第58話 美しき狂気・中編3
「………………は?」
俺のそのたった一言によって会場に沈黙が訪れた。
リンファに至っては、ぱっちりとした目をさらに大きくし、口を半開きにしてフリーズしている始末である。
『――はあああああ!? ちょっとカズキ選手! 棄権とは一体どういう了見ですか!? なぜここまで来て!? なんでこのタイミングでぇ!?』
よほど衝撃的だったのか、ダーネット女史は実況の仕事を放棄してまで問い詰めてきた。それを皮切りに静まり返っていた会場から非難の声が散見されるようになる。審判員たちも混乱しているようだ。
「……どういうつもり?」
さっきまでの狂喜乱舞していた彼女はどこへやら、低い声で威圧するように冷たい眼差しを向けてくる。
「いやさ。俺の考えた策が尽く通用しなくて。あ、これもう勝てる気しないかも? っていうか? ダメなヤツかなー……って?」
「――ふざけんな!! こんだけ散々好き勝手しておきながら、このまま逃げ果せようだなんて虫のいいこと言ってんじゃあないわよッ!」
今度は声を張り上げて激昂してきた。その剣幕に気圧されそうになるが、なんとか踏みとどまる。
「それなんだけどさぁ。ぶっちゃけ、このまま幕引きってなった方がキミにとっても良いんじゃないかなって思うんだよね」
「……どういう意味よ」
今のところ手応えはバッチリだ。俺は彼女の怒りの炎に油をなみなみ注ぐよう、わざと軽い調子で答える。
「どうもこうもないさ。キミは今『散々好き勝手しておきながら』って言ったよね? それってつまり、“してやられた”って思ってるってことだろ? もしこのまま試合を続行したら、もっと“してやられるかもしれない”。ただでさえ恥を晒してるのに、さらにベタベタと上から塗り潰していくことになるぐらいなら、いっそここで打ち止めしておいた方がいいんじゃないかなー? っていう俺なりの親切心なんだけどなぁ?」
「なん……ですって……ッ!!!」
彼女の顔面に血流が集まり、今にも湯気が出そうなほど真っ赤になっていく。
煽りの言葉の数々に、観客たちも次第に俺の発言の趣旨を理解し始めたらしい。さっきとは打って変わって「いいぞ!」とか「もっと言ってやれ!」といった声が出始めた。
「それに『私の身体に傷をつけたのは名誉』って言ってたけど、全くもってその通りだと思うんだ。だってそうだろ? 今までの人生で他人に切り傷を付けられたことのない稀代の女武術家であるキミは、その実力を持ってして聖闘祭を制覇し、やがてエルスニアに何百年先まで語り継がれるであろう“最強伝説”を打ち立てていくことになる。……ところが、そんなキミに傷を負わせたほどの男がただ一人存在した」
「……ッ!!」
「たとえキミがこの先どんな武勇を打ち立てても、どんな功績を残したとしても。絶対に落ちない一滴の染み、それがこのカズキ・マキシマという男だ。俺はキミの輝かしい人生にミソをつけた唯一の人間として歴史に名を刻まれる。これ以上の名誉がどこにある?」
「貴様ぁ……ッ もういっぺん言ってみろぉ……ッ! その舌捩じ切ってやる……ッッ!!」
彼女は今にも飛びかからんばかりの勢いで睨んでくる。だが俺は臆することなくトドメの一撃をお見舞いしてやることにした。
「ああ! 誇らしいから何度だって言ってやるよッ! 俺はリンファの“初めてを奪った男”だってなァッ!!」
そう言い切って、俺は派手に笑ってみせた。
「――ッッッッッッ!!!!!!!!」
リンファはギリギリと音を立てながら歯軋りし、額には今にも破裂しそうな青筋が浮き出ている。そして今まで見たこともないような怒りの表情を。“般若の形相”を浮かべるのだった。
◆
『か、カズキ選手! な、なんと大胆な挑発なのでしょうッ! これにはリンファ選手も怒り心頭でありますッ!!』
「ぎゃっははははははは!! ひーっ!! ま、まさかの下ネタとは! 恐れ入ったさねぇ!!」
モルモネが呼吸困難に陥るほど大爆笑している一方、それ以外の者は皆一様にドン引きしていた。
「か、カズキぃ……」
アンナは顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯く。
「ちょっとやりすぎじゃねぇか? アイツ」
