自分の朝食は、なんだか疲れていて作る気になれなかった。
バスを見送り、椅子に腰かけた。
「はぁ。ゆっくりしてて本当に良いのかな」
窓から見える空を眺める。
ガタッ。
頭が落ちそうになって目が覚めた。
時計を見ると、午前9時。1時間ほど眠っていたらしい。
ぐぅぅ。お腹が鳴る。
「こんなに疲れていても、何か食べたくなる。本能っていうのは凄いな」
テレビを見ながら、食パンを食べる。
「今日は雨が降りそうです」
天気予報のお姉さんの言葉が、また気持ちを落ち込ませる。
ふと、私の目的は何なんだろう。と疑問に思う。
こうやってご飯を食べることが目的なのか。
いや、これは本能であって、目的じゃない。
何だか余計なことを考え始めてしまった気がする。
家にいても気が滅入ってしまうようだ。
「気分転換にお店へ行こう」
入口近くの傘置き場に濡れた傘を立てかけ、有隣堂店内に入る。
ここも、私達が手掛けた比較的新しい店舗だ。
私のアイデアで作られた売場もあり、思い入れがある。
今日は生憎の雨だが、やはり本屋は落ち着く。
落ち着いた色調の内装と静けさ。本の匂い。
膨大な数の本が、ジャンルごとに美しく整然と並べられている。これを人の手で全て並べたと思うと圧巻だ。
「あっ、郁さん」
懐かしい声が聞こえた。
「岡崎さん。久しぶりですね」
昔店舗でお世話になった方と会えるのも、店に顔を出す醍醐味である。
岡崎弘子。彼女は文房具バイヤーだ。
「えっ、凄いじゃないですか。大きな新店開発の担当で、それも店長だなんて」
「凄いだなんて。ありがとうございます」
「この店舗も、郁さん達が携わったと聞きました。私、この店舗大好きなんです。文房具のコーナーも充実してるし。あと、児童書のコーナーも素敵です」
直接褒めていただけると、嬉しいものだ。
「あの児童書コーナーね、私のアイデアが採用されてるの」
「そうなんですか。えー、すごい」
そんな話をしていたら、岡崎は興味深い話を聞かせてくれた。
「私ね、いつか自分の本を出したいと思ってるんです」
「え、そうなんですか」
「はい。完成したら、このお店とその新しい店舗で置いてもらおうかな」
「そういうことなら、喜んで」
その後もしばらく世間話で盛り上がった後、1人で店内を散策した。
当たり前のことだが、そこには岡崎以外にも大勢のスタッフと、お客さまがいらっしゃった。
自分達の作ってきたものは、確かにこうして雇用を生み、本を買い求める人が利用し、たくさんの人の役に立っている。
それが実感できる瞬間だ。
「そろそろ帰るかな」
いつの間にか、心が軽い。
帰り道。何となく、傘の先で地面をトントンと叩きながら歩いてみる。
夕焼け空は、雲に反射して赤色とオレンジ色と黄色に見えていた。
「ふふふ」
何てことはない。自分達の作ったものが人の役に立っているから、頑張れる。とても単純なことだ。
だけど、こんなにも気持ちが軽くなる。
きっとこれが、私の目的なのだろう。
私は何かを発想するセンスはないし、欲しいとも思わない。
だけど、生み出すものは、会社が用意してくれる。
そして生み出したもので、喜んでくれる人がいる。
ならば、私にできることは、1つだ。
前に前に。今できることを着実に、丁寧に行う。
きっと誰かの役に立っていると信じて。
「よーし、頑張るぞ」
4年後
ある日。
副社長の松信が企画開発部のメンバーを会議室に呼びだした。
「youtubeやるぞ」
青天の霹靂。
ちなみに、今日の天気予報は「晴れのち雨」だった。
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