「……やりすぎだと!? やりすぎなんてレベルじゃないぞ!! カズキは曲がりなりにもお兄様の代理で出場していることを忘れたのか!? それなのに、あ、あんな……あんな破廉恥なことを! こんな大衆の面前でレディ相手に口走ってぇ!? この試合にはお兄様はもちろん、ボナハルト家の威信も少なからず掛かってるんだぞ! それに泥を塗る気か! ヤツはそこんとこ分かってるのか!? おい!!」
「ちょ、落ち着きなってクレアン様!?」
興奮して捲したてるクレアンを、クザは必死になって宥める。
「カズキさん……さすがにこれは……」
「ホッホッホ! 若いってのはいいのぉ」
「そういう問題でしょうか? ……まぁ、やり方はともかくとして。カズキさんのこの一手、なかなか悪くないですよ」
エミリィの真面目な語調に関心が集まる。
「どういうこと? エミリィ」
「カズキさんはわざと相手の神経を逆撫でし、怒らせるよう仕向けた。『トラッシュ・トーク』ってヤツですよ。カズキさんはリンファ選手に心理的な揺さぶりをかけたんです」
「……なるほどな。相手を挑発して怒らせ、冷静な判断力を奪うってのは有効な戦術だ。でもよ、リンファは何かと傲慢で舐めプが目立つ奴だったよな? だからヤツの場合、油断を誘ってから隙を突く方がよかったんじゃないか?」
「いえ、リンファ選手はカズキさんを高く評価し、認めたような節がありました。ですから彼女が慢心することはもう無いかと思われます。……なにより、彼女から“冷静さを失わせる”というのは即ち、“最大の武器を奪う”ことにも等しいはず」
「最大の武器を奪う?」
「リンファ選手の高い身体能力と武器召喚魔法を駆使した高度な白兵戦術はたしかに恐るべきものです。ですが、それらを十全に使い熟すにあたり、常に相手との距離感や状況などを的確に分析し、さらにその状況にマッチした武器を臨機応変に選択できる判断力。つまり、“柔軟な思考力”と“冷静な判断力”が必要不可欠のはず。だから怒りで平常心を失い、短絡的な判断しかできなくなったとしたら、“彼女のパフォーマンスは半分以下に落ちる”といっても過言ではない。……カズキさんも同じことを考えたのではないでしょうか?」
「ふーん? なるほどねぇ。でも、きっとエミリィちゃんの推察は正しいよ。見な、あのカズキの顔! してやったりと言わんばかりだよ!」
◆
(さすがにちょっと失礼過ぎたかも……。いやいや、これはれっきとした戦術の一環だ。気にすることはない。それに狙いどおり彼女を“逆鱗状態”にできたんだ。結果オーライだ結果オーライ)
そんな風に自分に言い聞かせながら、俺は強がるように不敵な笑みを浮かべる。そしてダメ押しとばかりに付け加えた。
「――とはいえ、これ以上俺に恥をかかされるのが怖くないっていうなら……。このまま試合続行しても構わないぜ?」
威勢よく言い放って再び剣を構え、戦闘態勢に移る。
これまでの一幕によって観客は完全にヒートアップしていた。渾身のトラッシュ・トークはこれ以上ないぐらい完璧に決まったといっていいだろう。
水魔法による感電作戦も失敗した。風影刃も通用しなかった。こうなってしまった以上、次に俺が取れる最後の手段。それは言葉で精神的に揺さぶりをかけ、彼女の力の源流である“判断力”を奪うことだった。
リンファは一見すると妖艶な態度でクールに振る舞っているようにも思えるが、その実“感情の振れ幅が大きくて激昂しやすい”性格だ。これまでの試合での様子を見て、そしてリーさんから語られた過去の一端を聞かされたことで確信に至った。現に、第一回戦でフルールを助けるためにアンナが乱入したとき、頑なに立ちはだかった彼女に対し、我を忘れて失格になることも厭わず手を上げようとしていたのだ。
(さて……、これで俺が打てる手は全て打った。正真正銘ネタ切れだ。ここからはもはや出たとこ勝負、なるようになるしかない……!)
いくら冷静な思考力を潰したとはいえ、本気になった彼女を相手に確かな勝算があるわけじゃない。むしろ遊びが一切無くなったぶん容赦が無くなったともとれる。だが、それでも出来ることはやり尽くした。ここまできたら、もうやるだけやってみるまでだ。
「……の……か……まえ」
ふとリンファを見やる。すると彼女は両腕をだらんと垂らして俯き、なにやらブツブツと独り言を呟いていた。激昂したかと思えば、今度は一転して無気力になっている。彼女の情緒の不安定さに薄気味悪さを憶えた。
「……なんだ? 一体どうしたっていうんだ?」
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